第41話 椅子が落ちた! 2

 僕はあわててベテランの看護師さんに言った。


 「いえ。僕は何もしていません。ただ、座っていただけです。そうしたら、椅子が勝手に落下したんです」


 看護師さんは僕の話を全く聞こうとしなかった。新しい注射器を準備しながら、また大きな声でみんなに聞こえるように、こうつぶやいたのだ。


 「そうなのね。自分で丸椅子を触って回転させちゃったのよね。自分で触ってしまったのよね」


 採血室にいた人たちはベテランの看護師さんが言うのを聞いて事態を理解したようだ。みんなが僕を見ながら心の中で「なあんだ。あのベテランの看護師さんの前にいる人が勝手に丸椅子を回して座席を落下させてしまったのか。何ともはた迷惑な人だなあ」といっているのが分かった。そういう雰囲気が採血室を支配していたのだ。


 僕は周りを見た。みんなが僕を見つめている。


 これって、僕が犯人というか、悪者になっているのか・・・僕は思わぬ事態の展開に面食らってしまった。


 僕の椅子は10cmほど沈んでいる。自然にベテランの看護師さんを下から見上げる形になった。僕は下から見上げながら、新しい注射器を準備しているベテランの看護師さんに訴えた。採血室の人たちにも聞こえるように僕は大声で明確に言ったのだ。


 「いえ、違うんです。僕はどこも椅子を触っていないんです。椅子に座っていただけなんです。そしたら、椅子が勝手に落下したんです。きっと、椅子のネジが最初から緩んでいたんです」


 だが、採血室にいた人たちは誰も僕の言うことを聞いていなかった。もう終わったこととでもいうように、周囲は少しずついつもの雑踏に戻っていった。そして、ベテランの看護師さんは注射器を準備しながら、なおも一人でつぶやいているのだ。彼女のつぶやきが採血室にいる人たちに向けられていることは明らかだった。


 「そうなのよねえ。ご自分で椅子に触れて、ネジを緩めてしまわれたのよねえ。自分でネジを回してしまったのよねえ」


 なんということだ。すべては僕の責任にされてしまった。僕は天井を仰いだ。


 もうなすすべもなかった。


 僕は10cmほど落下した姿勢のままで丸椅子に座っていた。誰も僕の椅子を直してくれる人はいなかった。しかし、いつまでも10cm沈んだ姿勢で椅子に座っているわけにもいかない。そんな姿勢は何だか間が抜けていて滑稽なのだ。僕は立ち上がった。そして、椅子の座席の高さを戻して、ついているネジで回転部を固く止めた。


 これは病院の椅子だ。つまり、この椅子は病院の持ち物だ。だから、椅子の管理責任は病院にある。その椅子の位置調整をどうして僕がやらなければならないんだ・・・そう思ったが、誰も僕の椅子を直してくれないので、僕は自分で椅子の位置を直すしかなかったのだ。


 ただ、あとで考えると、僕は椅子の位置を直すべきではなかった。病院の看護師さんに言って、看護師さんに椅子の位置を直してもらうべきだったのだ。ただ、このときは、そこまで頭が回らなかった。10cmも沈んだ椅子に座った姿勢で僕はずっと放置されていた。それで、僕はなんだかいたたまれなくなって、自分で椅子の高さを直してしまったのだ。


 そして、何ということだ。僕が自分で椅子の高さを戻してしまったので、僕は「僕がやりました。僕が犯人です」というのを認めたような形になってしまった。周りの雰囲気ではっきりとそう感じたのだ。「しまった。椅子を直すのではなかった」と思ったのだが、もう遅かった。


