第60話 闘病は残酷すごろくだった!
最後の第三回目の抗がん剤の点滴治療でも、岸根医師は第二回目の点滴治療のときと同様に何度も輸血をしてくれた。第二回目の点滴治療のときには、僕は輸血によるアレルギー反応に苦しめられたが、第三回目の点滴治療では幸いにアレルギー反応は起きなかった。それでも輸血をされるときには、僕は毎回、全裸の姿になってジャージの上着を羽織り、妻が買ってくれた巻きスカートをはいて、アレルギー反応に備えることは忘れなかった。そうして点滴治療は進んでいった。
さて、今回の僕の一連の治療は1カ月から2カ月ごとに内容が大きく変わる。治療は大きく四つの段階に分かれるのだ。最初の段階が薬を飲むだけの投薬治療で、その後の三つの段階が抗がん剤の点滴治療だった。その四つの段階がそれぞれ終わるという節目節目で、岸根医師は僕に
僕はいままで二回の骨髄穿刺検査を受けた。そしてその結果は・・・前に書いたように、一回目の骨髄穿刺検査の結果は『白血球に異常なし』だったが・・・二回目の骨髄穿刺検査の結果は『白血球に異常あり』だったのだ。
『白血球に異常あり』という結果に僕は大層なショックを受けた。だって、こんな苦しい治療を受けているのに、その治療の効果がまったくありませんでしたと言われるのと同じなのだ。こんな不合理なことはないと僕は思った。何ともやりきれない気持ちになって、僕はまるで死刑宣告を受けたかのように気落ちしてしまった。すると、岸根医師がまだ2回骨髄穿刺検査の機会が残っていると言って、そんな気落ちした僕を慰めてくれたのだ。
それにしても、どうして二回目の骨髄穿刺検査では、白血球に異常が出たのだろう? 僕には何の自覚症状もなかった。まるで大学病院で初めて病気が見つかったときのようだ。あのときも自覚症状は一切なかったのだ。白血病という病気は現代でも病気の原因が分かっていない。だからこうして、治療の途中で白血球に異常が出ても、何が異常の原因かは特定することができないのだ。何の自覚症状もないのに、ある日突然『白血球に異常あり』と告げられるのだ。まるでロシアンルーレットのようだと僕は思った。拳銃からいつ『白血球異常』という弾が飛び出すか分からないままに、患者は順番に引き金を引いていかねばならないのだ。
つまるところ、いくら治療しても病気が良くなっているのか、悪くなっているのか誰も分からないというわけだ。本当に厄介な病気だと僕は改めて思ったのだ。
このため、三回目の骨髄穿刺検査の結果に、僕は注目していた。その前の二回目の検査結果が『白血球に異常あり』だったために、三回目の骨髄穿刺検査は僕にとって非常に重要になるのだ。2連敗だけはしたくないという気持ちだった。この結果がダメだったら、あんなに苦労した治療がすべて否定されてしまう。
そして、三回目の骨髄穿刺検査の結果が、今回の抗がん剤の点滴を受けている最中に届いたのだ。岸根医師がその結果を書いた紙を僕の病室に持ってきてくれた。
何だか試験の合格発表を聞くような気分だった。こんな気分は心臓に悪い。果たして三回目の骨髄穿刺検査の結果はどうだったんだろうか?・・・僕は岸根医師の口もとを注視した。緊張が走った。
岸根医師の口から出たのは・・・「白血球に異常なしです」という言葉だった。
やった! 僕は安堵した。そして、心の中で小さくガッツポーズをした。何とか生き延びたという気分だった。しかし、まだ完全に安心するわけにはいかないのだ。最後の四回目の骨髄穿刺検査がまだ残っている。次の四回目の骨髄穿刺検査で異常が出れば元も子もないのだ。僕は気を引き締めた。
それでも、僕は一息つくことができたのだ。
後は、いま受けている最後の点滴治療で白血球が上昇し、そして、その後の四回目の骨髄穿刺検査で『異常なし』がでれば、一応治療はすべて完了するのだ。
いま受けている最後の点滴治療では、抗がん剤の点滴が終わっても白血球や赤血球はなかなか増えなかった。そんなときに、前に書いたように僕は耐性菌のお陰で死ぬ思いを味わったのだ。そして、抗生物質の点滴を替えてもらってから、ようやく白血球の数に上昇傾向が見られた。それから白血球はゆっくりゆっくりと上昇していったのだ。
四回目の骨髄穿刺検査が残っていたが・・・僕は気持ちがはやるのをどうすることもできなかった。いよいよここまで来たと思った。
僕は妻に頼んで卓上式のカレンダーを病室に持ってきてもらった。毎日、カレンダーを眺めた。次の退院は今までのような保険がらみの一時的な退院ではないのだ。本当の退院であった。本当の退院はいつになるだろうか? 白血球は少しずつ上昇している。このペースだと今週の末には退院になるのではないだろうか? 僕の期待は日ごとに膨らむばかりだ。
しかし、その期待はいつも裏切られた。白血球の上昇スピードが本当に遅いのだ。岸根医師も「なかなか上昇しませんね」と首をひねった。
だが、上昇はしているのだ。あせってはいけない。僕は気長に待った。卓上カレンダーを眺めながら・・・じりじりする長い時間が過ぎていった・・・
・・・・・・
