第53話 お願い、その点滴やめて 2
僕はすぐにナースコールをした。熱が38度以上あったら、ナースコールをするように指示されていたのだ。女性の看護師さんがすぐに僕の部屋にやってきた。
「あのう、熱が38度あるんですが・・・」
「分かりました」
看護師さんは僕の病室を出て行くと、解熱剤の点滴を持って戻ってきて、僕の身体に点滴をしてくれた。解熱剤の点滴が終わるとすぐに僕は大量の汗をかいた。そして、タオルで身体を拭いて服を着替えてから、僕はもう一度熱を測ってみたのだ。かなり汗をかいたので、もう平熱に戻っているだろう。僕はそう思っていた。
しかし、熱は38度5分あった。さっきよりも熱が上がっている! なんてことだ! 解熱剤であんなに汗をかいたのに? どうして熱が上がっているんだ? どうして? 僕は混乱した。
こんなことは初めてだった。僕はすぐにナ―スコールをして、やってきた看護師さんに体温計を見せた。
「解熱剤の点滴をしてもらって、汗をたくさんかいたんですが、熱が上がっているんです」
看護師さんは首をひねった。僕は聞いた。
「こんなときはどうするんですか?」
もう岸根医師は帰宅している。こんなときは岸根医師が看護師さんに出した指示に従って処置が行われるのだ。しかし看護師さんは僕に冷たくこう言った。
「岸根先生からは、こういう時の指示が出ていません。ですから、何も処置ができません。しばらく様子を見てください」
会社なんかだと、勤務時間外でも緊急事態があれば電話で連絡がまわることがよくある。僕はきっと病院でもそういうシステムがあるだろうと思った。つまり、こんな緊急事態になったときは、看護師さんが岸根医師の自宅に電話して、僕の処置を聞いてくれるのではないだろうかと思ったのだ。そこで僕は看護師さんに聞いた。
「岸根先生のご自宅に電話して処置を聞くということはできないんですか?」
看護師さんは僕が岸根医師の家に電話して欲しいと言っていると思ったのだろう。僕にこう言った。
「医師の自宅に電話することはありません」
そう言うと看護師さんは病室を出て行った。なんだか僕は肩透かしを食ったような気分だった。「そうか、岸根医師から指示がないと何もできないのか」と思った。というよりも僕は「そうか、指示がないと何もしてはいけないのか」と強く感じた。要は臨機応変には対応しないということだ。
これって何だかひどく杓子定規だなあ。僕はため息をついた。
仕方がないので、僕は布団をかぶって横になった。身体がずいぶんとだるく、しんどかった。眠ろうとしたが、とても眠れなかった。
そのうち、悪寒が襲ってきた。身体がガタガタと震えるのだ。始めは小さな悪寒が時間を置いてやってきたが、その間隔が少しずつ短くなっていった。それに伴い、悪寒の震えもだんだんと大きくなっていったのだ。よく例えや比喩で「身体がガタガタと震える」といった表現が使われる。しかし、このときの僕は比喩ではなく、本当に身体が勝手にガタガタと強く揺すられるように震えだしたのだ。こんな震えは初めてだ。
僕はどうなってしまうんだろう?
僕の頭は不安で一杯になった。僕はもう一度、熱を測ってみた。今度は39度を少し超えていた。熱がどんどん高くなっていく・・・・・
もう明け方近くになっていた。結局、僕は一睡もできずに夜を明かしたことになる。
昨日の夜の抗生物質の点滴から、僕の身体が急におかしくなった。やはり、なんだか体調がおかしいのは抗生物質が原因だったのだ!
岸根医師に連絡して、次から点滴の抗生物質を替えてもらわなければならない。そこまで考えて僕は恐ろしいことに気づいた。今日は火曜日だ。火曜日には岸根医師は外来の診察がある。そして、岸根医師はいつも外来が終わってから、だいたい午後3時ごろに僕の病室に来てくれるのだ。ということは・・・このままだと、岸根医師が僕の病態を知って、抗生物質を替える指示を出すのは今日の午後3時以降ということになる。そうなると・・・今日の午前10時からの抗生物質の点滴はいままでと同じ点滴薬が使われるのだ!
抗生物質でこんな状況になっているのに、また同じ抗生物質の点滴を受けたら一体どうなってしまうんだろう。そんなことをされたら、きっと死んでしまうだろう。いや、「きっと死んでしまうだろう」という推測をしている事態ではない。僕は解熱剤がまったく効かず、高熱と悪寒でガタガタと震えているのだ。これは明らかに異常事態なのだ。同じ点滴をされたら・・・僕が死ぬことになるのは間違いなかった!!!
