第12話 昔話(改訂版)

 晩秋の頃。中央王国の南方辺境伯領の領都は雨模様。日の出前から降り始めた雨は、正午に差し掛かる今も続いている。大粒の雨が領主屋敷の大きな窓硝子を叩く。精巧な透かし彫りの窓枠の向こう、手入れの行き届いた庭園、雨に煙る石造りの街並みが絵画のように見える。


「お待たせいたしました」


 屋敷の女主が、窓際から外を眺めていた如何にも魔女という身なりの少女に、やや低めではあるが、柔らかな声音で語りかける。


「この様子だと、雨は三日ほど続きます。この季節の領都らしい趣がありますでしょう?」


「秋雨至極。心寂うらさびしくも風情あり」


 そう応えると少女はゆっくりと振り返る。


 雨模様の外は暗く、窓からの光は昼間にもかかわらず弱い。室内は壁に設えてある魔導具の淡い光で照らされている。暖かな光に浮かび上がるのは、檳榔子黒色びんろうじぐろいろの大きな鍔ひろの三角帽子、ゆったりとした深みのある黒の外套ローブ、加えて体の線が強調されるような素肌に吸い付く夜会服は濡羽色。夜会服には、歩きやすくなるように深めの切れ目が大胆に入れられている。踵の高い腿丈の長革靴ブーツは、呂色で磨き上げられたような光沢を放つ。彼女が携えている杖は、長く大きな柄頭を備えていて、周囲の光を飲み込んでいるような闇を纏う漆黒色。全身黒ずくめの少女こそは、深淵の娘にして魔女の娘たるアデレイド。辺境の開拓地の冒険者組合長であり、王国の為政者たちからは無慈悲な魔女と畏れられている。


「初めてお会いしたときも、同じように雨が降っておりました」


 屋敷の主人の女辺境伯ヨハンナは楽しげな表情でアデレイドを見つめる。


 当のアデレイドが「然り」と口にして、思い浮かべるは果たして過日のヨハンナの事なのか、やや危うい。確かに、ヨハンナは彼女の魔術の高弟であるが、アデレイド自身は特別な感情を抱いている素振りはない。それでも柔和な笑みで貌を粧しつけて、久しぶりに対面したヨハンナを見つめ返す。


 ヨハンナは、暗めの金色の長い髪を、透かし編みの銀灰色の飾り布と翡翠の簪で、後ろに纏めている。豊かな髪、額は狭すぎず、生え際は綺麗に整えられている。卵形の美麗な輪郭に理想的な大きく印象的な吊り目に蒼天色の瞳。桃色かかった金色で艶やかな睫毛が、二つの瞳にけぶるようにうっすらと麗しさを添える。

 やや太めの眉は丁寧に長さが切り整えられ、毛並みも梳られており、眉頭から眉山、そして眉尻にかけても美しい線を描く。彼女の意志の強さの表れと感じられる。彼女の鼻は高からず低からず、鼻根から尖部まで背部がすっと伸びている。翼部は小さく均整のとれた形を成す。

 紅梅色の艶やかな唇、小さめの顎は丸みがあり、鼻尖から顎尖までを結ぶ線の内側が収まり、綺麗な三日月を描いている。きめの細かい白桃色の肌は張りと弾力があり、輝くように室内灯で浮かび上がる。下顎角から顎先までほっそりとして、贅肉や垂水などの気配すらない。


女伯殿ヨハンナは相も変わらず麗しい」と不老不死の魔女の娘が素直な感想を述べれば、然程の麗句ならずとも、ヨハンナはこの不器用な魔術の師匠の言葉を喜ばずにはいられない。


「執務にかまけて、魔術の修行が疎かになった所為でしょうか、些かふくよかになりました」と気恥ずかしさから戯言で返す。


「領民を想えばこそ辺境伯の勤めも亦蔑ろには不成」


 アデレイドがヨハンナの全身を眺め愛でれば、端麗たんれいというよりも艶麗えんれいであり、柔らかな曲線美が観る者を圧倒してしまうであろう。歳を重ねて、実に女主然として善きことと、アデレイドは喜びに感じ入る。


