第57話 お願い、その点滴やめて 6

 看護師さんが点滴の針を取り出した。


 いよいよだ。あれを腕に刺されたら終わりだ。あの点滴をされたら・・・僕は、僕は間違いなく死んでしまう。そのとき、また悪寒が僕を襲った。僕の身体が大きく震え、歯がカタカタと鳴った。40度の高熱で僕の頭が朦朧もうろうとなった。


 ここは地獄だ。僕はそう思った。看護師さんを見ていて・・・こんなときなのに、僕は昔見たハリウッドのホラー映画を思い出したのだ。著名な作家のベストセラー小説を映画化したものだった。古い映画で、僕は以前リバイバル専門の映画館でそれを見たのだ。こんなストーリーだった。


 著名な推理小説作家が一人で雪道を車で走っていて事故にあってしてしまう。彼は足を折って動けなかったが、近くに住む女性が彼を見つけて自宅に連れて帰るのだ。彼女は元看護師で、また作家の大ファンだった。作家は一人暮らしの彼女の家で手当てを受けるが・・・やがて、彼女の狂気と異常性が明らかになって、作家が恐怖のどん底に落とされるという映画だった。作家は足を骨折していて動けないのだ。力づくで彼女に抵抗しても、簡単に彼女に組み伏せられてしまう。作家はそんな状況で、いったいどうやって彼女から逃げることができるのか・・・・という点が見どころの映画だった。その映画の最後に、作家を助けた女性がワゴンを引いてくるのだが、そのワゴンには包丁が積んであって、彼女は作家の前に来たときにその包丁を手にするというシーンがあった。


 看護師さんが今までと同じ抗生物質の点滴液を吊るしたラックを僕の前に運んでくるのを見て、僕は映画のその最後のシーンを想い出してしまった。 


 映画の中の作家は力づくで女性から逃げようとしても、足を骨折しているので、力では女性に太刀打ちできないのだ。僕も死のふちをさ迷っている状態なので、力ではとても若い健康な女性の看護師さんには太刀打ちできない。僕の状況は映画の中の作家と全く同じだった。


 だが、これは映画ではない。現実の世界の出来事なのだ。しかし、どのようにして目の前の女性から逃げ出すかという点において、映画は僕の参考になる。映画の中の作家は、力ではなく頭を使って女性から逃げ出すことに成功する。その顛末をここに書くのはルール違反だから書かないが、その映画は僕にかすかな希望を与えてくれた。


 僕にも作家と同様に頭を使えばここから脱出できるかもしれない・・・そう思ったが、映画のようには良案が浮かばない。どうするんだ? どうしたらいいんだ? 作家のようにはすぐにアイデアが出ない・・・


 僕は一瞬この病室から飛び出そうかと思った。飛び出すことならば、今の僕でも出来る。しかし、思い直した。僕は白血球がほとんど無い身体だ。病室を飛び出しても、すぐに外にいる無数の細菌が僕の身体を犯してしまうだろう。病室の外に出るのは死にに行くようなものだった。しかし、病室の中にいても・・・やはり死が迫っているのだ。看護師さんが点滴の針を持って僕に迫ってくる!


 僕は追い詰められた。心の中で叫んだ。


 お願い、その点滴は止めて・・・


 看護師さんが僕の眼前に立った。


 一体どうしたらいいんだ? 万事休すとはこのことだ。


 僕はまさに狼の前の子羊だった。一瞬、甘美で危険な考えが僕を支配した。僕は一生懸命やった。できることは全てやったのだ。もう充分だ。もう充分に苦しんだ。だから、もうじたばたせずに看護師さんの点滴を受け入れようじゃないか。そうすると、一瞬は苦しいかもしれないが・・・すぐに楽になるだろう。さあ、身体の力を抜いて、看護師さんの前にすべてを投げ出そうじゃないか。これが僕の運命だったのだ。・・・僕の心の中に灯っていた生命の灯りが少しずつ消えていった。


