第3話 往路(改訂版)
冒険者組合に併設した酒場での話合いから二日後。キースたちは回収依頼の準備を整え、出発の日を迎えた。冒険者組合の前には二頭立ての四輪の幌馬車に牽引される車箱。キースは出発作業を進める。
早朝の澄み渡る空。初秋に差しかかり、やや肌寒さを感じさせるが天気は上々だ。しかし気分は冴えない。
「蒼い空は高く、風は清らかだけど……」
普段ならば、仕事開始直前には気持ちの高まりを感じるが、今回はどうにも勝手が違う。正教会からの依頼というのも一つ。勇者と聖女を迷宮から引き上げるという
——何をやっているんだろうね。
キースは愚痴っぽい。今日に限れば、輪を掛けて、心中で繰り言が多くなった。日頃、不条理なまでに冷遇されている南方辺境の自分達が、何故、政争に明け暮れる正教会権力者のために働かねばならないのか、という思いが渦巻いている。
「おはよう。キース」
「やあ。おはよう。いい天気だね」
冒険者組合の近隣の住民たちとは顔馴染みだ。道行く彼らと挨拶を交わす。気の良い笑顔に親しみ易さは辺境開拓地の人々の美徳だ。
——何にも違わない。それどころか……
キースは、歴史の古い北部や東部の人々が何の躊躇いもなく南部を差別することを思い出すと、気疎さが心底に滲むのを感じた。正教会の権力者に対する偏見が呼び起こした否定的な心持ちの所為であろう。
——魔術師でもない限り、魔力の有無なんて大した違いじゃないのにね。
ここ南方辺境の開拓地は、奇跡の恩恵に預かる住人が少ない。辺境の開拓地の人々は、自ら望んで神々との繋がりを絶ったわけでもないが、生まれて直ぐに恩寵が消えた者が珍しくない。そのため体内を巡る魔力が極めて弱く、回復の奇跡などの効果が低い。それ故、歴史の古い北部や東部、特に王都周辺では酷い差別を受ける。生まれながらに罪を背負っているからとする古王国時代から続く偏見に所為だ。正教会の歪んだ教義により住処から追い立ててられた者たちも少なくない。
——冷たい関係。仇敵とは言わないけどさ。
博愛を教義に掲げながらも、正教会は、神々との繋がりが絶たれた人々を祀ろわぬ者と呼び、救いの手を差し伸べることはない。キースもジェフリーも冒険者として基盤を整えた頃に神々との繋がりが絶たれ、同じような差別と迫害の体験をしていた。カネヒラも同じだと言いたいところではあるが、彼の場合、
——うん。カネヒラは自業自得だね。
丁度、カネヒラが冒険者組合の出入り口に姿を現した。キースは冴えない中年冒険者を見咎めると声を掛けた。
「カネヒラ。早く早く!」
「悪い。
「これ以上、面倒はごめんだよ」
「なあに大した用事じゃなかったさ」
とも有れ、キースたち三人は、天地がひっくり返ったとしても、正教会からの直接的な依頼を受諾するなどあり得ない。目前のテーブルに白金貨を堆く積まれたとしてもテーブルごとひっくり返して断る筈。しかし、今回の依頼は
——教皇庁のお偉いさんや狂信者とは違うから。聖女様と勇者様は特別だから。
南方の孤児院育ちだと聞いた事があった。祀ろわね者も分け隔てなく優しく接していた。流民や元受刑者に対する不当な差別を糺そうとしていた。慈ある者であり、勇ある者であり、正き者であり、力ある者であり、聖なるものである。二人は御伽話の中から出てきたような存在だった。
——正教会への恨み言は酒宴の席で十分さ。
キースは気持ちを切り替えることにした。勇者と聖女を迎えに行くのだ。
幌馬車の周囲を人が歩く音がキースの耳に届いている。カネヒラが幌馬車の外で積荷の固定具合を確かめているのだろう。本来なら持ち主がする作業なのだが、カネヒラが率先して代わりを務めていた。労を厭わない男である。
彼は、車体の周囲を歩きながら人の身の丈ほどの大きな車輪や太い車軸、操舵装置や制動装置、馬具や連結器具などを丁寧に確認する。特に不具合は見つからない。二頭の馬は朝の寒さのせいか機嫌が悪い様子だが、三条の滝までのわずかな道程ならば差し障りないだろう。