「然れども——」


 魔女の娘は過去の姿を思い出す。ヨハンナは、少女時代から痩せ気味で、辺境伯を継いだ間もない頃から、客人を迎えるための装いとして、引き裾が長めのゆったりとした豪奢な衣装ドレスを身に纏っていた。それは領主の貫禄や威厳を醸し出す為。

 南方辺境の特産の藍錆色の染料で染めあげた絹糸の布地で複雑に仕立てられ、丁寧に仕上げられた衣装。胸元は大胆に広く、首筋から胸元までの優美な曲線を散りばめられた宝石と首飾りで引き立て、更に格調高い毛皮の肩掛けショールで変化が付けられていた。袖や裾には過剰な程の透かし編みの飾り布が奢られているのが王都の社交界の様式で当世流。腰は絞られているが、ドレスの裾はふんわりとして、広がりすぎることはなく、花の蕾のような佇まい。

 未熟なりに領主としての責務を担う覚悟の表明であった。今にして微笑ましさを覚えつつ、目前の姿態を浮かび上がらせるヨハンナの黒衣を見遣る。


「藍錆も瑶として似合うが、女伯殿ヨハンナには黒もまた善き味わい哉」


「今は南方辺境の女主ではなく、の一人の弟子にございます」


 ヨハンナは気恥ずかしさから俯いてそう応えた。今此の時は、敬愛してやまない魔術の師匠であるアデレイドと二人茶会であるからこそ、豪奢なドレスは身につけず、亭主役として黒を基調に動きやすい服装を選んだのであった。主客のアデレイドはいつも黒尽くめ。師匠に気を使って色味を合わせた。

 加えて辺境伯の爵位を継ぎ初めての饗宴の際にアデレイドから贈られた銀糸の飾り編みの肩掛けショールを身につけている。それはアデレイドの手作りの魔導具。時を経ても古びるようなことはない。


「其は慥かなれど——」


 アデレイドは、魔術を極めた、という言葉を呑み込んだ。魔術の極みは人の身で乗り越えられない。ヨハンナは人の身において、彼女の魔術を識る高弟と呼べる存在たり得るが、しかし——其処で詮無きこと、深淵の娘にして魔女の娘は数多の弟子の思い出を手繰ることを止める。数拍の後、話題を変えた。


「二人のお子は壮健なりや」


「御ませな年頃です。些か手を焼いております」


女伯殿ヨハンナのことゆえ乳母を抱えずに手づから育み給へるか」


先先代様御婆様先代様御母様に習いました」


 彼女が辺境伯の地位を継いで一〇年。しかし周囲の人間に年齢を全く感じさせない。ヨハンナの血筋は不老の家系とも噂されている。一族の者たちは何れも身罷るまで見た目の若々しい姿を保っていた。彼女も例外ではなかった。二人の子にも恵まれた今でも婉麗さを纏いつつ、未婚の若き女性という印象は変わらない。アデレイドは、彼女の立ち居振る舞いを眺めながら、彼女の祖母であった先々代の女辺境伯を思い出した。


「——生き写しの如し……」


 見た目ではない。彼女の魔力の流れは、先々代の女辺境伯と全く同じである。アデレイドは嘆息した。


「こちらにお座りください」


「忝い」


 女辺境伯ヨハンナは立ち上がると自らお茶を淹れる。茶器、薬草茶ハーブを入れた瓶、それに急焼ポットなど、お茶会のための道具が三段式の手押し台ワゴンに乗せてある。お茶請けの色とりどりの小さなお菓子が重ね皿の上に綺麗に並べられている。客間女中パーラーメイドは下がらせたため、給仕する者は居らず、女辺境伯ヨハンナが自ら慣れた手つきでお茶の準備に取り掛かる。

