第59話 東京コロッケをご存じ?

 僕の白血球と赤血球は少しずつではあるが、着実に増えていった。僕は自分の身体がだんだんと元に戻っていくのを感じた。吐き気は緩やかになった。僕は一日にプリン一個という生活から・・気分のいいときには、カップ麺なども一杯だけなら食べることができるようになった。だんだんと身体が元に戻っていく感覚は気持ちの良いものだ。


 しかし、そんな僕にも元に戻せないものがあった。それは、シャワーやお風呂だ。今回はお風呂に関する雑談をしてみたい。APL(急性前骨髄性白血病)の話から少しそれるが、お付き合いをしていただけたら幸いである。


 さて、僕は病院では女性の看護師さんからよく、お風呂に入りませんか?、あるいはシャワーを浴びませんか?と言われた。僕は以前アレルギー反応が出たときにシャワーを浴びていたが、それ以降、お風呂もシャワーも敬遠していた。あのときはシャワーを浴びたからアレルギー反応が出たわけではないだろうが、あのときのアレルギー反応の恐怖を想うと、なんだかシャワーを浴びようという気にはならなかったのだ。それで、僕は病院では、以前アレルギー反応がでてから、シャワーにもお風呂にもいっさい入らない生活を続けていたのだ。なんと、もう2カ月以上、シャワーにもお風呂にも入っていないのだ。


 しかし、僕はいままでに書いた耐性菌のお陰で、何度も解熱剤の点滴をされたり、ときには解熱剤の坐剤をお尻の穴に入れられたので、その都度、大量の汗をかいていた。このため、身体は汗まみれだったのだ。そんな汗まみれな状態で、もう2カ月以上シャワーも浴びず、お風呂にも入らないというのは・・・女性の看護師さんから見たら、あまりにも不潔に思えたのだろう。それで、看護師さんたちがさかんに僕にお風呂やシャワーを勧めたというわけなのだ。


 せっかくの好意なのだ。むげに断るのも角が立つ。しかし、僕はアレルギー反応の苦しみはこりごりだったので、もう入院中はお風呂やシャワーは止めておこうと心に誓っていたのだ。それで、お風呂やシャワーを浴びる代替として、看護師さんたちにお風呂に関する思い出話をして、お風呂やシャワーを浴びるのを勘弁してもらっていた。


 今回は看護師さんたちに話して好評だった、お風呂に関する僕の想い出話をご紹介しよう。以前はこんな話を看護師さんにする余裕はとてもなかった。言い換えると、お風呂に関する僕の想い出話を看護師さんにするぐらい、僕は回復してきたのだ。


 さて・・・


 僕は昔から銭湯が大好きだった。あの独特な雰囲気が好きなのだ。それで、昔からよく家の近くの銭湯に行っていた。僕が高校のときだ。ある夜、僕は銭湯に行こうとしたのだが、いつも持っていく青い色の洗面器とシャンプーと石鹸箱が見当たらなかったのだ。洗面器などは全て青色だった。たまたま全部が青色の物を当時は使っていたというだけで、青色には何の意味もない。どうもそのときは、その青色の洗面器などは家の中の誰かが使っているようだった。しかし、どうしても青色の洗面器とシャンプーや石鹸箱でなければダメだというわけではない。僕はその夜は、たまたまそこにあった、いつもと違う白い洗面器と白い石鹸箱、それにピンクのシャンプーを持って銭湯に行ったのだ。


 服を脱いで、風呂場の中に入って、簡単に身体を洗ってから僕は大きな湯船に漬かった。石鹸箱とシャンプーは洗面器に入れて、湯船の横に置いておいたのだ。


 さて、僕は湯船から出て身体を洗おうとした。しかし、驚いた。いつも持ってくる青色の洗面器、シャンプー、石鹸箱が見当たらないのだ。すべて青色だから、どこにあってもすぐに分かるのだが、見当たらなかった。どこを探してもないのだ。めったにないが、銭湯ではたまに洗面器などを間違えられることがある。このときも、僕はてっきり誰かが間違えたものと思って、身体を洗っている人たちを見まわしたのだ。


 すると、30代ぐらいの一人のおじさんが青い洗面器を使っているのが見えた。洗面器の形はいつも僕が使っているものとそっくりだった。そして、よく見ると、青い石鹸箱と青いシャンプーがその人の前に置いてあるのだ。


 あの人だ! あの人が洗面器などを間違えているのだ!


 僕はその人のところに行った。身体を洗っている、そのおじさんの肩をトントンと指で軽くたたいたのだ。身体を洗っていたおじさんは驚いて僕を振り返った。僕はおじさんに話しかけた。


 「すみません。それ、僕のですよ・・・僕の洗面器と石鹸箱とシャンプーなんですが・・・」


 そのおじさんは眼を大きく見開いて、僕の顔をじっと見つめていた。あまりの驚きに声も出ない様子だった。僕は重ねて言った。


 「洗面器なんかは僕のですよ。僕のと間違えておられますよ。返していただけませんか・・・」


 そのおじさんはまだ眼を白黒させていたが・・・やがて「そうですか」と言って、僕に青色の洗面器、石鹸箱、シャンプーをそろえて渡してくれた。


 やれやれ、迷惑な人だなあ。たまにこんな人がいるんだよなあ・・・


 僕はそう思って、青い洗面器、青い石鹸箱、青いシャンプーを持って洗い場にいった。そして、身体を洗いだしたのだ。石鹸で身体を洗って、次にシャンプーで髪を洗っていたときだ。誰かが僕の背中をトントンと叩くのだ。


 んっ・・・


 僕はシャンプーを急いで洗い流して、後ろを振り向いた。僕の後ろには、さっきのおじさんが立っていた。さっきの人だ。まだ何かあるんだろうか? 


