第42話 トイレの水は流しちゃダメ

 前回、僕は採血室で採血寸前に椅子が落下したことを書いた。そのとき僕はうっかり、落下した椅子を自分で直してしまって、それをひどく後悔した。実は入院中に僕は同じような思いをしたことがあったのだ。

 

 今回はそのお話を書きたい。


 以前、僕は冷気の問題で病室を805号室から803号室に替えてもらった。このときは803号室に入院していた人が急に退院することになったので、805号室の冷気に悩まされていた僕に岸根医師が病室を替わることを勧めてくれたのだった。


 その805号室から803号室へ移ったときのことだ。


 僕は803号室に荷物を持っていった。そのとき、803号室から人が出てきたのだ。家族連れだった。お父さんとお母さん、それに20代とおぼしき娘さんがいた。その家族は看護師さんに「ありがとうございました」と言いながら、エレベーターの方に去って行った。


 僕は「ああ、この人たちが、岸根医師が言っていた803号室を退院する人の家族なのだなあ」と思った。あの3人の中の誰が入院患者だったのかは分からない。しかし、人が退院していくのを見るのはいいことだ。見ているこちらもなんだか優しい気持ちになる。その人たちを見ていると、家族の退院を素直に喜ぶ気持ちが僕にも伝わってきた。もちろん僕の知らない人たちだったが、何だか僕もうれしくなった。僕は暖かい気持ちでその家族を見送った。


 それから、僕は懐かしい803号室に入った。ゼリーやプリンというわずかな食料品を冷蔵庫に入れると、引っ越しはあっという間に終わった。少しして病院に来てくれていた妻が帰って行った。


 それから、僕はトイレに行った。前にも書いたように、トイレは803号室に付属している。便器の中を見て、僕は驚いた。大きな便が一つ、ぷかぷかと浮いているのだ。


 きっと、さっき見た入院患者の家族の誰かが退院間際にトイレを使って流し忘れたんだ。


 僕はそう思った。そして、浮いている便を水で流して、用をたした。


 少しして、女性の看護師さんが病室にやってきた。僕はさっきの便のことが何となく気になっていた。こういうことは看護師さんに報告しないといけないような気持ちになったのだ。別に隠す必要があることではない。僕は雑談のつもりで看護師さんに便のことを話した。


 すると、看護師さんは意外な反応を見せた。


 真剣な顔を見せて、ナースステーションに戻って行ったのだ。しばらくすると、三人の男性が僕の病室にやってきた。彼らは「点検します」と言ってトイレに入って、何かを調べていたが、10分もすると病室を出て行った。僕はあっけに取られて、それを眺めていた。


 三人の男性が出て行ってしばらくすると、さっきの看護師さんがやってきた。看護師さんが言った。


 「あなたが便が浮いているというんで、トイレを調べてもらったんですが・・・異常はありませんでしたよ」


 何だか僕を非難するような言い方だった。トイレを調べた? いったい何を調べたんだろう?


 僕は看護師さんに聞いた。


 「いったいトイレの何を調べたんですか?」


 看護師さんはそんなことも分からないのかといった顔をした。


 「もちろん、トイレの逆流ですよ。あなたが便があったというんで、排せつ物が逆流したら大変だということで、逆流を調べてもらったんですが・・・」


 そこで、看護師さんはもう一度同じことを言った。


 「異常はありませんでしたよ」


 それだけ言うと、看護師さんは僕の病室を出て行ってしまった。


 僕は何だか叱責されたような気分を味わっていた。何だかひどく叱られたような気分だったのだ。看護師さんの言い方には「あなたが言うから、トイレの逆流を調べたけど、何もなかったじゃないの? 本当に便が浮いていたの?」というニュアンスがあったのだ。何だか、僕を嘘つき少年のように非難しているニュアンスなのだ。


 ただ、これはあくまで僕が感じたニュアンスに過ぎない。このとき、看護師さんはそんなことを言ったのではなく、単に「異常はなかった」という事実だけを言ったのかもしれない。ただ僕はここに書いたようなニュアンスを感じたのだ。


 さて、看護師さんが出て行ったあとで、僕は先ほど便が浮いていたときのことを思い出していた。僕は便器の中に便が浮いていたので、さっきの入院患者の家族の誰かが退院間際にトイレを使って、流し忘れたんだと思っていた。しかし、もしそうならば・・・便器の中にトイレットペーパーなんかが浮いていなければならない。もちろんトイレットペーパーは水に溶けるが、水を流し忘れたのならば、少なくともトイレットペーパーの溶けた形跡が残っているはずだった。あのとき、便器の中にはそんなものはなかった。


 そうか、あれは便を流し忘れたのではなくて、逆流してきたのか。


 そして僕は後悔した。僕は便をうっかり水で流してしまったのだった。あのとき、僕は水で流さずに看護師さんを呼んで、あの便を見せるべきだったのだ。


 これだけの経験だった。ささいな経験だが、しかしこの経験は病院で過ごす上での注意事項を如実に表しているのではないだろうか? 僕はそう思った。


 皆様ももし入院することがあったら、ご注意していただきたい。


 病院というところでは、自分で勝手に判断してはいけない。何であれ、判断は看護師さんにやってもらうべきなのだ・・・


 先ほど書いたように、僕は採血室で採血寸前に椅子が落下したときに、僕は落下した椅子を自分で直してしまって、それをひどく後悔した。この二つの事例で、僕は悟ったのだ。自分でやらずに看護師さんに何でもやってもらわないと、僕が悪者にされて責任を押し付けられてしまうと・・・(つづく)



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