 小ぶりの瓶の中は、加密列カミツレ浜茄子の実ハマナスの実薄荷葉ハッカヨウ姫茴香の実ヒメウイキョウの実弟切草オトギリソウ薫衣草クンイソウ金盞花キンセンカなど。彼女が選んだのは、加密列、浜茄子の実、姫茴香の実それに弟切草であった。それぞれを小さじで急焼に入れると、熱いお湯を注ぎ蓋をした。寸分置いて冷ました後、茶器に注ぐ。色取り月九月の薬草茶の香りが部屋に漂う。

 椅子をすすめられたアデレイドは、近くに杖を立てかけ、帽子とローブを宙に浮かせると、それらを次元の間に仕舞い込んだ。暫し間、豪華な椅子に大人しく座っていたアデレイドの前にお茶が差し出される。


 茶器から立ち上る香りを確かめるように口元に運び一口飲む。


「この風味は素晴らしい」


 アデレイドから笑みがこぼれる。


「薬草畑の手入れは、庭師任せとは参りませんので、自ら手を入れております」


 術者による薬草の育成。理想的な薬草が収穫できることが保障されたようなものである。


「爵位を継がれようとも趣味は不変かわらず。実に善き哉」とアデレイド。


 そう言われて女辺境伯ヨハンナは含羞むような微笑みを浮かべた。


「どうぞお菓子もお取りになってください」


 勧められるまま、アデレイドは、のようなお菓子を手に取り、ひと口齧り、噛み締める。アデレイドは一瞬だけ目を見張ると感心したように頷く。


「この風味を出せる者は殆どいなくなりました。寂しい限りです」


 窓を背に微かな雨音を聞く。アデレイドの周りの時間の流れが緩慢になる。目の前の女辺境伯ヨハンナが一枚絵のように映ると先々代の面影が重さなった。


「御婆様には書き写すのではなく、心に刻むにように申し付けられました。他の方々もそうなのでしょう。口伝というのも良し悪しです。言い伝えなどは徐々に褪せてしまいます」

 

 女辺境伯ヨハンナは少々不満げに溢した。


 様々な薬草や香辛料を用いる魔女の薬箋レシピを実践する際、最も難しいコツは口伝によって伝えられる。曖昧な配合比もさることながら、素材の混合せに不可欠な魔力、その注ぎ方などがそうである。こればかりは、魔力の質や量、持続時間や振り幅、など個人差が大きく、文章を通じて教えられる事ではない。学習者が自ら加減を会得するものだ。アデレイドは先々代の女辺境伯に様々な薬箋や調理法を伝授した日々を思い出していた。


『アデレイド様。アデレイド様。驚きです。先ほどまで酷い匂いだったのにとても良い香りに変わりました』


 驚嘆に値するほど筋の良い弟子であった。幼かった頃の先々代が目を丸くして驚き喜ぶ様が脳裏に浮かぶ。懐かしい。アデレイドは顔を綻ばせながら女辺境伯ヨハンナに応える。


「個々の素材を検めれば、毒薬の調合と大差無し。是非も無き事」


 そう言ってアデレイドは小さく笑った。


 コツを掴むまでは大変で、一度掴めば、容易に再現可能なのだが、掴めない者は何十年かかっても毒菓子しか作れない。女辺境伯ヨハンナには魔力操作や呪文を教えたが、薬箋や薬膳については教えたことが無かった。先々代は極めて巧みに孫に薬箋を伝授したようだ。そもそもお菓子作りなどは家族が伝えるべき事だ。


「そういえば——」と女辺境伯ヨハンナが何かを思い出す。


 彼女はアデレイドと先々代が薬草茶を楽しむ過去の情景を思い浮かべた。


「子供の頃、お婆様に戒められて、アデレイド様の昔話を拝聴することが叶いませんでした」


 女辺境伯ヨハンナに応えようと、アデレイドは記憶を遡り、いつ頃のことだったのか、何を話したのか、暫し瞑目した。ああ、そうか——と思い出を手繰り寄せた。先々代が子供時代にアデレイドのに為らざるを得なかった事由。四代前の辺境伯に見染められる前の事件、その騒動の顛末のことだろうと当たりがついた。


