第51話 素人が採血してるの?

 第三回目の入院治療でも僕は一日置きに病室で採血をされた。ここは血液内科だから採血はやむを得ない。朝6時にモーニングコールにやってくる女性の看護師さんが毎回入れ代わりに僕の病室で採血をしてくれるのだ。採血の仕方としては注射器で採血する方法と、針を血管に刺したままで真空にした採血管をセットする方法がある。病室で採血する場合は、注射器で採血する方法がとられていた。


 あるとき、まだ看護師になりたての若い女性の看護師さんが採血にやってきてくれた。採血の注射を僕の腕に刺すときに、いかにもまだ慣れていないという感じで、彼女は「ここでいいんですかねえ。ここでいいんですかねえ」と言いながら僕の腕を指で触って血管を探していた。僕は血管が太い方でいつもすぐに皮膚の上から位置がわかるのだが、彼女はまだ慣れていなくて、血管の位置がすぐに分からないようなのだ・・・看護師さんの初々しさに僕は思わず苦笑してしまった。


 ようやく血管を見つけると、彼女は僕の腕に注射の針を突き立てた。しかし、自信が無かったものとみえて、ちょっと注射器のピストンを引いて、シリンジの中に血液が吸い込まれるのを確認した。きちんと血液が吸い込まれたので安心したようで、それから針を少し奥に刺して採血を開始したのだ。


 ところが、血液が注射器のシリンジに入ってこないのだ。看護師さんはあせってしまった。採血がうまくいかないので、なんだかばつが悪くなったようだ。彼女が僕の顔を見て言った。


 「どうして血が注射器に入らないの?・・・さっき、血が注射器に確かに入りましたよねえ」


 僕は笑いながら答えた。


 「ええ、確かに血が注射器に入りましたよ」


 僕の言葉で彼女はますます混乱した様子だった。


 「そうですよねえ・・・・・だけど、今度はどうして血が入らないのかしら?」


 僕は吹き出してしまった。だけど彼女があまりに混乱しているので、僕は彼女がかわいそうになった。僕は笑いながら彼女に言った。


 「そりゃそうですよ。だって、さっき注射器に血が入ってから、注射針をもう一度奥に刺したでしょう。それで、針が血管を通り抜けてしまったんですよ。ここでいくら注射器のピストンを引いても血は出てきませんよ・・・こちらの腕でやり直してください」


 僕は片方の腕を差し出した。そして僕はもう片方の腕で、無事に採血をしてもらったのだ。


 新人の看護師さんの初々しさに触れて、僕は昔のことを思い出してしまった。


 僕の家の近所にちょっと大きな市民病院がある。以前、その病院は大幅に内部を改装したことがあって、その改装開けの第一日目にたまたま僕は健康診断を受けに行ったのだ。採血のところにいくと、順番待ちの人が十人ほどいた。その人たちが二列に並んで順番を待っている。僕も列の後ろに並んだのだが・・・列が進んでいくと奇妙なことに気づいたのだ。


 列の先頭で採血を行っているのが、どう見ても病院の看護師さんではないのだ。二つの列の先頭では、中年のおじさんとおばさんの二人が採血をしていたのだが、その二人は普段着を着ていたのだ。看護師さんの着る白衣は着ていなかった。なんだか、近所のおじさんとおばさんがアルバイトに来ているといった感じだった。見るからに二人とも看護師ではなかったのだ。


 では、あの二人は誰だろう? 僕は最初、この病院の看護師のOBやOGのおじさんやおばさんが手伝いに来ているのかと思った。しかし、それにしては、二人とも手際が悪いのだ。なんだか、採血にもたもたしている感じだった。二人のもたもたが列を長くしている原因のように思えたのだ。しかし、僕は首をひねった。


 まさか? 本当に素人が採血しているのではないだろうな?・・・・・


 僕はおじさんの方の列に並んでいた。列が進んで、あと一人で僕の順番というときだ。隣の列の採血をしていたおばさんがこう叫んだのだ。


 「うわっ、血が止まらない!」


 なんと・・・僕の隣の列の先頭でおばさんに採血をしてもらっていた女性の腕から、血がポタポタと床に落ちているのが見えた。すぐに床に血だまりができた。すると、奥から白衣を着た本物の看護師さんが飛び出してきて、おばさんの前の女性の腕をとって止血を始めたのだ。さすがに本職は手際がいい。たちまち、血は止まってしまった。そして、その看護師さんがおばさんに言ったのだ。


 「練習したときは血は出なかったのにね」


 練習? それを聞いて、僕の頭に疑問符がいくつも並んだ。


 本物の看護師さんが奥でスタンバイしているのか? しかも、このおじさんとおばさんは事前に注射の練習をしたらしい。ということは、この二人はやっぱり本職の看護師ではないのだ。しかし、本職の看護師さんでない人たちが採血なんかやっていいの?