車体の右側面、車軸よりやや上側には飲み水で満杯となった大樽が二つ。大樽には防腐効果の檜が使われており、樽の底には木炭と軽石を詰めた木目の細かい布袋が沈んでいる。防腐と浄水のためだ。
左側面の大きな収納庫には
視線を牽引車に移せば、幌馬車と同じサイズの車輪が両側についており車幅も幌馬車とほぼ同じだ。停留時に展開する四つの脚は荷台側に折り畳まれている。牽引車の上に据え付けられた車箱は、小柄な男性であれば立った状態で八人ほど入れる大きさだ。前面に折戸、側面に明かり取りの小窓があり、後面には木箱や円筒が設えてある。
車箱と車輪との隙間に木枠や階梯などが綱で固定されている。回収作業に必要な道具は多く、幌馬車本体も含めて車台の広さは限られているため、僅かな隙間も有効に利用した結果だ。荷重が許す限り多くの道具を携行できれば、遠征先で不自由する可能性は低くなる。しかし、見栄えは良いとは言い難い。
カネヒラが確認作業の最後に幌馬車の接続部分を覗き込む。牽引車の太くガッシリとした二本の轅に異常なし。牽引車の状態を確認し終えると冴えない
「ジェフリーさん。異常なしだ」と声をかける。
馬車の内壁に設えられた折りたたみ式のベンチを下ろしてキースの対面に座った。二人は互いの右拳を軽くぶつけあう。仕事の始まりに必ず行う儀式のようなものだ。革の手甲から生じた低い音が御者台に届いた。
「では、行くとするか」
ジェフリーは、制動装置の留め具を外し、馬に合図を送ると、車輪がスッと動き始める。軋む音など無い。辺境の
キースは幌馬車の中で揺られながら過ごす時間を愛している。気重な仕事が多い所為もあって、途中の旅程では意識して風景を楽しむことにしている。目的地につくまでは寛ぎ、気負うことなく仕事を完遂する。御定まりというのは験担ぎの類だ。
木々の枝が揺れる音、鳥の囀り、御者台から吹き込む晩夏の風、乗り心地の良い幌馬車の僅かな揺れに身を任せていると、厄介な仕事を押しつけられた時から渦巻いていた不愉快な想いが徐々に薄らいでいった。
幌馬車後部の帳の間から外を伺っていたカネヒラがチラリとキースに視線をむけた。キースの表情が和らぐのを見計らったように愚にもつかないことを口に出す。
「ジェフリーさんの馬車が大人気の理由。其の一、飯の美味さ」
ジェフリーの幌馬車は人気なのは事実だが、依頼料が割高な
大抵の場合、ジェフリーが道中提供する食事が頗る旨いと評判を聞きつけてのことだ。冒険者や巡礼者が噂となっている幌馬車を使ってみれば、道中の乗り心地が絶妙に良いことに驚くことになる。それ以降、他の馬車での移動など以ての外と、大いに誉めて常連に成ってしまう。例外はない。
——あの聖女様は何と言った?
自身よりも年若い聖女の凛とした表情と歌う様な優美な話し方を思い出す。大司教様の馬車よりも乗り心地が良く、とても静かだと言っていた。
「二、乗り心地の良さ」とキースが返す。
「揺れも少ない。車輪や車軸の音も小さいな」とカネヒラが頷く。
馬車の車輪が鳴らす音に意識を向ければ、微かに耳に障る程度だ。
——あの勇者様は楽しげに語った。
ジェフリーの幌馬車は、清掃が行き届き、良い香りがする。魔石灯の優しい色が心地良い。お貴族様の馬車は意外に古汚くて薄暗いと言った。
「三、虫除けと臭い消しの乾燥花。四、橙色の魔石の照明。五、気が利いてる」
キースは幌馬車の内側を眺めながら目についた事などを適当に言い連ねた。
「最後、ふわっとしすぎだろ」
カネヒラの益体もない問いかけから始まって、実りのある会話になる訳がない。晩夏から初秋にかかる季節の移ろいを楽しもうかと言う時に水を差されてしまったのだから、キースは苦笑いを浮かべるしかなかった。この先、風流とは無縁なカネヒラとの他愛のない会話が続くだけだ。
諦め気味のキースから不意に表情が消えた。見るともなく冴えない中年男の顔を見る。奇妙な疑問が浮かぶ。
——そういえば、いつだったかな?聖女様と言葉を交わしたのは?