 だが、次の瞬間、さっきの映画の中の作家が僕の頭に浮かんだ。作家は最後まで生きる希望を捨てなかった。運命に最後まで抵抗したのだ。なぜ僕にそれができないのだ・・


 僕は思い直した。そうだ。こんなひどい運命を受け入れるなんて、やっぱり僕にはできない。僕の心の中にかすかな灯りがともった。そうだ。あの作家のように生きなければならない。こんな運命に翻弄されてはいけない。生きるんだ。何としてでも生きるんだ。・・・その瞬間、僕の心の中に大きく灯りがともったのだ。生命の灯が燃え上がった。


 もう一度、さっきの映画のシーンが僕の頭をよぎった。映画の作家は知恵を絞って危機を脱したのだ。僕にも必ず方法があるはずだ。生きるんだ。そのためには考えろ。考えろ。


 力づくで抵抗してもダメならば・・・そうだ。僕に残された唯一の方法は言葉でこの危機から脱することだ。なんとか、言葉でこの危機をかわすことはできないだろうか? もっと考えろ。知恵を絞れ。きっと何か方法があるはずだ。


 ここの看護師さんたちは責任を取らされることを極端に恐れている。だから、今までの抗生物質ではダメだと分かっていながら、岸根医師の抗生物質を替えなさいという指示がないために、今までの抗生物質のままで点滴をしようとしているのだ。逆に言うと、看護師さんたちは自分たちに責任が及ばないことならば受け入れてやってくれるだろう。なんとか彼女たちの責任にならないやり方で、点滴をかわすことはできないだろうか? 彼女たちの責任にならないことって何だろう? 僕は文字通り必死で考えた。

 

 点滴を止めるのではなく、何らかの方法でかわせばいいのだ。看護師さんの責任にならない方法で、点滴をかわす? 責任にならずに点滴をかわす? かわす?


 そのときだ。僕の頭に一つの考えが浮かんだ。そうだ。点滴をいったんかわすのだ! 点滴の時間を少し先延ばししてもらえばいいのだ。それなら、看護師さんの責任にはならないはずだ。そして、先延ばしした時間に岸根医師に病室に来てもらえばいいんだ。思いついたのは・・実に単純なことだった!


 そして、僕は最後の抵抗を試みた。力づくではなく、言葉でこの事態に抵抗したのだ。僕は看護師さんに言った。


 「その点滴は絶対にイヤです。僕はその点滴をされるのを拒否します」


 看護師さんは一瞬動きを止めた。そして困ったように僕を見た。駄々をこねる子どもをどのようにしてあやそうかという顔だった。しかし、看護師さんの動きが止まったので僕は勇気を得た。


 ここだ。ここが最後の勝負だ。僕は考えていた言葉を口にした。これが僕にできる最後の勝負だった。


 「岸根先生から指示が出ていないので、その点滴をしなければならないのは分かりました。では、その点滴をしてもらうとして・・・せめて点滴の時間を少しだけ遅らせてください。点滴の時間が少し遅れるぐらいなら、看護師さんの責任にはならないでしょう。そして、点滴の時間を少し遅らせてもらっている間に、岸根先生をここに呼んでください。僕が直接岸根先生と話をします」


 看護師さんが『点滴の時間を少しだけ遅らせる』ことを受け入れてくれるかどうかが、すべての鍵を握っているのだ。僕は看護師さんを見つめた。どうか受け入れてくれ・・と心の中で祈った。


 看護師さんは呆れたように僕の顔を見た。そして、そこまで言うのならば仕方がないという顔をした。そうして「分かりました」と言って、ナースステーションに戻っていったのだ。


 『点滴の時間を少しだけ遅らせる』ことを受け入れてくれた!