やがて、白血球の数がようやく正常値近くになったのだ。赤血球や血小板も正常値にほぼ戻ってきた。入院してから半年が経過していた。季節は冬から初夏になっていた。
待望の日が来たと僕は思った。僕の胸は躍った。僕は期待を込めて岸根医師に聞いた。
「先生、もういいんじゃないですか? もう退院できるんではないですか?」
岸根医師も笑った。
「ええ、もういいでしょう。そうですね・・・では、今日退院してください」
えっ、今日? ホントに今日? こうして最後の退院の日は唐突にやってきた。心の準備もしていなかった。僕はすぐには信じられなかった。それでも僕はすぐ妻に電話した。妻も喜んでくれた。すぐに病院に来てくれた。まだ、四回目の骨髄穿刺検査が残っていたが、それでも退院となると心が騒いだ。
その日のうちに岸根医師が、四回目の、つまり最後の骨髄穿刺検査をしてくれた。検査結果が出るまでには少し時間がかかる。僕はいったん退院して、数日を家で過ごしてから、改めて外来を受診して検査の結果を聞くことになった。
四回目の骨髄穿刺検査の後、僕は妻と二人で病院を出た。もちろん、僕はあの女性用のショートボブのウィッグをかぶっていた。本当に、この女性用ウィッグにはお世話になる。僕は空を見上げた。快晴だった。スキップでもしたいような気分だ。
初夏の明るい日差しが僕たち夫婦を包み込んでくれた。
自宅に帰って、僕は2カ月ぶりにお風呂に入った。
・・・・・・
数日して、僕は一人で外来を受診した。最後の骨髄穿刺検査の結果を聞くためだ。今までの三回は2勝1敗だ。ここで2勝2敗になるか、3勝1敗になるかは、天と地ほど違う。
岸根医師はこの四回目の骨髄穿刺検査で白血球に異常があれば、また長期の入院を余儀なくされて、抗がん剤の点滴とは異なる新しい治療を行うことになると話していた。
ということは、白血球に異常があれば、外来からそのまま入院することになるわけだ。すなわち、最後の最後で、白血球に異常があれば、今までの治療と努力はすべて無駄になり、すべてが振り出しに戻ってしまうということになるのだ。
僕はすごろくを思い出した。サイコロを振って出た目だけコマを進めると、止まったマスに文字が書いてある。「三マス進め」とか「一回休み」とかいう文字だ。その中で一番厳しいのは「振り出しに戻れ」という文字だろう。意地悪なことにこの「振り出しに戻れ」とい文字は最終ゴールの直前、特にゴールの一つ手前のマスに書いてあるのだ。やっとゴールの直前までたどり着いて・・・もう少しだと思っていた矢先に・・・最後の最後で「振り出しに戻れ」というマスに止まってしまったら・・・今までの努力はすべて水泡に帰して、すべて最初からやり直しになるのだ。なんと残酷なんだろう!
四回目の骨髄穿刺検査はまさに、最終ゴールの一つ手前にある「振り出しに戻れ」というマスだった。単なるゲームとしてなら、このマスに止まるのもご一興だが・・現実の闘病で最終ゴールの一つ手前にある「振り出しに戻れ」に止まってしまったら・・・眼も当てられないとはこのことだ。「振り出しに戻れ」に止まらずに最終ゴールまでたどり着いたら、無事にこの病院から出ることができる。しかし、運悪く「振り出しに戻れ」に止まってしまったら、病院から出られずに即入院という運命が待っているのだ。外来を出た後の行先が病院の外に出て行けるのと、行先は病棟で即入院というのとでは・・・大きな違いがある。大きな違いどころではない。前記の通り、天と地ほどの違いなのだ。
ここに来て、僕は知った。APL(急性前骨髄性白血病)の闘病とはまさに『すごろく』に他ならないのだ。それも最終ゴールの一つ手前に「振り出しに戻れ」というマスが用意してある極めて残酷な『すごろく』・・・『残酷すごろく』だったのだ。
これがAPL(急性前骨髄性白血病)の闘病の現実なのだ。何という厳しい現実なのだろう。APL(急性前骨髄性白血病)の患者は誰もが通る厳しい試練なのだが・・・そのあまりの厳しさに、僕は思わず天を仰がざるを得ないのだ。
この日本来、僕は二三日分の着替えを持って、つまりすぐに入院できるような体制で外来を受診すべきだったであろう。だが、僕は何も持たず、手ぶらで病院にやってきたのだ。ひょっとしたら、このまま入院するかもしれない・・そんなことはこれっぽちも考えたくなかった。妻には何も持たずに行くから、万一再度の入院となったら、荷物を病院に持ってきてくれるように頼んでおいたのだ。
名前を呼ばれて外来の診察室に入ると、僕の心臓が早鐘を打つように鳴った。頭にカッと血が上って、何も考えられなくなった。頭の中は真っ白になった。僕の神経は脆弱だ。こんなシビアな状況にはとても耐えられない。僕は診察室から逃げ出したくなった。しかし、足が震えて逃げ出せなかった。僕の眼の前には岸根医師が座っている。岸根医師が死刑執行人に見えた。
「振り出しに戻れ」というマスに止まるかどうか・・・いよいよ最後の審判がやってきたのだ。(つづく)
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