「何だよ?」
目前の
「いや。何でもないさ」
キースは視線を床に落した。ジェフリーの幌馬車について言葉を交わしたのはいつのことだろうかと訝しむ。やはり何か座りが悪い。とは言え、不都合な事柄を生じさせるものでもなかろうと、違和感の正体については保留にした。
暫くして川の流れの音が聞こえ始めた。このまま川沿いの街道を西に馬車で一刻半ほど進めば、北西の平原に至る道と南の低い山々へと続く道に分岐する。そこから南への道は緩やかな上り坂が続く。渓流に沿った曲がりくねった道を進み続ければ、半刻かからずに三条の滝が見えてくる。
「話は変わるが、今年は、この辺りの魚が取れ難いらしい」
御者台からジェフリーの声がした。
「魚って?」とキースは、どちらかと言えば、あまり好きではない川魚の話題について、何となく質問を返す。
この辺りはまだ川幅も広い。流れも速い場所もあれば流れが淀む場所もある。川底や川岸など、魚にとっての生息域は変化に富んでいて、漁場としては良好である。植物食の魚も動物食もいる。清流魚だけではなく多種多様な魚が獲れる筈。
「ああ。ウグイ、コイやソウギョは普通に獲れるが、アユ、アマゴやイワナは獲れない」
ジェフリーは前を向いたままだ。
「コイはイマイチ。だが、アユは塩焼きが美味い。アユが獲れないのは大問題だ」とカネヒラが大袈裟に追従する。
キースもアユの旨さに異論を挟むつもりなどないが、果たしてカネヒラが声を大にするような問題なのかと疑問に思った。
「子供の頃、東の領境付近の銅鉱山で『鉱毒』騒ぎがあった。あの辺りの河川の魚が一時期獲れなくなったと教わった」とキースが昔を思い出している。
キースが孤児院にいた頃、物知りの若い修道女にいろいろな事を教わった。清流の魚は水質の変化にも水温の変化にも弱いことを。魚が消えたとしても一時的で時が経つと魚が帰ってくること。通し回遊という習性により、環境の変化に耐えうること。
——嗚呼、思い出せない。
キースは物知りだった修道女の顔を思い出せなかった。毎度、何かが記憶の想起を邪魔していた。彼女に教わったことは全て覚えている。文字の読み書きも教わった。あらゆる教えは、思い出せるし、冒険者としての生活の役に立っている。彼女はとても優しく、キースは姉のように慕っていた。彼女に対する恋慕の感情は鮮明だ。今でも慕っている。
——忘れる筈はない。
やはり彼の記憶の中から彼女の表情だけがぽっかりと抜け落ちている。言うなれば無貌の修道女。昔は覚えていたという思いが湧き上がり、心を苛立たせる。彼の表情が曇り、会話が途切れた。
「多分、原因はあれだなッ!」
カネヒラはキースの表情の変化を見逃さなかった。仕事の前に相棒のキースに落ち込まれるのは厄介である。彼は王国の高名な学者でも卓越した錬金術師でもない。当然、鉱毒事件の汚染源や汚染物質、さらに事態の経過などを知る由もない。語気を強めに適当な事を口走り、相棒が陰鬱さを纏い自分の世界に閉じこもろうとするのを引き止めた。不調法な吟遊詩人の野暮ったいセリフも役に立つのかとカネヒラが心の中で呟く。
『辞宜が肝要、内容は適当、それで十分』
適当なセリフにキースがハッとしたように顔を上げると、いつも通りの冴えない古株の冒険者の気遣わしげな顔があった。漠とした暗愁に心が翳ると、その陰りを冴えない古株の冒険者が払い退けていた。冒険者としての経歴ゆえか、カネヒラは若い冒険者等の面倒を見ることに長けている。
「水質なのか水温の変化あるいはその両方か。コイは汚染に強いがアユは弱い。上流で何かが起きている」とキースは淡々と語る。
——この川の上流に三条の滝がある。
「勇者様ご一行が消息を絶ったことと無関係だといいけど……」
——無理があるよね。
キースがそう言い終えると同時にカネヒラは先ほどとは打って変わって薄笑いを浮かべながら懐から書状を取り出した。南方統括の大司教からアデレイド宛のものだ。
「出発前に冒険者組合長から渡された。王都本部や正教会が隠蔽した事の顛末が書いてある」と付け加えながら書状を手渡す。
キースは渡された書状を読み、目を剥いて「五ヶ月前ッ!」と声を荒げた。彼が手にした書状には、王宮によって勇者一党が消息を絶ったと判断された日付が記されていた。
「不味すぎるでしょ!」
「厄介ごと以外で、
キースは睨むようにカネヒラを見つめる。お門違いだとでも言うように首を振ってから、この強かな古参の冒険者が言葉を繋ぐ。
「文句なら
ニヤリと嗤った表情が微妙に苛立ったのか、キースはプイと顔を横に背けた。
——カネヒラのくせにッ。
持っていた書状を突っ返し、不貞腐れたような態度で、橙色に照らし出された幌馬車の天井を睨み付ける。
「今回、巻き込んだのは、お前さんの方だぜ」
「わかってるさッ」
適当にあしらわれている感じがして癪に障ったのか、しばし無言で組合長とのやりとりを思い出しながら、沈黙を決め込む。
「どうあれ迷宮最深部から遺体を引き上げる。それができるのはお前さんだけだ。違うか?」
相変わらず猫のような笑顔を浮かべて、カネヒラが問いかける。
——その通りだ。そして僕を支援できるのは二人だけさ。
こうして正教会嫌いの三人は、正教会のやらかした後始末に向かうのであった。
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矛盾が無いように加筆修正しました。特に本筋に関係ないことは削除しました。
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