『シャンバラ~幌馬車の国~』傷を負った帰還兵は美少女達と旅をする。理想と幸福を目指して

百目鬼悠馬

プロローグ

柳色の霧

  どこまで遠くまで歩けば 大人になれるだろう


  あの山は いつまでそこにあり続けるだろう


  何度上を見上げれば 青空を見れるだろう


  どれだけ時が経てば 皆自由になれるだろう


  その答えは風の中さ 風に吹かれているんだ




  人は何度顔を背け 見ないふりを続けるだろう


  どれだけ叫びを聞いたら 悲しみに気付けるだろう


  どれだけ砲弾が飛び交えば 撃つのをやめるだろう


  あとどれだけ人が死ねば あまりに大きな犠牲だったと気付けるだろう


  友よ その答えは風の中さ ただ風に吹かれているんだ



      

【風に吹かれて/ボブ・ディラン】







 男は一人、知らない町の中を歩いていた。


 そこは幅五メートルほどの狭い路地で、左右にはレンガと漆喰でできた二~三階建ての建物が立ち並んでおり、圧迫感を感じさせる場所だ。

 建物は所々崩れていたり、吹き飛ばされたのか盛大に崩れ去ったところもある。泥と水たまりでぬかるんだ地面には、そこかしこに慌てて逃げだしたのであろう放置された家財や商品が転がっていた。


 ついでに上を見上げてみると、無数の看板やタルチョという旗がところ狭しと掛かっていて、青・白・赤・緑・黄の五色が無数に揺らめいている。


 恐らくここは商店街か何かなのだろう。だが通りを賑やかす人影はどこにもなく、ひどく静かだ。生命を感じさせるものといえば、ところどころ落ちている牛や鶏といった家畜の死骸くらいのものであった。


 だが男にとって、悲惨な家畜の死体などそれほど関心を抱くことではない。見知らぬ通りを一人で歩く彼には、他にもっと気がかりなことがあった。

それは辺り一面が、緑がかった黄色い霧に覆われている。ということだった。


 彼は暫くこんな通りを歩いていたような覚えがあったものの、どこへ行ってもこの黄緑の霧。どんよりと重苦しく、地を這うように死の霧が立ち込めていて、彼を含めこの町全体がその霧に包まれているのだ。


 さらに彼は、この町一帯に立ち込めている腐肉と、汗と、胃液と、火薬の入り交じった悪臭の中に、鼻を刺すような独特の刺激臭も感じ取っていた。

 それは今まで嗅いだ何にも形容しがたく、他の匂いと相まって今にも鼻の曲がりそうな悪臭として男を襲った。


 息が苦しい。体も重い。


 彼の体は常に一定のペースで歩き続けていたが、息は切れ、蒸し焼きにされるような暑さで全身から汗が吹き出していた。それでも男は、耐え難い空腹と喉の乾きに苛まれながら、泥を身にまとったかのように重い身体をただただ前に進めていた。


 男はどこへ向かっているのかよく分からなかった。


 ただ感覚として理解しているのは、そうしなければならないということと、そうしろと指示を出されたという事だけだった。


 それから男が暫く歩いていると、ある時左右の小路から何者かが二人現れた。

 男を挟み込むように現れた二人は、両方とも同じ格好をしていて、膝まである長くて黒いロングコートに黒いヘルメットを被っている。そしてその下には、見たことの無い不思議な形のマスクを被っており、顔を見ることは出来ない。

 彼らは手も足も隙間なく衣服で覆っていて、およそ肌を露出している箇所がなかった。更に手には短機関銃を持っており、彼らが何らかの戦士であることが見て取れる。


 彼らの奇抜な恰好は、一見悪鬼か何かのようにも見受けられた。

 だが不思議なことに、男はむしろ彼らと出会ったことで安心していた。それどころか親近感すら抱いてもいたのだ。


 それも当然である。彼自身この二人の戦士に出会って思い出したのだが、男も同じ格好をしているのだ。

 彼らと同じように長いコートとヘルメットで体を覆い、同じマスクを着けている。

 彼の感じていた疲労感や暑さはこれに由来するものだった。

 総重量十五キログラムはある装備品を担いで、暑苦しい衣装に身を包んでいるのだから、息も切れるし、汗もかく。

 さらに男の両手にはナヤーム軍支給の最新式短機関銃が握られていて、男がその気になれば七十一発を装填したドラム型弾倉で一分も経たないうちに十数人を殺すことができるだろう。