「幼子には酷薄で残忍な事柄ゆえ、先々代様の気遣いに相違無し」


 二人茶会の部屋には、一人分の席が空いていたが、そこに先々代の優美な姿を幻視することになった。なるほど椅子の配置に意味があったのか、とアデレイドは納得した。


「あの時の話をして頂ければ、雨の日の慰めにもなりましょう」


 女辺境伯ヨハンナが二杯目のお茶を出す。そしてのような果物の菓子を薦める。彼女は、子供の頃に大人同士の話だと、部屋を出されたことが悔しかった、という記憶をなぞった。


「此処の地に冒険者組合を設けた頃。先々代様ヨハンナの御婆様がまだ幼き頃」と優しげな笑みを浮かべながら、物騒な物語を語り始める。


 アデレイドの物語はこうであった。


 今から八〇年前のことだ。中央王国の南方の辺境伯領に国境を接する南洋都市国家同盟の不正規部隊数千人が、五〇程の小隊に別れて、辺境伯領に侵攻したことがある。越境して二週間、目立った攻勢もせず、彼ら不正規部隊は三〇の拠点とその拠点を繋ぐ連絡網を構築した。

 当時の同盟にも其れなりに目算があったようだが、第三者が顧みれば、杜撰としか言いようのない計画であった。不正規兵が複数の開拓地を同時多発的に襲撃することで、辺境伯の守備隊を領都から引き剥し、その隙を突いて、国境付近まで密かに展開していた軽騎兵を主力とする機動部隊によって領都を急襲する、という代物であった。

 同盟の主力を率いていた敵将は、浸透した不正規部隊の体制が整ったと判断すると、陽動と物資調達を目的に辺境の開拓地の村の一つを襲撃させた。小手調のつもりであったのかもしれない。しかし、その翌日、同盟軍の状況が一変した。

 不正規部隊は、魔女の森に広範囲に展開していたにもかかわらず、全て同時刻に石に変えられた。それだけでは終わらず、主力部隊の野営地の前、石化した不正規兵士が綺麗に整列させられていた。しかも主力を率いていた将軍は、首を落とされ、素っ裸で、石の兵隊たちの前に佇んでいる状態で発見された。当時、野営地の歩哨にたっていた兵士は、夜明け前の一瞬に突如として目の前に石の兵団が姿を現した、と恐怖の表情と共に同盟の人民に語り伝えた。

 敵主力の将軍の尻には、まるで家畜のように、アデレイドの紋章が焼き刻まれていた。醜く肥太った中年の男を裸に剥くことなどアデレイドの趣味ではない。偶々、追軍娼婦を侍らせながら惰眠を貪っているところを襲っただけだ。

 主将を失い、別働隊を石に変えられた同盟の兵士たちは、深淵の娘にして魔女の娘の圧倒的な殺意に晒されて恐慌状態に陥った。軍の指揮を引き継いだ次将は、辺境領都に侵攻するどころではなく、主力を引き返さざるを得なかった。直ぐにでも撤退しなければ「自分たちも石にされてしまう」そう考えた。そもそも彼は、この軍事侵攻には反対の立場にあった。戦わずして主将を失い、敗残兵となった主力を率いて、本国に引き返すことになった。敗戦の責任を取らされるだろう。気の毒としか言いようがなかった。


 気の毒な人物——こちらは自業自得というべきであろうが、アデレイドの怒りに晒された——がもう一人いた。


 南洋都市国家同盟の侵攻軍が潰走した朝、王都の冒険者組合本部の本部長の寝室に同盟の将軍の首が打ち付けられていた。本部長は血まみれで目を覚ますことになった。この男は、常日頃から公爵や辺境伯とは対立していた。国王に権力を集中させようと画策する法衣貴族たちの中心人物である。辺境伯領の魔女の森など厄介事に過ぎず、同盟にくれてやっても惜しくはない、と常日頃から公言して憚らないような人物であった。