 するとおじさんが小声でこう言うのだ。何だかひどく遠慮した声だった。


 「あの、その洗面器なんかなんですけど・・それ、僕が自分の家から直接この銭湯に持ってきたんですけど・・」


 えっ・・・おじさんが自分の家から持ってきた? 僕の頭が一瞬真っ白になった。


 そのとき、僕は思い出したのだ! そうだ。今日はいつもと違う、白の洗面器と白の石鹸箱とピンクのシャンプーを持ってきたんだっけ・・・


 そして、僕が湯船の縁を見ると・・・白の洗面器と白の石鹸箱とピンクのシャンプーがちゃんと置いてあったのだ。僕は手元の洗面器などを見た。青色で確かに僕が使っていたものと非常に似ているが、よく見ると少しずつ形が違うのだ。


 僕は何と言っていいか分からず・・・「そうですか」と言って、その青い洗面器などをおじさんに返した。おじさんは何も言わず、それらを持って・・・また洗い場にいって身体を洗い出したのだ。


 僕はそのおじさんには申し訳ないが、笑い出してしまった。しかし、なんという偶然だろう。僕が当時使っていた青い洗面器と青い石鹸箱と青いシャンプーと非常によく似た色や形のものを使っているおじさんがいたのだ。


 そして、おじさんは、僕が「間違えてますよ」と言ったときに、よく洗面器などを僕に渡してくれたものだと僕は思った。おじさんとしたら、自分が家から持ってきたものだとは分かっていたが・・・僕の申出があまりに唐突だったので、うっかり「そうですか」と言って僕に洗面器などを渡してしまったのだろう。それから、おじさんも一生懸命考えたのだろう。どう考えてもあれは自分が家から持ってきた洗面器だ・・・そう思って、僕に声を掛けたのだ。


 この話を聞いて、看護師さんたちは大笑いをしていた。銭湯に関連して、もう一つ看護師さんたちに人気だった話がある。


 銭湯と言ったら、僕は中学の同級生のT君をどうしても思い出すのだ。


 銭湯を出たら、たこやきなどの屋台が銭湯の前にあった。風呂上がりに屋台で何かどうぞ食べて帰ってくださいというわけだ。屋台は銭湯から出た人で結構にぎわっていた。その中に、ときたま『東京コロッケ』の屋台が出ていた。


 さて、読者の皆様は『東京コロッケ』という屋台をご存じだろうか? 『東京』とついているので、東京が発祥だとは思うのだが・・・僕はその由来はよく知らないのだ。


 『東京コロッケ』というのは、直径が1cmぐらいの小さな球形のジャガイモのコロッケだ。屋台には、手でレバーをはじく方式の大昔のパチンコ台がついている。お金を払うと、屋台のおじさんがパチンコ玉を1個くれるのだ。それをパチンコ台に入れてレバーをはじくと、パチンコ玉が入った穴で、東京コロッケを食べられる数が決まるという仕組みなのだ。


 穴には東京コロッケを食べられる数の番号が振ってある。一番数が多いのが10個の穴で、どの穴にも入らずに一番下の空洞に落ちていった場合は6個というふうに決まっていた。そうして、パチンコ玉が入った穴に記された数をおじさんに自己申告するのだ。そうしたら、おじさんが串を一本くれるので、その串に揚げたての東京コロッケを穴に記された数字の数だけ突き刺して、ソースをつけて食べるというものだった。当時は銭湯以外にも、夏の夜店などには必ず『東京コロッケ』の屋台が出ていて、子どもたちだけでなく大人たちにも大人気だった。


 僕の中学の同級生にT君という男がいた。T君は大変愉快な男で、自作の落語を教室で披露してはみんなを大笑いさせていた。T君は今は著名な落語家の弟子になっている。そのT君の十八番おはこの創作落語が『東京コロッケ』だった。


 どんな話かというと、子どもが東京コロッケの屋台に行って、お金を出してパチンコ玉を1個もらうのだ。そして、パチンコで玉をはじくのだが、どの穴にも入らずに一番下の空洞に落ちてしまう。つまり、東京コロッケは一番少ない数の6個となる。


 しかし、その子は「やった。10個だ」と叫んで、屋台のおじさんに「おじさん、10個の穴に入ったよ。東京コロッケを10個もらうよ」と、一番数の多い10個だと噓の自己申告をするのだ。しかし、屋台のおじさんもさるもので「ボク、ホントに10個の穴に玉が入ったの?」と聞くのだ。そこから、その子と屋台のおじさんの虚々実々の駆け引きが展開される・・・という話だ。


 その子がやっているのは虚偽申告で、一種の詐欺のような行為なのだが・・T君がこの話をすると、犯罪の臭いなどは消え失せて・・いたずらっ子と屋台のおじさんとのユーモア溢れる下町の駆け引きになってしまうのだ。


 教室でT君が『東京コロッケ』の話を始めると、いつもたくさんのクラスメートが彼の前に集まって大爆笑になるのだ。ときどきは中学の先生も入って、僕らと一緒に大笑いしていた。


 僕はT君のように落語で『東京コロッケ』の話を面白おかしく語ることなどはとてもできない。看護師さんには、T君という同級生がいて、こんな話をしていたと言うだけなのだ。それでもこの話をすると、いつも看護師さんが大笑いしてくれた。看護師さんの笑い声を聞くと・・・僕も自分自身の全快が近いと感じることができたのだ。


 こうして、僕はお風呂にも入らず、シャワーも浴びずに、汗にまみれた身体のままで入院生活を続けたのだ。


 こうした生活を送っているうちに、僕の白血球と赤血球は少しずつ増加していった。そして、ついに白血球と赤血球の数が正常値に近くなったのだ。


 ずっと連載してきたこのお話もいよいよ最後を迎える。(つづく)

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