 だが男は、どんなに重く暑苦しかろうともそれらを脱ぎ捨てる気はしなかった。


 それは自身を守る武力を手放す不安からではなく、外気に身体を晒すリスクを避けるためでもない。戦士としての務めを全うする為、というのも違った。

 いや、彼にとってそれらも理由の一つではあるのだろう。だが男がその装備を脱ぎ捨てられない一番の理由は、彼自身のアイデンティティのためだった。

 この装備があるからこそ、彼は自分を認識できていた。これを脱ぎ捨てることは、彼自身の精神的死を意味していた。

 だから男は、苦しくて今にも脱ぎ捨てたくなるようなこの装備を、着たままにしていたのだ。


 さて、合流した三人の戦士たちは互いに何かコミュニケーションをとった。

 たぶん会話をしたのだろうがよく分からない。目くばせやジェスチャーで会話をしていることは見て取れた。

 これまでの状況も含めてそうなのだが。分からないというか、覚えていないというか、何か妄想じみた何かのような。

 とにかく理解ができず分からないまま状況が進んでいるのだ。


 それで何かが決まったか何かで、三人はまた別々の方向へ歩き出し、気が付けば男はまた一人になっていた。


 男は相変わらず、どこへとも知れず銃を抱えて歩いている。そうやってまた暫く歩いていると、男は一匹の牛に出会った。


 ツヤのある黒い毛並みで、頭には短い角が二本生えている。その牛は道の端に座り込んでおり、男に気がついたのかゆっくりと頭をもたげてこちらを見つめてきた。

 男が近づいてみると、彼女はダラダラと鼻水を垂らして必死に酸素を取り込もうとしていた。彼女が息を吐く度、鼻水と唾液が飛び散り胸元が伸縮するのが見て取れる。


 そして不思議なことに、彼女は泣いていたのだ。


 今まで牛が泣くなど聞いた事も無かった。だが確かに彼女の目は涙をたたえ、まばたきと共にこぼれ落ちる雫が二本の線を描き出していた。

 男はその虚ろな眼差しにじっと見つめられ、思わず彼女の鼻っ柱を撫でてやった。

 手が触れる瞬間、びっくりしたように鼻息が荒くなったかと思うと、今度は目を閉じて鼻先を押し付けて来る。

 男はそれを受け入れて暫く牛を撫でてやった。今思えば、彼女を殺してやればよかったのかもしれない。


 どうせ彼女は助からない。苦しみながらここで力尽きるのを待つだけだ。だったらひと思いに殺してやるほうが彼女のためだったのかもしれない。

 だが男はそうはしなかった。暫く撫でてから、苦しみ涙を流す牛をそのままに先へと歩いて行ってしまったのだ。


 なぜ殺さなかったのかと言えば、可哀想だったからとか、苦しめてやろうとか、そういうことではなく、ただ誰にも指示されていないからというだけだった。

 男は何かの目的を持ってここにいて、その為にこの牛は無関係だった。誰も彼に瀕死の家畜への対処を命じていなかった。だから殺さなかった。

 一体なぜ自分で考えて行動しなかったのだろう、と思いもするが、この時それをすることはできなかった。


 考えてしまえば、自分の行いを振り返ってしまう。だからそれはできない。「考えない」というのも自身のアイデンティティを保つために必要な事だった。

 ただ流れに身を任せるしかできなくて、そして流れに身を任せておく必要があったのだ。

 

 そうしてまた、男は一人町の中を歩いていく。

 牛を尻目にしばらく進むと、今度は町のどこかから赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。生気のない静かな町の中に、わんわんと泣く赤子の声だけが鳴り響いているのだ。

 男が立ち止まって、確かめるようにその声を聞いていると、すぐに鳴き声は聞こえなくなってしまった。

 だがどこから声がしたかは大方理解できた。すぐ近くに小さな寺院があって、どうやらそこのようだ。


 吸い込まれるように寺院へ歩いていくと、小さなアーチ状の入口が周囲の建物をくり抜くようについていて、二頭の獅子の石像がその門を守っている。

 その獅子を横目に見ながら入口へ入り、五メートル程の廊下を抜けると、広い中庭へと出た。


 周囲を住宅に囲まれたその場所には無数のストゥーパ(仏塔)と石柱が立ち並び、中央には三階建ての塔がある。赤を基調とした美しい装飾の施されたレンガ造りの塔で、天辺から周囲に向かって無数のタルチョ(旗)が掛けられていた。どうやらこの塔が寺院の本堂のようだ。

 普段ならここも人で溢れているのだろう。だが今は相変わらず人の気配はない。


 「俺」は物々しい塔の扉の前で銃の動作を確かめてから、その扉をゆっくりと両手で開いていった……。











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