死ぬという恐怖が僕の身体を貫いた。僕の背筋に冷たいものが走った。午前10時に同じ抗生物質の点滴をされるのは何としてでも避けなければならない。これは僕の生死をかけた問題なのだ。
僕はナースコールをした。やってきた女性の看護師さんにこう言った。悪寒で身体がガタガタと震えていた。僕はガタガタと震えながら、必死になって看護師さんに訴えたのだ。
「とうとう熱が39度を超えました。昨夜の10時に抗生物質の点滴を受けてから、病状が急変して、熱がどんどん上がっているんです。それに悪寒がして、身体がガタガタと震えるんです。どう考えても、昨夜の抗生物質の点滴が原因だと思うんです。今日の午前10時には、また同じ抗生物質の点滴をされる予定になっていますが、こんな状態なので、抗生物質を替えていただけませんか?」
僕の悲痛な訴えに対して、なんと看護師さんは非常にも首を振ったのだ。
「岸根先生からの指示がないと抗生物質を勝手に替えることはできません」
僕は食い下がった。
「でも、見てください。僕はいま39度以上の熱があって、悪寒で震えているんですよ。これはいわば緊急事態です。緊急事態なのに臨機応変に抗生物質を替えることができないのですか?」
「緊急事態であっても、岸根先生からの指示がないと抗生物質を替えることはできません」
「ということは、岸根先生の指示がなかったら、僕は今日の午前10時にまた今までと同じ抗生物質の点滴をされるということですか?」
「岸根先生の指示が出なかったらそうなります」
「岸根先生は今日は外来ですよ。先生がこの病室にきて事態を確認するのは、午後3時ごろになってしまいます。それまで、岸根先生は僕の病状を確認できないわけじゃないですか。そうすると、今日の朝10時からの点滴を替える指示を出すことは不可能ですよね。いくら早くても、岸根先生が点滴を替える指示を出せるのは今日の午後3時以降です。午後3時以降に指示が出たら、抗生物質の点滴液を替えるのは、今日の夜の10時からの点滴になるわけですよ。それでは遅すぎます。僕は今日の午前10時からの点滴を替えてもらいたいんです。・・・では、岸根先生が今日病院にやってこられたら、口頭で僕の病状を伝えていただけませんか?」
看護師さんはこう言った。
「分かりました。岸根先生が来たら伝えましょう」
そして、看護師さんは病室を出て行った。
外来の診察は朝9時に始まる。そして一旦診察が始まったら、次々と外来患者が診察の順番を待っているので、とても入院患者の対応はとれなくなる。つまり、岸根医師が病院にやってきて、外来の診察が始まるまでの間に岸根医師に病状を伝えて、抗生物質を変更してもらう指示を出してもらわなければならない。そうしないと、午前10時に始まる抗生物質の点滴に間に合わないのだ。
岸根医師が病院に出勤して、外来の診察が始まるまでが勝負なのだ。
僕は今日岸根医師が病院にやってきたら、外来の診察が始まるまでに看護師さんに外来の診察室に行ってもらって、あるいは外来に電話してもらって、僕の状態が急変したことを伝えてもらいたかった。看護師さんにはそう言ったつもりだった。そして、さっき看護師さんはそれを了解してくれた・・・と思っていた。
しかし、僕はおかしなことに気がついた。さっきの看護師さんの言い方に微妙なニュアンスのずれを感じたのだ。あの女性の看護師さんはこう言ったのだ。
「分かりました。岸根先生が来たら伝えましょう」
僕は大変なことに気づいた。
「岸根先生が来たら伝えましょう」という言い方は二通りの意味があるじゃないか!
一つは「岸根先生が(病院に)来たら伝えましょう」だ。この場合は、岸根医師が病院に出勤したら、外来の診察が始まるまでに伝えましょうという意味になる。すなわち、僕が切望するケースだ。
そして、もう一つは「岸根先生が(8階のナースステーションに)来たら伝えましょう」だ。岸根医師は今日は外来があるのだ。1階の外来から8階の病室に上がってくるのは早くて午後3時ごろだ。これではとても間に合わない。
彼女はどちらの意味で言ったんだろう?
僕は急いでナースコールをした。さっきの看護師さんの声がスピーカーから聞こえた。
「はい。何でしょう?」
「あの、さっきの件ですが、僕の病状は岸根先生が病院に来られたら、外来に行くか電話していただいて、つまり、岸根先生が朝この病院に出勤すると同時に伝えていただけるんですね?」
看護師さんの声が響いた。
「それはできません。ここは病棟です。外来ではありませんので、病棟の8階から外来に行ったり電話したりすることはできません。病棟と外来は管理が違うんです。管理が違うので病棟から外来にそのような連絡をすることはできないんです。だから岸根先生が病棟の8階に来たら伝えます」
病棟と外来は管理が違うから、病棟にいる僕のことは外来には伝えられないだって・・・ここは病院だ。その病院で入院患者の病態が急変しているのに、それを同じ病院の中の外来に伝えられないんだって! そんなバカな!
僕は眼の前が真っ暗になった。何ということだ! 僕は思わず、ナースステーションとつながっているマイクに向かって絶句した。
「そんなバカな!」(つづく)
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