第54話 お願い、その点滴やめて 3
僕は看護師さんの言葉が信じられなかった。入院患者の容体が急変しているのに、病棟とか外来とか、管理が違うとか、指示がないから何もできないとか・・・そんなことを言っていて本当にいいのだろうか?
僕が希望しているのは、岸根医師が病院に出勤したら、僕の病状が急変したことを伝えてもらうだけなのだ。
ここは病院じゃないのか? 1階の外来に岸根医師が出勤したら、すぐ8階に電話するように頼んでおいて、岸根医師から電話があったら僕の病状を伝えてもらうだけでいいんだ。1分もかからずにできることだ。いや病態が急変したと言うだけなら、10秒で済むだろう。僕が切望するのは、たったそれだけのことなのだ。そんなこともしてもらえないのか?
これでは僕の病状がいつ岸根医師に伝わるのか分かったものではない。というか、こんなありさまでは、次の抗生物質の点滴が始まる午前10時までには、間違いなく僕の病状は岸根医師には伝わらないだろう。
僕は病院の看護師さんに頼るのを止めた。看護師さんにお願いしても
もう明け方の5時だった。熱を測ると・・・なんと40度になっていた! いけない。熱がどんどん上がっていく。悪寒も続いている。身体はますますしんどくなった。しかも岸根医師が出勤するまで、あまり時間がない。
僕の頭の中で『死』という言葉が現実になってきた。
おそらく読者の皆様は、たかが抗生物質の点滴ぐらいで、『死』とか言うのはいくらなんでも大げさだと思われるだろう。しかし、僕の状態をよく考えてみてほしいのだ。僕は何カ月も抗がん剤の点滴を受けてきた。その何カ月の間、吐き気で苦しみ、食事は食べられるときでも一日にプリン一個という生活をずっと続けてきたのだ。もちろん、睡眠はとれていない。この数カ月で僕はガリガリにやせ細っていたのだ。それは異常と言っていいぐらいの痩せ方なのだ。
そんな状態で僕は薬が最も強い第三回目の抗がん剤治療を迎えたのだ。第三回目でも僕は今までと同様に吐き気に加え、一日にプリン一個の食事と睡眠不足が続いたのだ。さらに抗がん剤によって、僕の身体の中の赤血球や白血球などは正常な身体の十分の一にまで減少していた。血液中にほとんど赤血球や白血球が無いという異常な状態なのだ。つまり、僕は生と死の
前にも書いたが、こうした闘病記をつづっていると・・・何だか元気そうにみえるのだが、現実はそのように死に限りなく近い状態にあるのだ。
僕はただでさえ死に限りなく近い、生と死のぎりぎりの状態でかろうじて生きているのだ。そんな生と死のぎりぎりで生きている僕を、昨夜から40度を超える高熱と激しい悪寒が襲っているのだ。高熱と悪寒の原因が抗生物質にあるのは明らかだ。従って、もう一度その抗生物質の点滴をされたら死んでしまうというのは、決して誇張ではないことがご理解いただけると思う。『死』というのは誇張ではなく、僕が直面している現実そのものなのだ。
なんとかしないと、僕は死んでしまう・・・何とかしないと・・・
僕は悪寒に震える頭で一計を案じた。ベッドの横から、メモ用に取っておいた紙を取り出した。そしてボールペンを出して、その紙に昨夜、抗生物質の点滴を受けてからいままでの病状を記載したのだ。口頭で岸根医師に伝えるのが無理なら、せめて岸根医師が病院にやってきたら、このメモを渡してもらいたいと思ったのだ。いくらなんでもメモを渡すだけなら、やってもらえるだろう。
熱が40度あったが、僕は必死になって書いた。悪寒で手が震えて・・・僕は何度もメモを書くのを中断せざるを得なかった。それでも、僕は懸命になって書いた。必死だった。このメモには僕の命がかかっているのだ。僕は書き続けた・・・
昨夜10時に抗生物質の点滴を受けてから急に熱が上がりだしたこと。
解熱剤の点滴を受けたが、なぜか一向に熱が下がらなかったこと。
熱が上昇していて、いま明け方の5時だが熱が40度まで上がっていること。
熱に加えて悪寒がして身体がガタガタと大きく震えていること。
昨夜の抗生物質の点滴からこのように病状が急変していること。
従って今日の午前10時の点滴から抗生物質を替えて欲しいこと。
・・・・それらを全て書いた。
僕のいた病院では朝6時に看護師さんが交替して入れ替わる。僕は朝6時になるとナースステーションにコールして、入れ替わった看護師さんに来てもらった。昨夜とは別の女性の看護師さんがやってきた。
僕はメモを渡して昨夜からのことを説明した。そして、こう依頼したのだ。
「この紙を外来に持っていって、岸根先生が病院に来られたら読んでいただくように伝えていただけませんか?」
看護師さんは僕にうなずくと、そのメモをナースステーションに持っていってくれた。
やった! これでやっと岸根医師に病状が伝わる。岸根医師はすぐに抗生物質を替えるように指示を出してくれるだろう。そうしたら、午前10時からの点滴は新しい抗生物質になるのだ。
正直言って、僕はこれで助かると思った。病院にいて「助かる」とか「助からない」というのは変な言い方だが・・・繰り返して申し訳ないが、僕はさっき書いたような極限状態でかろうじて生きているのだ。さらに今は40度を超える熱があって、悪寒で身体がガタガタと震えているのだ。このまま時間が経って、また、いままでの抗生物質を点滴されたら、僕は間違いなく死んでしまうのだ。
それにしても・・・僕は思った。病院というところは融通が利かないこと、はなはだしい。正直言って、僕は信じられなかった。
患者の容体が急変しているのに、それを主治医に伝える手段がないとは・・・
看護師さんが誰も患者の容態の急変を率先して主治医に伝えようとしないとは・・・
みんなが失敗を恐れて、言われたこと以外のことをしないようにしているのだ。しかし、ここは命を預かる病院なのだ。こんなことが許されるのだろうか? ここは本当に病院なのだろうか?
