第4話 三条の滝の大岩
この滝の裏側に迷宮の入り口がある。滝筋に加えて、滝壺から湧き立つ薄雲のような細かな水飛沫が迷宮の入り口を覆い隠している。迷宮の入り口につながる小道は、青々とした草が繁茂しており、魔物の踏み跡は見られない。迷宮が休眠している証だ。
——五ヶ月経過でこの有様。一体何が起きている?
魔女の森の迷宮であれば、規模の大小にかかわらず、三ヶ月程度で迷宮核が復活し、迷宮主と呼ばれ、迷宮核を守護する魔物も錬成される。そうなれば迷宮低層の魔物たちは屡々迷宮外に彷徨い出てくる。迷宮の魔物が通った跡は、周囲の草木が黒枯れを起こすので、冒険者であれば直ぐに其れだと判る。
——聖女様の御技であれば好都合だが……
キースは滝の入り口から手元の地図に視線を移した。使い古された羊皮紙の地図には、三条の滝と目印の大岩、それに目的の縦穴までの道が記されている。大岩までの距離も位置関係も全て正確だ。
「大岩近くの縦穴を使って、最深部に一直線に降下するところまでは問題ないが、迷宮最奥の玄室(迷宮核の安置所)の換気口……いや俺たちにとっては出入口。あの狭さが厄介だ」とキースがカネヒラに同意を求める。
カネヒラは地図を覗き込みながら「
「キースは痩身だし、俺は小ぶりだ。ジェフリーさんが突入することはない」とカネヒラはお気軽である。
一方、心配性のキースはじっとカネヒラの瞳を覗き込む。彼は時々この様にして不満を表明する。カネヒラも慣れたもので戯けながら続けた。
「新しい巻取機を使うのだろ?玄室からの引き上げはすぐに終わるさ」
カネヒラはキースの肩をポンと軽く叩く。
——このおっさんには敵わん。
キースは迷宮に持ち込める小型の巻取機と特殊な金属製の巻梯子を鍛冶屋に作らせた。今回の仕事でお披露目となる予定だ。
迷宮への脇道を左手に眺めながら、キースたちを乗せた幌馬車は、川の上流へと続く山道を奥へと奥へとゆっくり進んだ。三条の滝を過ぎ、ゆるい上りを徒歩と大差ない速さで、四半刻ほど進むと目的地の目印となっている大岩に到着した。山道は大岩の右手へと曲がり更に丘陵地へと続く。魔女の森を迂回するように街道が造成されていた。
三条の滝の大岩は、露出している部分が楕円錐台形で、高さが凡そ二〇〇
何故、この大岩が磨かれたように美しく輝いているのか、学者ならいざ知らず、一般の冒険者たちが理由など考える筈もない。誰も不思議だとは思わない。ここは魔女の森だ。だが——
——何事にも理由はある。
そう思った刹那、組合長が偶に呟く違和感の残る成句が、キースの脳裡に浮かぶ。
『如何あれども斯く在れば然に有り』
一種の思考停止ではあるが、思考の経済という点では優れており、何故という問いかけが意味を成さない事物というが魔女の森には無数に存在している。あれやこれやを考えていてはキリがない。何はともあれ、それでいいということだ。
ため息を一つ。キースは大岩の岩肌が鏡面であることを思考の埒外に追いやった。
山道から見える範囲に深い茂みは無く、大岩の周囲は丈の短い一年草、スズメノカタビラ、カヤツリグサやカタバミなどに似た雑草で覆われていた。
ジェフリーは幌馬車を大岩のすぐ側まで乗り入れた。彼が幌馬車の制動器を動かして停車させると、素早い動きで、カネヒラが幌馬車から降りて、慣れた様子で輪止めを設置する。
カネヒラが視線をあげると、キースが幌馬車の側面に備え付けてあった大鎌を取り外して、幌馬車の周囲の草を刈り始めていた。
「もう一本あるよな?」とカネヒラが声をかけるとキースが牽引車の方を指差す。
カネヒラは頷き、先ず荷車に近づくと牽引車の台車の下に折り畳まれていた固定脚を引き出し、台車の制動器を締めた。しっかり固定されたことを確認してから台車に上り、車箱の側面に止めてある草刈り用の大鎌を手にして、カネヒラも雑草を刈り始めた。
