第55話 お願い、その点滴やめて 4

 看護師さんが何も言わずに僕の病室から立ち去ったことが、もう処置の施しようがないことを物語っていた。僕は看護師さんに捨てられたような気持になった。僕の心は今にも折れてしまいそうだった。もうこうなったら、岸根医師があのメモを読んでくれることが唯一の希望だった。


 あと少しの辛抱だ。岸根医師があのメモさえ読んでくれたら何とかなるのだ。僕は折れそうな心に繰り返しそうつぶやいたのだ。なんだか、こんなに頑張っている自分がかわいそうになった。頑張っても一向に報われない自分が、無性にいとおしくなったのだ。僕の眼から涙が一筋こぼれて落ちた。


 それから、僕は岸根医師からの連絡をひたすら待った。悪寒が激しくなって、僕は何度もガタガタと身体を大きく震わせた。布団を頭からかぶったが効果はなかった。暖かくしても震えは一向に止まらないのだ。僕は布団を頭からかぶった姿勢で震え続けた。


 いつの間にか、時刻は9時前になっていた。9時になったら外来の診察が始まる。岸根医師はもう病院に出勤しているはずだ。もうすでに僕の書いたメモは読んでくれているだろう。岸根医師から8階のナースステーションに抗生物質を替えるように指示がいっているはずだ。・・・しかし、それにしては何の音沙汰もなかった。


 ひょっとしたら、岸根医師からすでにナースステーションに抗生物質を替えるように指示がなされているのかもしれない。看護師さんたちはその指示を受けて、点滴液を替える準備をしているのかもしれない。そして、それは僕に伝える必要はないと判断して、僕に黙っているだけなのかもしれない。僕は楽観的に考えようとした。僕はできることは全てやったのだ。岸根医師は間違いなく僕の書いたメモを読んでくれているはずだ。


 9時になると、掃除のヘルパーさんがやってきた。前に書いたように、この病院の8階では何故か二人の掃除のヘルパーさんがいる。それぞれ異なった時間にやってきて、病室の中の違ったところを掃除してくれるのだ。9時に最初のヘルパーさんがやってきたのだ。


 ヘルパーさんはいつも病室のエアコンの風量を最大限に上げて掃除をする。これは掃除で埃が舞い上がるからだということは僕にも判った。だが掃除といっても、掃除機を簡単にかけて、ごみを捨てて、室内を雑巾で拭くだけなので、埃が経つことはないのだが。。。


 この日も掃除のヘルパーさんはエアコンの風量を最大にして掃除を開始した。僕の病室の中を強い風がゴーというものすごい音を立てて吹き荒れた。


 しかし、僕にはこれがこたえた。僕は悪寒に襲われて、身体がガタガタと震えているのだ。そんなところへ、強い風が僕の身体に当たったのだ。僕の悪寒は一気に激しくなった。身体がガタガタガタと激しく震えて、歯の根も合わないのだ。僕は布団をさらに深くかぶった。少しでも風を避けようとした。だが効果はなかった。布団の中で僕の上の歯と下の歯が激しくぶつかって、カタカタカタと鳴った。震えで歯を閉じることができないのだ。


 僕はたまらず布団をとって叫んだ。歯がカタカタカタと鳴っているので、とぎれとぎれの叫びになった。


 「やめて・・くだ・・さい。・・僕は・・悪寒で・・震えて・・いるんです。・・だから・・風を・・強くするのは・・やめて・・ください」


 掃除のヘルパーさんは風を弱くしてくれなかった。ヘルパーさんは「規則ですから」と僕に言うと、そのまま強い風にしたままで掃除を続けたのだ。


 僕はガタガタと震え続けた。掃除のおばさんにも僕の震えは見えているはずだ。それなのに一向に風を弱くしてくれないのだ。僕は身体が震えて、自分で立つこともできなかった。だから、自分でエアコンのスイッチまで行って風量を変えることができなかった。僕は震えながら、ヘルパーさんの掃除が終わるのをじっと待った。


 ガタガタ、ガタガタと僕の身体が震えた。それに合わせて、僕の下あごが震えて・・下の歯が上の歯にカタカタとぶつかっている。まるでカスタネットを打ち鳴らすようだった。病室の中にカタカタという音がひびいた。


 僕は意志の力で下あごの震えを止めようとした。下あごの筋肉に力をこめて・・・なんとかして下あごを固定させようとしたのだ。だが、その努力は報われなかった。僕の意思とは別に、僕の下あごは動き続けた。意志の力では震えは止まらないのだ。

 

 掃除のおばさんがエアコンの風量を最大にしているので、病室の中にはゴ―という風の音が鳴り響いている。その中で、下あごと上あごがぶつかる音が病室にひびくのだ。


 ゴー、カタカタ、ゴー、カタカタ、ゴー・・・

 ゴー、カタカタ、ゴー、カタカタ、ゴー・・・

 ゴー、カタカタ、ゴー、カタカタ、ゴー・・・


 まるで、協奏曲を奏でているようだ。


 そのときだ。


 いたっ!