 僕が高さを直した椅子に座り直すと、新しい注射器の用意が出来ていた。ベテランの看護師さんが注射針を僕の腕に向けた。さっきと同じことを口にした。


 「はい。それでは針を刺しますからね。ちょっと痛いですよ。ごめんね。ちょっと痛いからね。チクリとしますからね。我慢してくださいね」


 そして、針が僕の血管を貫いた。しかし、今度は何も起きなかった。当たり前だが、椅子は落ちなかった。


 採血は終わった。ベテランの看護師さんは僕の腕に絆創膏を貼った。そして、僕に診察カードを渡たしてこう言った。


 「はい。採血は終わりましたよ。まだ血は完全に止まっていませんから、あと3分ぐらいは指でこの絆創膏を押さえておいてください。それで3分経ったら、この絆創膏は外してもらって結構です。それから今日はお風呂は入っていただいて構いませんので、自由にお風呂に入ってください。ただ注射したところはあんまりタオルでごしごしこすらないで下さいね。それでは、次にこの診察カードを持って、内科の総合受付に行ってください・・・はい、それでは、これで採血は終了です。どうも、お疲れさまでした・・・では、次は〇〇さん。〇〇さん。〇〇さんはいらっしゃいますか? あっ、はい。いらっしゃいますね。では、〇〇さん。こちらに来てください。それでは生年月日とお名前をお願いします」


 立て板に水といったしゃべり方だった。まるで僕にこれ以上何もしゃべらさないようにするみたいだった。僕にさっさと向こうへ行けと言っているのが伝わった。そして、僕はベテランの看護師さんに背中を押されて、押し出されるように採血室を出されてしまった。


 僕は憤慨した。何なのだ、いったい! 僕は何もしていないのに、すべて僕の責任にされてしまったのだ。なんともひどいじゃないか!


 内科の総合受付に診察カードを出して、僕は待合室で岸根医師の診察を待った。その間、携帯で調べてみたのだが、インターネットには、丸椅子のネジが緩んでいて事故を起こした事例が結構出ているじゃないか!


 そうだろうなあ。僕はそう思った。


 さっきも、椅子が落ちるのがもう数秒遅かったら、僕の血管が間違いなく破れてしまっただろう。そうなったら、どうなっていただろうか? 採血室の中に僕の血が飛び散ったはずだ。ここは大きな総合病院だ。僕はすぐに処置室に連れていかれて止血をしてもらっただろう。そして、僕がいなくなった採血室で、さっきのベテランの看護師さんがみんなにこう説明しただろう。


 「あの人が自分で椅子に触れて、ネジを緩めてしまったんですよ。自分で勝手にネジを回して、緩めてしまったんです。それで椅子が落下したんです」


 そして、僕が勝手に椅子のネジを緩めたことで起こった事故として処理されただろう。以上は僕の推測に過ぎないが・・議論の余地なく、この推測は間違っていないだろう。


 僕は考えた。丸椅子は病院が管理すべきものだ。では具体的に、病院の中で丸椅子の管理責任は誰にあるのだろう? ひょっとしたら、あの椅子はあのベテランの看護師さんが責任を持っていたのではないだろうか? そのため、看護師さんは僕が椅子から落ちたのを見て咄嗟に保身を図ったのではないだろうか? そして、僕が勝手に椅子のネジを緩めたと周囲に主張することで、すべてが僕の責任になるように仕向けたというわけだ。


 僕は何となく、あの看護師さんが過去に何かあっても、何度もそうやって誰かに責任を転嫁することで今まで病院の中で生き延びてきたような気がした。もちろん、僕はあの看護師さんのことはまったく知らない。これは僕のカンでしかない。しかし、看護師さんの対応は僕にそういう連想をさせたのだ。


 実はこの話には後日談がある。


 それから数日したときだ。僕は検査があって、別の看護師さんに付き添ってもらって病室を出た。点滴の針が胸に刺さっていたので、点滴のラックを押して移動したのだ。このときの検査には特筆すべきことは何もない。だが、僕は検査の帰りに見てしまったのだ。採血室の椅子があの回転する丸椅子ではなく、背もたれのある固定の椅子に変わっていたのを・・・


 僕の後で誰か同じような事故があったのかも知れない。あるいは、僕の事故の後で、やっぱり回転式の丸椅子は危ないということになって、病院が回転することのない固定式の椅子に変えたのかも知れなかった。


 僕はぞっとした。こんなふうに病院というところでは、何か事故があっても、誰も分からないうちに処理されていくんだなあ。病院というのは怖いところだなあ・・・


 僕はそう思った。もちろん根拠はない。が、僕はその新しい椅子を見ながら、背筋を寒くしたのだ。(つづく)




 





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る