「そういえば……」
黙々と雑草刈りに勤しんでいたカネヒラが口を開く。
「聖剣は持ち主が死んだら聖なる台座に戻るという噂があるが……」
「そいつは正教会のでっちあげだ」
ジェフリーが食い気味に応える。正教会嫌いはいつもの通り。ぶれることはない。嘗て中央国の人々から英雄と讃えられたほどの男である。正教会上層部と関わっていないわけはない。巡り合せの悪さが原因で拗れてしまった正教会との関係は悪化する一方だ。日頃は寡黙で温厚な男が正教会に対する過剰なまでの嫌悪感を表す。
カネヒラは大鎌の歯を地面に、柄を鳩尾の辺りに引っ掛けて、キースに肩を竦めて見せつつ、ジェフリーの発言を肯定した。
「虚栄、虚飾、虚偽、虚喝、全てが嘘で塗り固められた虚構とまでは言わないが、勇者に関わる事柄は全てが胡散臭い」
キースは、草刈りの手を止め、暫しジェフリーの動きを目で追った。不機嫌さが全身から滲みでているように感じられた。大丈夫なのかと凝視すると、視線が交差した。
——ジェフリーさんは元勇者だもの……
気遣わしげなキースの表情。ジェフリーは、年若い仕事仲間に宥められたことに気づき、苦笑いを浮かべる。湧き上がった怒りを抑えられなかった。それは恥ずべきことだった。
馬たちの低く短い嘶き。前足を掻く音。早く外せとの催促に応えて、ジェフリーは止まっていた手を再び動かす。幌馬車の轅を馬具の留め金から外し、続けて軛に相当する器具も馬の背から外し終えると、二頭の馬は解放感から首をぶるりと震わせた。
「勇者、聖女、それに賢者がこんな辺境の迷宮で死んでしまうような
ジェフリーがポンポンと馬の肩先のあたりを軽く叩く。馬が呼応して頭を数回上下させる。
「何故、現実とは斯くも厳しいのか」とキース。
——御伽噺なら俺たちの出番は無い。
「そうだ。これが俺たちの現実。何度となく繰り返されている。
ジェフリーは、牽引用の鞍を固定する革帯をするりと外しながら、正教会を批判し続けた。彼は馬から外した鞍を軽々と持ち上げ、幌馬車の荷台に収納。馬具から開放された馬たちはさらに機嫌が良くなったようだ。
——ジェフリーさんには悪いことをしたかな……
ジェフリーから視線を外して草刈りを再開する。天幕設営に必要な広さを確保したところで終了。刈り取った草を一箇所に集めると馬たちが近寄ってきて、山積みとなった草を食み始めた。
「それがいいのか?」とジェフリーが話しかけると肯定するように二頭の馬が鼻を鳴らす。彼は野積みされた草の横に水を満たした桶を置く。それで馬たちの居場所が定まった。
ジェフリーは拠点設営時に馬を繋ぎ止めずに放ったままにする。急に驚いで逃げるようなことはない。
馬の様子を確認していたジェフリーにキースが尋ねた。
「魔道具の焜炉が見当たらないけど……」
組合長謹製の炊事用加熱器のことだ。
「ここは魔女の森だ。大魔女様に祈りを捧げれば、薪は使いたい放題だろ?」とジェフリーが答える。
——それもそうだ。
三人は、雑木林に入り薪を集める。そのついでに
暫くして、十分な薪と竈用の石を集め終えたキースたちは、天幕の設置場所を円匙で整地した。キースとカネヒラは天幕を、ジェフリーは竈を設置する作業に取り掛かった。
キースが幌馬車から円筒形に丸められ、索紐で繰られた天幕を担ぎ出し、平に均された地面に置く。カネヒラが、幌馬車の側面から脚立を外し、天幕の設置場所まで運ぶ。
「では、広げますか」とキースがカネヒラに声をかける。カネヒラも「おう」と応えて、直ぐに天幕の索紐を解き始める。
二人は協力して天幕を、小枝や石ころが綺麗に取り除かれた地面に広げた。途中、カネヒラが、天幕と一緒にまとめていた皮袋——天幕の裾を固定するための