 僕は上下の歯で思い切り舌を噛んでしまった。口の中に生暖かいものが広がった。僕は思わずその生暖かいものを飲み込んだ。


 そして、僕は昔見た映画を思い出した。何十万人に一人という難病を患った若い女性が主人公だ。難病の発作が前触れもなく突如彼女を襲うのだ。そして、発作が起こると彼女の身体がガタガタと激しく震え出すのだった。


 そうすると、そばで見ていた医師や看護師が真っ先にすることは・・・近くにあったタオルやハンカチを彼女の口に突っ込むことだった。近くにタオルやハンカチがないときは雑巾でも口に突っ込むのだ。汚いとか汚れているとか言っていられないのだ。震えで舌を嚙まないようにする措置だった。まず何でもいいから彼女の口に突っ込んで舌を噛まないようにして、それからガタガタと暴れる彼女の身体を抑え込むのだ。


 映画を観ていて僕はあんな激しい震えが本当にあるのだろうかと思った。何だか映画の上でのフィクションのように思えたのだ。


 だが、実際に自分が悪寒で激しい震えに襲われて・・・僕は映画のヒロインの震えが本当にあることだと知ったのだ。


 そうだ。映画の中の彼女はまさしく今の僕だ。このままでは間違いなくまた舌を噛んでしまう。僕は映画のシーンを思い浮かべた。そうだ。僕も口の中に何か入れなければ・・・


 僕は横にあった白いタオルを手にとった。さっき解熱剤で出た汗をふいたタオルだった。しかし、今はそんなことに躊躇していられない。僕はタオルの一端を丸めて口の中に突っ込んだ。汗の匂いと塩辛い味が僕の口の中に広まった。そして、僕は両手で下あごを押さえつけた。それでも僕の手のひらの中で下あごは震え続けた。だが、カタカタという音がやんだ。口の中のタオルのお陰で、もう舌を噛む心配はなくなったのだ。


 僕はタオルを口から出してみた。血がべっとりと付いていた。まだ、血は止まっていないようだ。僕は血の付いていないタオルの反対側を丸めて、もう一度口の中に突っ込んだ。


 僕の口はタオルの一端をくわえている。僕の口から白いタオルが長く垂れ下がっていた。そのタオルの先には真っ赤な血がべっとりと付いているのだ。僕の身体が悪寒で激しく震えるたびに、僕の頭が揺れた。それに合わせて、口から長く垂れ下がった白いタオルが大きく揺れた。そして、その白いタオルの先には血がべっとりとついているのだ。


 何とも凄まじい光景だ。僕は自分で自分のことをそう思った。


 震えながら、ふと見ると、掃除のおばさんが掃除の手を休めて僕を凝視していた。タオルを口にくわえている僕の姿が異様に映ったのだろう。僕はおばさんを見ながら・・ガタガタと震えて・・・口にくわえている血の付いた白いタオルを揺らし続けた・・・・・


 10分ほどしてやっと掃除が終わった。おばさんがエアコンの風量をやっと元に戻してくれた。ゴーという音が聞こえなくなった。僕の震えは少し小さくなった。僕はタオルを口から外した。しかし、これで安堵できないのだ。少ししたら、もう一人の掃除のヘルパーさんがやってくるのだ。


 また、あんなに強い風量で掃除をされてら本当に殺されてしまう。


 僕は本気でそう思った。ナースコールで看護師さんを呼んだ。女性の看護師さんが僕の病室に来てくれた。


 「掃除で風を強くされると、悪寒が激しくなってしまうんです。震えで僕は舌を噛んでしまいます。僕がこんな状態なので、もう今日は病室の掃除をやめてもらえませんか」


 僕は必死に窮状を看護師さんに訴えた。そのときも、僕の身体は悪寒でガタガタと震えていた。看護師さんは僕が震えるのを見ていたが、こう言ったのだ。


 「規則ですから掃除を止めるわけにはいきません」


 なんということだ。眼の前で患者がガタガタと震えているのだ。何故聞いてくれないのだ。病室の中をほうきで吐くのではないのだ。掃除は掃除機をかけて、クズ籠のゴミを捨てて、病室の中を雑巾で拭くだけなのだ。それに、僕は終日ベッドに寝ているので、病室にはゴミなんかほとんどないのだ。今日一日、掃除をやらなくてもどうということはないはずだ。


 そこへ次の掃除のヘルパーさんがやってきた。看護師さんがいる前で、ヘルパーさんはさっきと同じようにエアコンの風量を最大にして掃除を始めた。また、病室の中をゴーという音とともに強い風が吹き荒れた。僕の震えがまた激しくなった。カタカタカタと僕の歯が再び鳴りだした。僕は思わず叫んだ。


 「やめて・・くれー」


 しかし、掃除のヘルパーさんはやめてくれなかった。さっきのおばさんと同じように掃除を進めていくのだ。そして、眼の前の看護師さんも掃除を止めさせてくれなかった。僕は眼を疑った。眼の前の僕がガタガタガタと身体を震わせ、カタカタカタと歯を鳴らしているのだ。看護師さんに僕が大きく震えているのが分からないはずはない。僕は彼女の眼の前にいるのだから。。。


 それでも、看護師さんはヘルパーさんの掃除をやめさせてくれなかった。


 仕方がない。僕はまた血の付いた白いタオルを口にくわえた。看護師さんが一体何をするのかと眼を見開いて、タオルをぶらんと口にぶら下げた僕を見ていた。


 また激しい悪寒が来て・・僕の身体が震えて・・僕の頭が揺れて・・僕が口にくわえた血が付いた白いタオルが宙に揺れた・・


 それを見て、看護師さんはもう一度繰り返した。


 「規則ですから掃除を止めるわけにはいきません」


 そう言って、彼女は僕の病室を出て行った。病室には僕と掃除のヘルパーさんが残された。そして、ヘルパーさんは大きく震える僕と大きく揺れる血の付いた白いタオルを横目で見ながら掃除を続けたのだ。


 こんなことがあるのだろうか? これは現実だろうか?


 僕は血の付いた白いタオルを口にくわえて、それをブルブルと震わせている。僕は思った。これってまるで安物のホラー映画だ。


 僕は恐怖に脅えるホラー映画の主人公だった。普通の映画なら最後は必ずハッピーエンドが待っているが・・・僕が演じている映画は・・・最後がハッピーエンドではないのだ。


 これは死のホラー映画なのだ。(つづく)

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