第52話 お願い、その点滴やめて 1

 第三回目の点滴治療を開始するときに僕は不安を覚えた。しかし、僕の不安をよそに、点滴治療そのものは比較的順調に進んでいった。


 点滴を初めて約1カ月が経ったときに、とうとう白血球の数が正常値の十分の一にまで減少したのだ。第一回目、第二回目と同様に抗がん剤の点滴はここで終了した。あとは自然に白血球の数が回復するのを待つばかりとなったのだ。ここで初めて僕は安堵した。ようやく先が見えたような気がしたのだ。


 しかし、そこから先が実は大変だった。白血球の数がなかなか増えなかったのだ。いつまで経っても正常値の十分の一のままで、それ以上減ることはなかったが、増えることもなかったのだ。第一回目と第二回目の点滴治療ではこんなことはなかった。岸根医師が言うには、第三回目の抗がん剤は今までで一番強い薬だ。その強い薬は異常な白血球ばかりでなく、正常な白血球もどんどん殺していく。おそらく、この第三回目の強烈な抗がん剤で僕の残っている白血球は相当なダメージを受けたのだろう。そのダメージが大きすぎて、抗がん剤を止めてもなかなか白血球が増加しないのだと僕は思った。


 そんな状況が続いたが、相変わらず岸根医師は僕の病状について詳しい話をしてくれなかった。岸根医師は「もうそろそろ白血球が増加していきますよ」と言ってくれるのだが、岸根医師の言葉に反して白血球はなかなか増加しないのだ。岸根医師の言うことが当たらない。このことが僕の不安を少しずつ増長させた。


 岸根医師がそろそろ白血球が増えると言っているのに一向に増える気配がない。これは一体どういうことなのだろうか? 何か異常なことが僕の身体に起こっているのではないだろうか?


 そういう強い不安に駆られて、僕は何度も何度も岸根医師に「なかなか白血球が増加しませんが、普通こういうこともあるのでしょうか?」とか「僕の身体に何か異常が起こっているのではありませんか?」と尋ねたのだ。しかし、岸根医師はいつものように詳しいことは何も言ってくれない。僕が質問するたびに「うーん」と首をひねるだけだったのだ。僕の不安がだんだんと大きくなっていった。


 このまま白血球はもう増加しないんじゃないだろうか? 僕はそんな恐怖に怯えた。そうなったら大変だ。僕は、この外から菌が入らないように気流を制御している特殊な構造の病室で一生を過ごさなければならなくなる。


 そう思うと、僕は居ても立っても居られなくなった。しかし、こればかりはどうすることもできない。僕にできることは耐えることだけだった。僕は不安の中で、ひたすら耐えながら時を過ごしたのだ。


 前に書いたように、白血球の数が少ない時期は、僕は抗生物質の点滴を継続して受けなければならなかった。身体に白血球がほとんど無いわけだから、外から身体に入った菌や体内にいる常在菌の活動を抗生物質で抑えなければならないのだ。


 抗生物質の効能は十分に理解しているのだが・・・しかし、僕は何となくこの抗生物質の点滴に疑念を持ちだしたのだ。抗生物質の点滴は、毎日朝10時と夜10時に行なわれる。しかし、抗生物質の点滴をされると身体がなんだか急にしんどくなるように感じるのだ。前回の第二回目の点滴治療のときも抗生物質の点滴をしたが、身体がしんどく感じることはなかった。何故だろうか? 第三回目の点滴治療では抗がん剤の点滴が強かったせいだろうか? あるいは、耐性菌が身体にできたのだろうか?