「キースはこちら側ね」と言いながらカネヒラは二本の鉤杭をキースに渡し、天幕を挟んで反対側に移動する。
天幕の裾端の六つの角には、真鍮製の
「支柱を」とキースが二つある天幕の頂点の一つを持ち上げると、カネヒラが支柱を内側から差し入れて垂直に立てる。
「残りも内側から立てるぜ」
カネヒラが、天幕の残りの頂点も同様に支柱で持ち上げて、棟上げ作業は完了した。
「ズレはなし」キースは笑顔を浮かべる。
「それじゃ親綱を付けるか」とカネヒラが、天幕の妻側に立てた脚立に登って、支柱の端に索紐を結び始める。
二本の支柱には、大棟が大きく撓まないよう、また全体が安定するように、中心から外側に向かって、十分な張力を掛けねばならない。キースとカネヒラは、妻側に設置された杭と親綱を繋ぎ、自由金具で親綱の張り具合を調整した後、各々の妻側の角の鳩目を、外側に引っ張って、鉤杭で留めた。
天幕の七つの縫い目が、一つの大棟と六つの下がり棟を成し、棟高六
強風の対策として、隅棟に縫い付けられた索目——
「一仕事おえたな」とカネヒラが満足げに頷く。
「いや。まだだよ」とキースが応じながら、皮袋から丸杭を取り出し、反時計回りに天幕の裾を留め始める。
「はいはい」と言いながらカネヒラも時計回りに作業を進める。
天幕の屋根、二つの
キースとカネヒラが天幕を設置している間、ジェフリーは長方形状に石を積み、天幕の平側の出入り口に正対するように竈を作った。
入り口から見て奥側、竈の背後、差渡二吋、
同じように二本丸太を挟み込んでは、蔓草で縛り止める作業を四回繰り返して、竈用の熱反射板を設えた。
竈の近くには、枯葉、木の皮、枯れ枝、それに倒木から切り出された十分な量の薪が、防水布の上に積まれていた。それらの上には、正方形の覆い布が、二本の支柱と鉤杭と索紐を使って、片流れ屋根の様に広げられていた。雨避けのためだ。
ジェフリーは、スギの皮を繊維状に揉み解してシラカバの皮の上に乗せて焚き付けを作った。立ち枯れたスギのから切り出した薪を手斧で棒状に割り、小刀で表面を丁寧に削って鳥の羽根のように毛羽立たせた。これを三本用意した。
竈の奥に、枕木にする大きめのブナの薪を置き、毛羽立てた薪を閉じ傘のような形状に立て、その周りを枯れ枝で囲んだ。
火打ち石を使い、焚き付けに火花を落とし、拾い上げて、息を吹きかければ、煙が立ち上り、炎が揺らめきたつ。火口を素早く、組み上げた枯枝の下へと差し入れれば、勢いよく炎が立ち上がる。
太めの枯れ枝を次々に追加し、炎を大きくする。更にマツの木の薪を細く割ったものから太いものへ、徐々に火を移し焚き火を育てる。マツは、油分が多く、繊維の密度が低いので燃えやすい。十分な高さの炎が上がれば、ブナの薪——密度が高く、燃えにくいが火持ちの良い薪に切り替える。
ジェフリーは、ブナの薪を放射状に並べながら焚べて、熾火となる様に調整しつつ、竈の両端に鉄の三脚を設置し、鉄鍋や鉄瓶を吊す鉄の棒を差渡した。
キースは、ジェフリーが熾火を育てる様子を見ながら、天幕の平側、竈に面した側が戸口となるように、釦どめされていた天幕の一部を外し、二本の支柱で、その裾を持ち上げ、庇を広げた。カネヒラが折り畳み式の食台と椅子を幌馬車から運び出し、庇の下に設置。続けて、三人分の簀子のような簡易寝台を運び入れ、敷布と掛布用の毛布——巻物のように丸めて革紐で括られた——を無造作にポンポンと置いた。
キースたち三人の手際は悪くない。それほど時間も掛かることなく、日暮れ前には野営地が完成し、彼らは夕食の準備に取り掛かることができた。
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