 同盟の不正規部隊が辺境開拓地の村を襲撃した日時に、偶々、アデレイドは王都の冒険者組合本部長の呼び出しに応じて辺境の開拓地を離れていた。辺境伯の盟友とも呼ばれる開拓地の冒険者組合長にして深淵の魔女アデレイドの不在を突いて敵国が戦を仕掛けてきたのだ。偶然とは侮り難いものであるが、この偶然は全く信用できない。アデレイドの怒りに任せた報復は、不条理な意趣返しに見えなくもないが、この騒動の真相を撃ち抜いていた。当然至極。そして今回の同盟の軍事侵攻の背後で画策していた王国の裏切り者たちへの警告となった。


 侵略者と裏切り者たちの不幸は、同盟の不正規部隊が襲撃した村に、アデレイドが目をかけていた子供たちが住んでいたことだった。魔女の娘である彼女が自ら魔術を教えるほどのお気に入りの子供たちだった。

 そもそも魔女の娘たちは、人の営みには無関心である。人同士の戦争にも、人と魔物との生存競争にも、全く興味がない。魔女の娘たちは、この世界の理から外れた力を保有してはいるが、人にも魔物にも組みすることはない。

 稀に気まぐれで人と関わることもあるが、極々、短い期間である。そして大抵の場合、関わりを持った人間は破滅する。魔女の娘たちは害悪をもたらすつもりはない。関わった人間を積極的に破滅に導くこともない。関わりを持った人間が欲に溺れて自滅するだけだ。

 そんな魔女の娘たちの中で、アデレイドだけが例外であった。彼女は人間を愛でることを趣味にしている。辺境の開拓地で汗を流す人々を愛おしいと思ったからこそ、彼らの為に冒険者組合を設立した。無限の時を過ごす彼女の憂さ晴らしなのかもしれない。

 この騒動では、彼女が溺愛した子供達が政争によって見捨てられ、同盟の不正規兵たちに嬲り殺された。難を逃れ、生き延びたのは、当時まだ幼子であった先々代の辺境女伯ただ一人。


 同盟も王国の裏切り者たちも許せるわけがなかった。敵対した人々の記憶に無慈悲な魔女アデレイドの名前を刻み込み、自分のものに手出しすれば只では済まされないことを知らしめたのだ。


 昔話を終えると、アデレイドは言い添えた。


「昔も今も厄介事の類いなれば——」


「南洋都市国家同盟の侵攻ですか?」と女辺境伯ヨハンナが応える。


「御賢察恐れ入る」


 女辺境伯ヨハンナに対し、アデレイドの言葉遣いは丁寧ではあるが、高位貴族と対面しているような気遣いは一切ない。そもそも人の世の理から外れた存在であり、俗世の決め事など気に掛けることもない。当然、爵位持ちとの面会に必要な段取りなども飛ばすことに引け目も負い目もない。中央王国の王族に対しても同様である。一部の法衣貴族たちには頗る評判が悪い。

 女辺境伯ヨハンナの方も慣れたものである。何よりも子供の頃からの魔術の師匠。アデレイドには絶対的な信頼を寄せており、無礼な振る舞いも気にならない。

 雨天に突然の訪問、その目的は、女辺境伯ヨハンナに領都と南洋都市国家同盟との国境線——魔女の森に隣接する地域——での動きが怪しくなったことを伝えるためであった。弟子の顔を見ながらお茶を楽しむというのも悪くはないのだが、アデレイドには午後の時間を優雅に過ごすという習慣はなく、暇さえあれば魔導具を作っている。昔話をするために先触れもなく、領主の館を不躾に訪問した訳ではない。