 とうとう僕の順番になった。僕はおじさんの前の椅子の座った。すると、おじさんがぶつぶつと何かを繰り返しつぶやいているのが聞こえたのだ。以前、僕は「つらいなあ おばさん」について書いた。ヘルパーのおばさんが患者に「つらいなあ」と念仏のようにつぶやく話だ。「つらいなあ おばさん」と同様に、そのおじさんも小声で何かを念仏のようにつぶやいているのだ。低い小声で早口に何かをぼそぼそと言っているのだ。まさにそのおじさんの声は念仏だった。

 

 病院で念仏? 縁起でもない。


 しかし、おじさんはつぶやきを止めないのだ。僕は気になった。


 えっ、いったい何を言ってるの?


 耳をすませて、よく聞くと・・「〇〇ccと△△ccと◇◇cc」と聞こえた。〇〇と△△と◇◇は数字だった。


 その病院は注射器で採血して小分けする方式だったのだが、なんとおじさんは採血した後に試験管に小分けする量を口の中で繰り返しつぶやいていたのだ。おじさんの眼の前の机の上に『〇〇ccと△△ccと◇◇cc』と書いたメモが貼ってあった。おじさんは血液の小分け量を間違えないように、机のメモを見て、さらに口で「〇〇ccと△△ccと◇◇cc」と繰り返しつぶやいていたのだ。


 僕の背筋が凍った。なんと、このおじさんは本当の素人なのだ。


 おい、おい、こんな素人が採血して・・・本当に大丈夫なの?


 おじさんは僕が眼の前の椅子に座っても、僕を見る余裕もなさそうだった。頭を上に向けて、眼を宙に泳がせて、しきりに「〇〇ccと△△ccと◇◇cc」と念仏のように繰り返しつぶやいていたのだ。


 しかし、僕はもう逃げるわけにもいかなかった。採血の担当は、おじさんとおばさんだけなのだ。僕は腕を出しておじさんに採血してもらうしかなかったのだ。やむなく僕はおじさんに腕を出した。それで、おじさんはやっと僕に気づいた様子だった。ぶつぶつつぶやきながら注射器を出すと、簡単に僕の腕を消毒して、おもむろに僕の腕に針を突き刺したのだ・・・血が止まらないということはなかったが・・・ものすごく痛い注射だった。腕に大きな注射のあざが残った。


 それから一週間して、僕は健康診断の結果を市民病院に聞きに行った。そのとき気になって、採血のところをのぞいてみたのだ。そうしたら、なんということだ! 今度は本職の看護師さんが二人で採血をしていたのだ。


 そうりゃそうだろうと僕は思った。あんな素人にできるわけがない。改装の初日は素人が採血をやっていたが、やっぱり無理だということになって、本職の看護師さんが採血をするようになったのだろう。


 しかし、僕はいまだに不思議なのだ。市民病院がどうして、素人のおじさんとおばさんに採血をさせていたのだろうと・・・。


 読者の皆様はこの市民病院の話をどう思われるだろうか? 


 読者の皆様はきっと「この話は嘘だ」と思われることだろう。「病院が素人に医療行為をさせるわけがない」と。。。


 だけど、この話は本当のことなのだ。『この話は本当』というより、ここに書いてきたことはみんな本当にあったことばかりなのだが・・・


 僕自身も理性では「病院が素人に医療行為をさせるわけがない」とは思うのだ。しかし、あのとき僕が眼の前で見たのは、どう考えても素人のおじさんとおばさんだった。おばさんが「うわっ、血が止まらない!」と叫んで、白衣の本物の看護師さんが飛んできて止血を行ったのも事実だし、おじさんが血液を小分けする量を念仏のようにつぶやいていたのも事実なのだ。


 僕自身が何がどうなっているのか、まるで理解できないのだが・・・あの日、市民病院では間違いなく素人が採血をしていたのだった。


 朝の病室で、看護師になりたての若い女性の看護師さんが採血がうまくできずにあせっているのを見て、僕はこの市民病院の一件を思い出したのだ。

 

 さて、少し無駄話が過ぎたようだ。病院の話に戻ろう。


 僕は第三回目、つまり最後の抗がん剤の点滴を受けていた。そして、この最後の抗がん剤の点滴において、僕はこの入院で最後にして最大の試練に直面することになるのだ。詳しくは次回から書きたい。(つづく)

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