しかし、そういった懸念ももう終わりだ。あとは岸根医師が出勤して、あのメモを読んでくれるのを待つばかりだ。
少しすると、さっきの看護師さんが再び病室にやってきて僕に命じた。
「もう一度、熱を測ってください」
僕は体温計で熱を測った。すると、なんと40.5度になっていた! 40.5度なんて・・・こんな高熱は、いままでに経験したことがない。
どんどん熱が上がる。僕はふと、岸根医師が早めに病院に出勤してくれて、10時を待たずに新しい抗生物質を点滴してくれたらいいなと思った。だが、そこまでは期待してはいけない。あと3時間もすれば10時なのだ。そうすれば、新しい抗生物質を点滴してもらえる。あと少しの辛抱だ。僕はなんとか自分を奮い立たせた。
その看護師さんは、僕の体温計を見て言った。
「熱が高いので解熱剤を準備しましょう」
解熱剤? 効くのかなあ? 僕は解熱剤はもう効かないと思った。しかし、高熱なので、解熱剤を点滴してもらうしかないだろう。しかし、解熱剤の点滴は昨夜はできないと言われたが・・・そこで僕は看護師さんに聞いてみた。
「昨日の夜に解熱剤の点滴をしたんですが、熱がまったく下がりませんでした。そのとき看護師さんに聞いたら、すぐに追加の解熱剤は投与できないと言われたんですが・・・解熱剤はいいんですか?」
「昨夜は解熱剤の点滴のすぐ後だったので、解熱剤を続けることができなかったんです。今は解熱剤の点滴から時間が空いているので、点滴でない解熱剤なら問題はありません」
そして、看護師さんはあの坐剤の解熱剤を持ってきてくれた。
「あっ、坐剤のタイプですか?」
看護師さんが笑った。
「お尻に入れるのは怖いですか?」
僕は先日看護師さんに坐剤の解熱剤をお尻の穴に入れてもらった。そのとき僕は坐剤が初めてだったので、怖くて脅えたのだ。それからどうも看護師さんたちの間で、僕が坐剤を怖がったということが面白おかしく伝わっているようだ。
「いえ、そうではないんです。先日、それをお尻に入れてもらったんですが、何故か熱が全く下がらなかったんです。その解熱剤は全然効かなかったんです」
僕がそう言うと、看護師さんは今度は口から服用する解熱剤を持ってきてくれた。さっき書いたように、僕はどんな解熱剤でももう効かないだろうと思っていたのだが・・・しかし、せっかく持ってきてくれたのだ。僕はその解熱剤を飲んだ。
また汗ができてきた。汗が収まると、タオルで身体を拭いて、下着などを着替えた。そして、熱を測ったのだが・・・40.5度で変わらなかった。僕はこのペースで熱が上がっていくと、41度になっているんじゃないかと心配したが、さすがにそこまでは上がらなかった。しかし、解熱剤を飲んだのに、熱はまったく下がらなかったのだ。昨夜と同じだった。依然として、40.5度という高熱のままなのだ。
予想していたとはいえ、こういった悪い結果になると、僕はやっぱり
僕は解熱剤は効かないだろうと予測したが、心の片隅では解熱剤が効いてなんとか高熱が下がってもらいたいと淡い期待を寄せていたのだ。しかし、その淡い期待は見事に砕け散ってしまった。
僕はナースコールをして、熱が下がっていないことを伝えた。すると、さっきの看護師さんが僕の病室にやってきた。看護師さんは意外そうな顔をしていた。
「解熱剤で熱が下がらなかったんですか?」
僕は黙って体温計を差し出した。看護師さんは体温計を見て・・・眼を大きく見開いて、大きく口を開けた。予想もしなかったので驚いたというアクションだ。そして、何も言わずに病室を出て行ってしまった。ホントに何も言わずに出て行ってしまったのだ。看護師さんの背中が、もう処置をすることは何もないと言っていた。
僕は放置されたのだ! 捨てられたと言ってもいい。
岸根医師があのメモを読んで、抗生物質の点滴液を替えてくれるのが、午前10時だ。あと2時間ほどだ。それまで僕の身体が持つかどうかだ。なんだか、その2時間と僕の身体の我慢比べのようになってきた。
しかし、あと2時間だけ耐えれば、岸根医師が抗生物質の点滴を替えてくれる。それだけが僕の希望だった。僕は、40.5度という高熱の中で、悪寒にブルブルと震えながら天井を見上げた。(つづく)
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