 「戦に備えよ」


 そう一言伝えれば、用件は終わる。勿論、手紙で済ますこともできるが、途中で偽装される恐れもあるので、転移の術で本人の前に姿を現すことにした。


 胆力に優れた女辺境伯ヨハンナと彼女の有能な伴侶が状況を掌握し、策を講じて南洋都市国家同盟の侵攻に備えるのであれば、遅れをとることなどあり得ない。

 実に簡単な用件であり、一寸立ち寄る程度のことであった筈。しかし、アデレイドが女辺境伯ヨハンナの前に現れた時、女辺境伯ヨハンナが執務中であったことと、師匠のためにお茶を振る舞いたいという強い要望により、この客間に通された後は、随分と待たされることになった。先触れの有用性を実感したひと時を過ごすと、こうしてお茶を頂きながら昔話を語ることになった。


「性無く懲り無し」


 アデレイドは漸く用件を伝え終えた。次手とばかりに南洋都市国家同盟の指導者たちのことを論う。


「定命の者は、直ぐに言い伝えを忘れます。とりわけ、不都合なことは史書からも抹消します」と女辺境伯ヨハンナが応える。


 敬愛する師匠に追従したわけではなく、単に事実を指摘しただけであった。南洋都市国家同盟は、辺境伯領を掠め取らんと、虎視眈々と機会を窺っている。同盟の領地であったことなど一度たりともない領域をと強弁し、何度となく侵攻を試みては、撃退されるという醜態を繰り返し晒してきた。中央王国の軍勢に撃退されては恨みを積み重ね、今や中央大陸において、反王国の筆頭と呼べるような存在に成り下がった。

 もっとも同盟という名称の通り、都市国家間の緩やかな合議体であり、隙あらば互いの足を引っ張り合う土地柄で、同盟関係を保持する為に常に外敵を必要とするような脆弱な合従に過ぎない。

 彼らは、強兵として知られるような組織体ではないが、金品や美人を使った調略に長けており、また難民を装った間諜を数世代の時をかけて浸透させたりと、敵対勢力を内から腐らせる謀略を仕掛ける。その手並みは芸術の域に達していた。豊かな土地を取り戻すべく、切歯扼腕、子々孫々に至るまで、捏造した恨みで黒く塗りつぶすような教化を施し、謀略の術を磨くことに余念がない。その歴史は優に三百年を上回る。同盟の人民が辺境伯領を欲することはもはや本能と言っても差し支えない。


 八〇年前にアデレイドから手酷い報復を受けて以降、随分と温順しくなり、また中央王国内の造反者——同盟の協力者たち——も鳴りを潜めた。辺境伯領では魔物の氾濫以外は、人間同士での大規模な争いもなく、ある意味で平和な歳月が続いた。持たざる者と持てる者との違い無く歳月が過ぎ去る。

 己の不遇を嘆く持たざる者は、記憶を歪め、恐怖心を薄め、造られた憎しみを激らせた。魔物の脅威と常に隣り合わせとはいえ、持てる者の生活は常に豊かであり、国家間の戦争も絶えた中、敵意の存在に疎くなる。

 世は残酷であるが美しく、そしてはないと感じることも宜なるかなとはいえ、平和呆けの謗りは免れない。魔女の森の恩恵にあずかり、豊かな地である辺境伯領は、国内外から羨望と嫉妬の眼差しに晒され、油断すると奪われる。豊かであるが故に常に備えるべきなのだ。


「私の夫は法家です。官吏としては有能ですが、戦場で兵を指揮した経験はありません。夫の出自は戦には縁のない家系です」


 この辺境を治める伯爵家の当主は、三代にわたって女性が継いでいた。男児が産まれなかったためである。子爵家あるは同格の伯爵家の三男や四男を入婿として迎えて、血を繋いできた。彼女の伴侶は、子爵格の法衣貴族の三男であり、彼女が王都で勉学に励んでいた頃、同じ学舎の一年先輩であった。この世界では珍しく、恋愛で結ばれ、婚姻まで至った。辺境伯家としては、格落ちに繋がりかねないような婚姻ではあるが、当時の女伯爵、彼女の母親もまだ存命であった先先代も大変喜んだ。彼女たちは、政略結婚で味わった失望という苦味を、自分達の子や孫であるヨハンナには経験して欲しくなかった。