 僕はベッドにひっくり返った。大きく息を吐いた。


 助かった・・・


 安堵が僕の胸に広がった。


 それから、看護師さんが外来の岸根医師に連絡をとってくれた。そして、ついに・・・10時30分ごろ岸根医師が僕の病室に来てくれたのだ。病室にやってきた岸根医師を見て、僕は神が来てくれたように感じた。岸根医師の姿が神々しかった。


 岸根医師の場合、外来の診察はいつも午前9時から午後1時ごろまでぶっ続けだ。こんな時間に外来の診察が終わる訳はない。僕の申し出を受けて、外来の診察をいったん中断して、僕の病室に来てくれたのは間違いなかった。


 僕はナースステーションからあのメモを持ってきてもらった。そしてメモを見せながら岸根医師に昨日からの容態の変化を説明した。岸根医師は驚いた顔をしながら、僕の説明を聞いてくれた。説明の途中でも悪寒がきて、僕の身体がガタガタと震えた。岸根医師が驚いた顔でそれを見ていた。


 岸根医師は僕の説明を聞きながら、なぜ僕の身体にこんなことが起きているのかが不思議だという様子だった。その疑問が岸根医師の顔に出ていた。僕の説明が終わると岸根医師が言った。


 「分かりました。今から抗生物質を替えましょう。でも、どうしてこんなことになったのかを調べる必要がありますので、ちょっと血を採らせてください」


 そして岸根医師は看護師さんに僕の採血を指示した。採血が終わると、岸根医師はその血を持って急いで僕の病室を出ていった。すると、岸根医師と入れ違いに、さっきの看護師さんが点滴のラックを押してきた。・・・そのラックには、今までと違う点滴の袋が吊るされていたのだ。


 午前10時30分過ぎに、こうして僕はやっと今までと違う抗生物質の点滴をしてもらったのだ。あんな苦しんだのに、僕を救ったのは、生きるための意欲とほんのちょっとした機転だったのだ。


 その後、悪寒はしばらく続いた。僕はベッドの上で布団にくるまって、悪寒が去るのをじっと待った。そして、その日の午後3時ごろになって、ようやく悪寒が収まってきて、夜になるころには身体が震えることはなくなった。熱もゆっくりと下がっていった。その日の夜は、僕は久しぶりに眠ることができた。そして翌日の朝になると、熱も平熱に戻ったのだ。


 さらにその翌日だ。岸根医師が血液検査の結果を持ってきてくれた。


 「血液の中に大腸菌などの反応が検出されました。やはり抗生物質に対抗する耐性菌ができていました」


 岸根医師は僕の容態が急変した原因が分かってすっきりしたという顔をしていた。


 僕は思った。


 耐性菌より怖いものがある。それは硬直した病院の体制だ。


 しかし、僕はその話は岸根医師にはしなかった。そんなことを言っても・・・岸根医師個人ではどうしようもないのだ。


 僕はあの月曜日の夜の出来事を振り返った。僕はホラー映画のシーンを思い出したと書いたが、それは本当にホラー映画のような出来事だった。


 よく助かったものだ。よく死ななかったものだ。僕は心からそう思った。


 まあ、無料でホラー映画の主人公の体験をさせてもらったと思うしかないか。。。


 そう思いながら、僕は新しい抗生物質の点滴液を見上げた。大きな山を乗り越えた。僕はそう思った。後は白血球や赤血球が増えていくのを待つばかりだ。そして、白血球や赤血球が増えていって正常に近くなったら、第三回目の抗がん剤の点滴治療が終了する。それは、今回の一連の入院治療が終了することを意味するのだ。本当に長かった。だけど、ようやくここまできた。よく死なずにここまで来れたものだ。僕の心を熱いものが満たした。


 思わず僕の眼から涙がこぼれた。涙がポタポタと布団に落ちた。僕は病室で一人で声を出さずに泣いた。僕は窓に眼をやった。窓には僕が作った紙製のブラインドがある。紙のブラインドは大きく開け放してあって、窓からは明るい午前中の太陽がさんさんと病室に降り注いでいた。僕は涙もふかず、飽きることなく太陽の光を眺め続けた。


 いよいよ退院だ。(つづく)

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