第56話 お願い、その点滴やめて 5

 10分ほどして、ようやく二人目の掃除のおばさんの病室内清掃が終わった。僕には地獄のような時間だった。掃除のおばさんさんはいつものようにエアコンの風量を通常のレベルに戻して、何も言わずに病室を出ていった。エアコンの風量が通常のレベルになったので、病室内からあのゴーという音が消えた。僕の身体の悪寒も少し収まった。僕は掃除の間タオルをずっと口にくわえたままだったのだが、やっとタオルを口から外すことができたのだ。


 僕は掃除のおばさんとの闘いで疲れ果ててしまった。


 しかし・・・僕は視線を宙に這わせた。それにしても、岸根医師からの連絡が無いのだ。もうすぐ10時だ。10時になると抗生物質の点滴が始まってしまう。抗生物質を替えてもらわねばならないのに、岸根医師はどうしているんだろう。こんなに連絡が無いのはどうもおかしい? 僕は首をひねった。


 いったい、どうなっているんだろう?

 なぜ岸根医師は僕に連絡してくれないんだろう?

 岸根医師は僕のメモを読んでくれたのだろうか?

 岸根医師は抗生物質を替えるという指示をもう出してくれたのだろうか?


 僕の想いは乱れに乱れた。


 そうして、乱れた思考の中から一つの考えだけが、僕の頭にどうしても繰り返し繰り返し浮かび上がってくるのだ。それは「それにしても岸根医師から僕に何の連絡もないのは、いくらなんでもおかしい」という考えだ。いま外来で手が離せないとしても、あのメモを読んだのなら、岸根医師は看護師さんに「僕に抗生物質を替えるように手配したと伝えてください」と依頼するはずだった。


 しかし、看護師さんは誰も僕のところにやってこない。誰も何も伝えてくれない。もうすぐ、問題の10時になるのに・・・・本当にどうなっているのだろうか?


 そんな僕の想いとは別に時間が過ぎて行った。


 とうとう10時になった。


 女性の看護師さんが点滴のラックを僕の病室に運んできた。僕は運命のときがついにきたと思った。点滴のラックには、今までと違う点滴液の袋がぶら下がっているはずだ。僕は祈るようにラックに眼をやった。


 そして・・・ラックに吊るされた抗生物質の点滴液の袋を見て・・・僕は言葉を失った。新しい点滴液ではなかった。なんと今までと同じ点滴液の袋だったのだ。


 そんなバカな! どうして今までと同じ点滴液の袋なんだ!


 僕はたまらず看護師さんに聞いた。


 「そ、それは、今までと同じ抗生物質の点滴なのですか?」


 看護師さんは当然のことという風に言った。


 「ええ。そうですよ」


 「ど、どうして・・・昨夜、抗生物質の点滴をしてから容体が急変したので、抗生物質を替えてくださいと僕はあのメモに書いたんですよ。それなのに、どうして今までと同じ点滴液が・・・。あの僕が書いたメモを岸根先生は読んでくれたんでしょう?」


 「いえ、岸根先生はまだ読んでませんよ」


 ええっ。岸根医師はまだ僕の書いたメモを読んでいないんだって・・・そんなバカな!!!


 僕は言葉を失った。看護師さんの言葉が信じられなかった。あんなに岸根医師に僕の書いたメモを渡してくださいと頼んだのに・・・

 まだ、僕の書いたメモは岸根医師の手には渡っていなかったのか・・・

 では、あのメモは今どこにあるんだ?


 僕は思わず看護師さんに聞いた。


 「えっ、では、僕が書いたあのメモは今どこにあるんですか?」


 「あのメモは8階のナースステーションに置いてありますよ。岸根先生がナースステーションに来たら見せようと思って・・・でも、岸根先生はまだナースステーションに見えてないので、まだメモは渡していませんよ」


 えっ、僕は絶句した。そして、その場に固まってしまった。


 あれだけあのメモを外来に持っていってくださいと頼んだのに! 結局、誰も持っていってくれていなかったのだ。ということはやっぱり岸根医師は僕の容態の急変をまだ知らないのだ。


 なぜメモを8階のナースステーションに置いておいたのだ。僕があんなに、8階のナースステーションに置いておくのではなく、外来に持っていくか、あるいは外来の岸根医師に8階にメモがあることを伝えてくださいと頼んだのに・・・なぜそうしてくれなかったんだ。あるいは、そうしてくれないのならば、なぜ僕にそう言ってくれなかったんだ。


 何ということだ! 僕の頭から何かが崩れ落ちた。僕のすべての努力は無駄になっってしまった。


 僕は見捨てられた!・・・と僕は思った。


 僕の書いたメモはナースステーションに完全に放置されたのだ。看護師さんは誰も僕のメモに注意を払ってくれなかったんだ。入院患者の病態が急変しているというのに・・・看護師さんは誰も気にも止めてくれなかったのだ。これって・・・僕が看護師さんに見捨てられたということではないのか? 一体全体、何ということなのだ! 病院というのは患者を治療するところではないのか! 自分たちの都合やルールを最優先させて、患者を見捨てることが病院のすることなのか!


