第58話 迷惑患者がやってきた
前回、抗生物質の点滴を替えてもらった話を書いた。抗生物質の点滴を替えてもらってから、僕の白血球や赤血球は少しずつ少しずつ増加を始めたのだ。
僕はベッドの上で小躍りするように喜んだ。まさに待ちに待った瞬間だったのだ。体の中から希望が湧き上がってくるのが分かった。気持ちが高揚した。身体が健康なときだったら、一人で即興のダンスでも踊りだしたいような気分だった。
このまま白血球や赤血球が増加していって、正常な数に近くなれば・・・第三回目の点滴治療の終了だ。そして、それはこの一連の入院治療の終了を意味するのだ。僕は1カ月ごとに保険の関係で入退院を繰り返していたが、その便宜的な退院ではなく、本当の退院が僕を待っているのだ。僕はそう理解していた。
しかし、白血球や赤血球は増加を始めたのだが・・・その増加の速度は実にゆっくりしたものだったのだ。
まるで、『お前には退院はまだ早いよ。もっと自分を見つめなおしてから退院しなさい』と言われているようだった。それでも僕は岸根医師に聞かざるを得なかった。この先はどうなるのかと。。。
前に書いたように岸根医師は土日が休みなのだが、よく土曜日に病院に出勤していた。平日は岸根医師も忙しい。それで、僕は岸根医師が土曜日に僕の病室に来てくれたときに、こう聞いたのだ。
「先生。白血球や赤血球が正常値に戻ったら、あとはどうなるんですか?」
岸根医師はこう答えた。
「第三回目の点滴治療で白血球や赤血球が正常値に戻ったら、
僕は岸根医師に聞いた。
「自宅静養ですか? 自宅静養中にまた病状が悪化することもあるんですか?」
「自宅静養といっても普段通りの生活を送っていただいたらいいんですよ。それで、自宅静養中にまた病気が悪化することは・・・それはもちろんあります」
「その場合は・・どうなるんですか?」
「また入院していただいて・・・今回の抗がん剤の点滴とは違う別の治療を受けていただくことになります」
「先生、それはどのような治療なのでしょうか・・?」
「いや、その話はやめましょう。もし、万一、そういうことになったら、そのときにお話しますよ」
そのとき僕は肝心なことを岸根医師が話してくれていないことに気づいた。あぶない、あぶない・・いつもの岸根医師のペースだ。いつもこのペースで肝心なことを聞かないうちに話が終わってしまうのだ。僕は聞いた。
「先生、さっき骨髄穿刺検査で骨髄液に異常が見られなかったら本当の退院だと言われましたよね。では、骨髄穿刺検査で骨髄液に異常があったときはどうなるんですか? この場合は本当の退院ではなくなるんですね? ということは、すぐにまた長期の入院が必要になるんですか?」
僕が一番答えを知りたい質問だ。岸根医師は『やっぱり気づいたか』という顔をして苦笑いを浮かべた。
「その場合はですね。残念ですが・・いったん退院して・・再度入院していただくことになります。そして、やっぱり抗がん剤の点滴とは違う治療になります」
「先生、それは・・どのような治療になるんですか?」
「そのときの治療は・・いや、止めましょう。また、そのときになったら説明しますよ・・・それより、以前あなたは臨床心理学の本を読むのが好きだと言ってましたよね。私の外来の患者の中にはいろいろな方がいるんです。実はその中に、私がものすごくストレスを感じる患者がいるんですよ。その患者を臨床心理学ではどう説明するのか聞かせてもらえませんか?」
また岸根医師に・・はぐらかされてしまった。しかし、僕はそれ以上質問することはできなかった。長く苦しい抗がん剤の点滴がやっと終わったのに・・最後の骨髄穿刺検査で骨髄液に異常が見られたら、また長期入院して別の治療を受けるなんて・・・そんなことは僕はもう考えたくなかったのだ。楽しいことだけを考えよう。
そこで僕は気分転換をしたくなった。それで、岸根医師が言い出した外来の患者の話に付き合うことにしたのだ。この話自体が、実は岸根医師の巧みな誘導だったとは思うのだが・・・
僕が臨床心理学の本を読むのが好きだというのは本当だった。僕の仕事はエンジニアだが、僕は昔から心理学にひどく興味を持っていた。それは以前書いたように、僕がよく正夢を見たり、麻雀の牌が見えたりしたからだ。そんなことがたまにあったので、僕は人間の心に興味を持って、よく臨床心理学の本を読んでいたのだ。
岸根医師は困っている患者のことを詳しく僕に話してくれた。
岸根医師の話はこうだ。その患者というのは定期的に外来診療に通ってくる年配の女性だ。そして、その人は岸根医師が何を言っても反論してくるのだそうだ。岸根医師の話をここに再現すると、その患者と岸根医師との会話は次のようなものになる。
「〇〇さん、それではこの薬を出しますから、この薬を飲んでしばらく様子を見てください」
「でも、先生。前にも処方してもらった薬は全然効果がなかったじゃないですか。今度の薬は本当に効くんですか?」
「この薬は大丈夫ですよ。効果があると思いますよ」
「でも、また効果が無かったら・・お金と時間の無駄遣いになりますしねえ・・・」
「では、この薬と、それとタイプが違う薬の二種類を処方しましょう。どちらも効果が無いということは絶対にありませんから」