 

 そんな疑問を感じたが、僕は岸根医師には何も言わなかった。第二回目の点滴治療のときに、熱が出た。同じ抗生物質を使い続けたことによる耐性菌が疑われたが、血液検査では耐性菌の影響は検出されなかったのだ。今回も耐性菌が原因ではないのではないだろうか? 僕は何となくそう思った。このことが、僕に抗生物質の点滴でしんどくなることを岸根医師に相談するのを躊躇させたのだ。


 耐性菌の他に何か原因があるのかもしれない。僕はしばらく様子を見ることにしたのだ。


 そんな膠着した状態が続いた。ある月曜日の朝だ。


 岸根医師は火曜日と木曜日に外来の患者の診察を行っている。それ以外の日は、朝9時ごろに自分が担当する入院患者の病室をまわってくれていた。ところが、その月曜日はいつもより遅い10時過ぎに岸根医師は僕の病室にやってきてくれた。ちょうど僕は朝10時に行われる抗生物質の点滴をされていたときだった。病室に入って僕の前に座ると岸根医師が僕に聞いた。


 「体調はどうですか?」


 僕はうなった。


 「う-ん。なんかおかしいんですよ」


 「おかしいと言うと?」


 「なんとなくしんどいんですよ。白血球の数がずっと正常値の十分の一の状態が続いているので、その影響かも知れませんが・・・」


 岸根医師は何か考えていた。そのとき、抗生物質の点滴液の袋が僕の眼に入った。そうだ。岸根医師に抗生物質の点滴のことを相談してみよう。それで、僕は感じていることを率直に口にしてみることにしたのだ。


 いつもの月曜日のように岸根医師が9時ごろに病室に来ていたら、僕は抗生物質のことを相談しなかっただろう。この日は岸根医師がたまたま遅くなって、抗生物質の点滴が始まっているときに病室に来たので、僕は抗生物質のことを相談する気になったのだ。


 「実は先生、これは、そんな気がすると言うだけなんですが・・・」


 「ええ、何ですか?」


 僕は点滴ラックにぶら下がっている抗生物質の点滴の袋を指で示した。


 「気のせいかもしれませんが・・・この抗生物質の点滴をされると、何となく身体が急にしんどくなるような気がするんですよ」


 「抗生物質の点滴で・・ですか?」


 「ええ、そうです。少し前に38度の熱が続いたときに、先生が耐性菌の話をされたでしょう。ひょっとしたら、耐性菌ができているような気もするんです。もちろん、根拠はありません。僕の勘なのですが」


 岸根医師がうなった。


 「うーん」


 「だけど、この前38度の熱が続いたときは、抗生物質を替えると熱が下がりましたが、血液の検査では耐性菌の影響は見られませんでしたね。それを考えると、耐性菌ではない別の要因で身体がしんどいのかも知れません」


 岸根医師も抗生物質の点滴の袋を見上げた。


 「この抗生物質も長く続けていますからね。実は明後日の水曜日に抗生物質を替えるように手配しているんですよ。今日は月曜日だから、では今日と明日だけ今の抗生物質を続けて、水曜日に取り換えることにしましょうか?」


 僕の頭に前回の血液の検査では耐性菌の影響は見られなかったことが再び浮かんできた。そうだ。あの時と同様に抗生物質で耐性菌はできていないのかもしれない。それだったら、そんなに急ぐことはないのだ。水曜日に抗生物質を替えてもらえば十分だろう。


 僕はそう考えた。そして岸根医師にこう言ったのだ。


 「ええ、先生。それでお願いします。水曜日に抗生物質を替えてみていただければ助かります」


 それで、岸根医師は僕の病室から出て行った。


 その日、すなわち月曜日の夜10時のことだ。女性の看護士さんが抗生物質の点滴を持って僕の病室にやってきた。そして、僕はいつものように抗生剤の点滴を受けたのだ。


 その点滴が終わって30分ほどしたときだ。なんだか僕は急にしんどくなった。ぐったりした疲れを感じるのだ。こんな感じは今までにはなかった。それに身体も少し熱かった。僕はベッドの横に置いてある体温計で熱を測ってみた。


 体温計は38度を示していた。夜8時に検温したときには、37度5分くらいだったから、急に熱が上がったことになる。それに身体がだるくて、しんどいのだ。なんだか39度くらい熱があるようなしんどさだった。急な熱の上昇に加えて、急に身体がしんどくなった。何だかおかしい・・・


 僕は強い不安を覚えた。繰り返しになるが、こんなことは今までなかったのだ。僕の身体の中でいったい何が起こっているんだろう? 不安がひたひたと僕の身体に押し寄せてきた。(つづく)

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