 僕の脳裏に絶望が渦巻いた。悔しくて・・悔しくて・・僕の眼から涙が一筋こぼれて落ちた。


 僕は看護師さんが運んできた点滴ラックに眼をやった。そして聞いた。


 「ということは、僕はそこに用意してある、今までと同じ抗生物質の点滴をされることになるんですか?」


 看護師さんは点滴の準備をしながら、こともなげに応えた。


 「ええ、そうですよ」


 看護師さんは何が問題なのかという口調だった。この看護師さんも僕のメモを読んでいるはずなのに・・・抗生物質の点滴をしてから病態が急変したことを知っているはずなのに・・・どうして今まで通りの抗生物質の点滴になるのだ。


 僕は看護師さんにこう言わざるを得なかった。


 「でも、看護師さんはみなさん僕の書いたメモを読まれているんでしょう?」


 看護師さんは手を休めずに言った。


 「ええ、読んでいますよ。私も読みましたよ」


 僕の語気が荒くなった。


 「それだったら、どうしてその点滴をするんですか? 僕は昨夜その点滴をされてから急に容体が悪くなったんですよ! 今も熱が40度以上あって、悪寒がひどくて身体の震えが止まらないんですよ。看護師さんたちはそれを知っているのに、まだ僕にその点滴をしようとするんですか?」


 それでも看護師さんは手を休めずに言ったのだ。


 「ええ。あなたの容態が急変したのはよく分かっていますよ。でも、私たちは岸根先生から抗生物質の点滴液を替えるようには指示されていないんですよ」


 それはそうだ。僕のメモが8階で止められていては、岸根医師が僕の容態の急変を知るはずもない。そして、僕のメモを止めているのは、誰あろう8階の看護師さんたちに他ならないのだ。だから、あんなに僕のメモを岸根医師に渡してくださいと頼んだんじゃないか!


 看護師さんの話を聞いていると、話がこんがらがって・・なんだか頭がおかしくなりそうだった。僕は混乱した。どうしてこんなことになるんだ?


 看護師さんはこう言っているのだ。


 『私たちは昨夜、今まで通りの抗生物質の点滴をして、あなたの容態が急変したのはよく分かっている。だけど、私たちは岸根先生から抗生物質の点滴液を替えるようには指示されていない。だから、私たちは今まで通りの抗生物質の点滴を再びあなたにするんだ』


 これって、明らかにおかしいだろう。だって、今まで通りの抗生物質の点滴をして、僕の容態が急変したのはよく分かっているのならば、今まで通りの抗生物質の点滴はもうするべきではないだろう。


 こんなことは子どもでも分かる理屈じゃないか。それでも今まで通りの抗生物質の点滴をするというのか? 今まで通りの抗生物質の点滴をするというのは、岸根医師が指示を出していないからという理由だ。しかし、岸根医師が抗生物質を替えるという指示を出していないのは、あなたたちが僕のメモを岸根医師に見せていないからじゃないか!


 しかし、今はそんなことを言っているときではなかった。僕の眼の前で、看護師さんが今までと同じ抗生物質の点滴を準備しているのだ。なんとしてでも、あの点滴を阻止しなければならない。


 でも、どうしたらいいんだろう・・・


 ここで、読者の皆様、特に女性の読者の皆様はこう思われるのではないだろうか?


 あなたは男性で、看護師さんは女性じゃないの! いくら看護師さんが今までの抗生物質の点滴をしようとしても、力づくで女性の看護師さんを阻止できるでしょう。あなたの手で看護師さんの手を押さえたら、看護師さんは手が動かせなくなって、点滴ができないでしょう。あなたはなぜそうしないの?


 確かにおっしゃる通りだ。僕は男性で、この8階の看護師さんは全員が女性なのだ。しかし、僕の状況をもう一度よく考えてほしい。前にも書いたが・・・ここに同じ文章を繰り返し書くことをお許しいただきたい。


 僕は何カ月も抗がん剤の点滴を受けてきた。その何カ月の間、吐き気で苦しみ、食事は食べられるときでも一日にプリン一個という生活をずっと続けてきたのだ。もちろん、睡眠はとれていない。この数カ月で僕はガリガリにやせ細っていたのだ。それは異常と言っていいぐらいの痩せ方なのだ。


 そんな状態で僕は薬が最も強い第三回目の抗がん剤治療を迎えたのだ。第三回目でも僕は今までと同様に吐き気に加え、一日にプリン一個の食事と睡眠不足が続いたのだ。さらに、僕の身体の中の赤血球と白血球は正常な身体の十分の一にまで減少していた。ほとんど赤血球と白血球が無いという異常な状態なのだ。


 つまり、僕は生と死の狭間の、極めて『死』に近いところで、かろうじて生きているのだ。


 そんな僕を昨夜から40度を超える高熱と激しい悪寒が襲っているのだ。


 こんな『かろうじて生きている』状態で、加えて40度を超える高熱と激しい悪寒に襲われている僕が、力づくで女性の看護師さんが点滴をするのを阻止しようとしても・・・阻止したいのだが、僕にはそこまでの力はとても残っていなかったのだ。看護師さんは若い健康な女性だ。僕は簡単に看護師さんに組み伏せられてしまうことは眼に見えていた。そして、看護師さんに身体を押さえつけられて、無理やり今までと同じ点滴をされてしまうことになるのは明らかだったのだ。


 『か弱い女性』という言葉があるが、もし対をなす『か弱い男性』という言葉があるならば、それは今の僕に他ならないのだ。今の僕は力づくでは到底女性の若い看護師さんにはかなわない。これが僕が力づくで看護師さんを阻止できない最大の理由なのだ。


 看護師さんが点滴の準備をやり終えた。看護師さんが点滴のラックを僕の前に持ってきた。点滴のラックは僕にとっては凶器以外の何物でもなかった。


 もう僕は狼の前のか弱い子羊だった。力では看護師さんに敵わない。このままでは殺されると僕は思った。本気でそう思ったのだ。


 僕は殺される! 誰か、誰か助けてー


 僕は声にならない叫びを上げた。(つづく)

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