 婿として迎えた男の見栄も然る事乍ら、官吏としての実務能力が高く、また民草を差別しない心根の良さも大いに評した。実際、民間防衛という領域では、優れた手腕を発揮しており、他国や他領の指導者の思惑に領民が踊らされることはない。騒乱や混迷、所謂社会不安が除かれた状態こそが平和なのである。婿入り後に領都の治安は更に安定し、領民たちの生活の豊かさに拍車がかかった。


「女伯殿も婿殿も王都で兵学を学んだ筈」


 無頼漢や夜盗ばかりを相手にしていては、領主麾下の騎士団といえども官憲程度に堕してしまうのかもしれない。常在戦場とは響きは良いが、八○年を越える年月で平和が続けば、実感が伴わない。戦場を駆け巡り、命を的に兵を率いる経験は、根底から人をかえてしまう。激戦を戦い抜いた猛者が身に纏う戦の匂いを座学で身に着けろと言われても元来無理な話だろう。権威や権力だけではどうにもならない。兵が死地において怯まずに戦えるのは、歴戦の猛者に導かれているからこそ。


「お婆様よりも前の時代であれば、も多くありましたので、戦慣れした兵も多く、領都の兵団は古兵と言っても過言ではなかったと思います」


「平和も過ぎたるは及ばざるが如し。平和に堕するとは悪しき言い様なれど、戦を忘却すれば戦神の忌諱に触れん」


 アデレイドは、椅子の背もたれに深く身を預けると、過剰なまでの柔らかさを感じた。視線を空に遊ばせた後、弟子の若々しく美しい顔に向けた。

 女辺境伯ヨハンナはアデレイドの弟子として確かに優れた術者である。神々との約定に背こうとも、深淵の魔女アデレイド魔術を用いることで、数百人程度の軽装歩兵であれば、あっさりと撃退するであろう。

 では数万人規模ならばどうか?数十キロにわたる戦線の同時侵攻に対処できるのか?女辺境伯ヨハンナの子供たちも同じように優れた術者たりえるだろうか?

 所詮、人の身、一人で戦える時間や場所は限られている。騎士や術者の一騎打ちで戦が決まるなどという、不調法な吟遊詩人が好むの英雄譚のような戦場は、今となっては何処を探しても見当たらない。戦の技術は進歩し、集団総力戦の様相を呈してきている。平時から備えを怠ることなく、戦時には領内一致団結して戦えるように諸々整えねばならない。時代は変わりつつあった。

 アデレイドによる同盟への報復は、時代の潮流を一時的に押し留めたという点において、辺境伯領に悪しき前例を残したのかも知れない。


 数瞬のうちに思いを巡らした後、アデレイドが言った。


冒険者組合ギルドに戦上手在り。護衛依頼やら何やらで糊口を凌ぎつつ惰眠を貪りておる。生来、低位に甘んじるべからず——」


 冒険者たちろくでなしどもの落胆とも言い難く、呻きなのか唸りのか判然としない声を耳するであろう兆しが脳裏に浮かぶ。だが構わずに言葉を続けた。


「見栄えは冴えずとも戦働きは請け合わん。仮に戦支度に入用あれば、妾の組合ギルドに申し付け給え。直ぐに彼奴等を向かわせん」


 人の世は人の理に従うべき。人は与えられることに慣れてはいけない。アデレイドはそう考えた。己の弟子である女辺境伯ヨハンナ師匠アデレイドの広域殲滅魔術による同盟軍討伐を求めることはないだろう。


「ありがとうございます」


 女辺境伯ヨハンナは一礼して、満面の笑みを湛えた。


 こうして、南洋都市国家同盟の軍事行動から女辺境伯の領地を防衛するため、アデレイドの麾下で無駄酒を飲んでばかりいる草臥れた冒険者たちろくでなしどもが戦場に引っ張り出されることになった。戦の狼煙が立ち上るのは、この二人茶会から一年半ほど先の未来の話だ。

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