「でも、それも効かなかったら・・・どうなるんですか? もう、他に薬はないんですか?」
「〇〇さん、ある程度、医師を信頼してもらわないと困りますよ。他の患者さんにもこれらの薬を処方して、効果があるんですから・・・」
「でも、前に処方してもらった薬は効かなかったじゃないですか・・・」
「効果がないこともあるんです。医師は病状を探りながら薬を出しますから、効果が無いというのも重要な知見なんですよ。まあ、病院に任せてください」
「効かなかったら、病院に来ている意味がないじゃないですか・・」
「では、〇〇さん、いったい、どうされたいんですか? 処方する薬が飲めないということなら、もう入院していただくしかありませんよ」
「先生、そんな怖い顔をして言わないでください。先生の顔は普通でも怖いんだから・・・」
「この顔は生まれつきです・・・あなたに顔のことをとやかく言われたくありませんね。だいたい、あなたは・・・」
このように、〇〇さんは岸根医師の言うことを
僕は岸根医師と同じような経験をしたことがあった。僕の周りに、何を言っても反論してくる人がいたのだ。僕もその人には手をやいていた。僕の経験が役立つかもしれない。僕は岸根医師に言った。
「臨床心理学の交流分析に、ストロークという考え方があります。ストロークというのは、人間同士の交流のことですね。お話を伺うと、たぶんその〇〇さんは岸根先生とのストロークが途切れるのが怖いんですよ。先生の言うことに反対していたら、嫌でも会話が続きますよね。だけど、処方された薬を飲みますと言ってしまえば、外来での会話が終了してしまうじゃないですか。〇〇さんは先生との会話が終わると、なんだか荒野に一人残されたような心細さを感じるのかもしれませんね。そこで、〇〇さんは先生の言葉を悉く否定することで、先生とのストロークを継続している、つまり会話という人間同士の交流を継続しているんではないでしょうか? 〇〇さんにとって岸根先生との交流はとても大切なので、先生との会話を終わらせたくなくて、先生の言葉を悉く反対するんですよ」
「でもねえ。これじゃあ、患者に医者が殺されてしまいますよ。何かいい手立てはないですかねえ?」
「徹底的に〇〇さんを無視されてはどうですか? 〇〇さんは自分が反対すると必ず先生が何か反論を言ってくるのが分かっているから、何でも先生の言葉に反論するんだと思います。だから、患者とは一定の距離を置いて、その距離から外は患者を無視するようにしてはどうですか?」
「患者とは一定の距離を置いてみるかぁ?・・・実は、この病院の私の同僚医師にそういう人がいるんですよ。患者を近づけないようにして、常に患者とは心の一定の距離を保っているんです」
僕はその話を聞いて、この病院で見たある医師を思い出した。
僕がここに入院したばかりのときに、僕はある医師を病棟の廊下で見かけた。その医師は僕に白衣の背中を見せながら廊下を進んでいたのだが・・・その姿から、僕は非常に話しかけづらいものを感じたのだ。病棟の廊下なので、まわりは患者ばかりなのだが、何だかその医師は患者に「話しかけるなよ」というオーラを振りまいていたのだ。そして、患者も看護師さんも誰もその医師に話しかけることが無い状態で、その医師は廊下を進んでいったのだ。
きっと、あのとき見た、あの医師だ。僕はそう思った。
「岸根先生。僕はその医師を廊下で見ましたよ。確かに『話しかけるなオーラ』が全身から出ていましたね」
岸根医師が苦笑いした。
「いや、その医師のようになれたら、楽なんですけどね。私はどうしても、あんなふうにはなれないんですよ」
「じゃあ、別の医師に〇〇さんの担当を替わっていただくのがいいかもしれませんね」
病院にはいろんな患者がやって来る。中には〇〇さんのように、医師にストレスを振りまく人もいるだろう。医師は患者を選べないから、そんな人でもきちんと対応しなければならないわけだ。そうすると、自分自身を守るために、必然的に患者に対して『話しかけるなオーラ』を出す医師も出てくるだろう。『話しかけるなオーラ』を出せない岸根医師は、もう他の医師に〇〇さんの担当を替わってもらうしかないようだ。
どの仕事も大変だけど、お医者さんも大変だなあ。僕は心からそう思ったのだ。こうして、APL(急性前骨髄性白血病)の治療の話から、外来の〇〇さんの話になって・・その日の話は結論がないままに終了したのだ。
それからしばらくして、また土曜日に岸根医師が僕の病室に来てくれた。岸根医師はなぜか大変うれしそうだった。僕は聞いた。
「先生、何かうれしそうですね?」
岸根医師は言った。本当にうれしそうだった。
「いやあ、前に話した外来にくる〇〇さんですけどね、結局、他の医師に引き受けてもらうことにしましたよ。これで、私もやっと安心できます」
僕は病院には医師の心理カウンセラーが必要だと思った。
そして、僕はもう先のことは考えないことにした。骨髄穿刺検査を受けて骨髄液に異常が見られなかったら本当の退院だということだけが僕の頭に残ったのだ。もし、骨髄液に異常が出たら・・そのときは、そのときだ。(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます