第40話 椅子が落ちた! 1
いよいよ第三回目の点滴治療が始まった。
やっとここまで来たという思いがあった。一方で、岸根医師が第三回目の点滴治療のことを「最も強い薬を点滴する治療だ」と言っていたのを僕は覚えていた。大丈夫だろうか? 正直、僕の心は不安で一杯だった。
エアコンから冷気が吹き出さない803号室を確保するために、僕は金曜日の夕方に退院し、月曜日に再入院することになっていた。再入院するためには形式的だが、いったん外来で診察を受けて、「入院が必要」という診断をしてもらってから入院となる。血液検査の外来の診察なので、診察前には採血が必要だった。採血した血液を検査するのだが、この検査は1時間ぐらいで結果が出る。待合室で待っていると、採血の結果が出てから岸根医師が外来の診察室に僕を呼んでくれるのだ。
こういった手続きを行うために、僕は病院に行くと診察券を出して、まず診察カードというものをもらった。診察カードには、その日の必要な検査や予定された診療などがすべて記載されている。そして、診察カードを持って、僕はすぐに採血を行う部屋に行った。その名もずばりで、採血室という名前の部屋だ。
診察カードを採血室の受付に出して、待合室で待っていると、しばらくして僕の名前が呼ばれた。採血室に入ると中待合室があって、患者はそこで座ってさらに順番を待つのだ。中待合室で待っているときに採血室の中を見ると、その日は3人の女性の看護師さんが採血を行っていた。若い看護師さんが二人とベテランの看護師さんが一人だ。
中待合室で待っていると、三人の看護師さんの中のベテランの看護師さんが僕の名前を呼んだ。僕はベテランの看護師さんの前に行った。
看護師さんの前には採血用の小さなテーブルがあって、その前に丸椅子が置かれていた。丸椅子はよくあるタイプだった。座席がネジでシャフトに取り付けられているもので、丸い座席を左右に回転させて座席の高さを調整するようになっていた。シャフトの横にネジがついていて、座席の高さが決まれば、そのネジを締めて座席の位置を固定するようになっている。椅子の背もたれはついていない。
僕は採血する左手を出して、丸椅子に座った。すると、ベテランの看護師さんが僕に質問を始めた。
「今日は外は寒いですけど、病院の中は暖房で暑いですねえ。汗なんかはかいておられませんか?」
「いえ、特に汗はかいていません」
「そうですか。では、お名前と生年月日を言ってください」
それから、看護師さんは採血の準備をしながら、僕にさかんに話しかけてきた。話の中には「血液をさらさらにするお薬は飲んでいますか?」といった採血時に必ず聞かねばならない質問もあったのだが、それ以外の話が多かった。「よく眠れてますか?」とか「お食事は食べてますか?」といった採血に直接関係のないことを質問して、それに僕が答えると、さらに質問を重ねていくのだ。加えて「採血は私に任せといたら大丈夫よ」といったことも口にした。そのベテランの看護師さんは採血の注射器を準備しながら、休むことなく僕に話しかけてきたのだった。
僕は率直に言って、この人はしゃべりすぎだなあと思った。休みなく看護師さんが話しかけるので、僕はその受け答えに追われていたのだ。おそらく、看護師さんには話しかけることで患者の不安を無くそうといった想いがあるのだろう。それは分かるのだが、それにしてもしゃべりすぎだった。
僕は以前ある地方都市に住んでいたことがある。出張で家から最寄り駅に行くのに、よくタクシーを呼んで出かけていた。駅までバスがあったのだが、ちょうどいい時間のバスが無いので、やむなくタクシー会社に電話してきてもらっていたのだ。
そのときにいつも同じ初老の運転手さんがやってきてくれた。この人が実によくしゃべる人だった。僕に「今日はどこに行くんだい?」といった質問をするのだが、僕が答えようとすると、「昨日、アメリカに住んでいるわしの娘夫婦が来たんだ。アメリカに行ったことはある?」といった全く違った質問をしてくるのだ。それに答えようとすると、また「天気予報では、今日の午後は晴れると言っていたかね?」といった違った質問をするのだ。・・・この繰り返しが休みなく続くのだった。
こちらは最初の質問に答えようとしたときに、次の質問を浴びせられるので、最初の質問の答えと同時に次の質問の答えも考えないといけなくなる。このため、頭がフル回転するのだが、そこへさらに三番目の質問が飛んでくるのだ。僕はいつも頭の中がパニックになってしまった。最寄り駅まではタクシーで15分ぐらいなのだが、僕はいつもこの運転手さんの質問攻撃でへとへとになってしまうのだ。正直、駅に着いたばかりなのに、もう出張をやめて家に帰りたいと思うほど疲労困憊してしまうことがしょっちゅうだった。たまりかねて、運転手さんに「すみません。少し黙っていていただけませんか?」と言ったことがあるのだが、「黙ってろって・・何かするのかい? 車を止めようか? どうしたらいいの?」とさらに質問攻撃にあって、僕はさらにへとへとになってしまった。この運転手さんには悪意はなく、単に善意で話しかけてくるだけなのだが・・・本当に迷惑だった。
僕はベテランの看護師さんに次々と話しかけられて、その初老のタクシーの運転手さんを思い出してしまった。
ベテランの看護師さんはべらべらとしゃべりながら、採血の注射器を準備していた。注射器の準備が終わると、看護師さんが僕の左手の血管部分を消毒した。
「はい、消毒しますから、ちょっと冷たいですけどねえ。我慢してね」
次に看護師さんが注射器を出して、注射針を僕の腕に当てた。
「はい。それでは針を刺しますからね。ちょっと痛いですよ。ごめんね。ちょっと痛いからね。チクリとしますからね。我慢してくださいね」
注射器の針が僕の腕から1~2mmのところに近づいた。そのときだ。ドンと鈍い音がして僕の身体が10cmほど沈んだ。それに合わせて、突き出していた僕の左手ががくんと大きく跳ね上った。僕の腕がベテランの看護師さんの注射器を弾き飛ばしてしまった。注射器が宙を飛んで、看護師さんの横の床に落ちた。カンという乾いた音が採血室にひびいた。
僕は驚いた。座っている丸椅子のネジがよく締まっていなかったために、ネジが緩んで丸椅子の座席が落下したのだ。
そのとき、採血室には担当の三人の看護師さんに、数人のヘルパーさん、それに数人の患者がいた。みんなが驚いて、僕を見ていた。誰もが一体何が起こったのかという顔をしてこちらを凝視しているのだ。
だが、僕には周囲の人に説明する余裕はまったくなかった。僕の背中に冷汗が流れて落ちた。
危なかった。僕は肝を冷やした。丸椅子の座席が落下するのが、あと数秒遅かったらどうなっていただろう?
間違いなく注射針は僕の血管を突き刺していた。そんなときに座席が落下したら、間違いなく注射針は僕の血管をつき破って、周囲に血が噴き出していただろう。
ベテランの看護師さんも仰天した。
「えっ、えっ。どうしたの?」
僕は10cmほど沈んだ状態で答えた。
「椅子が突然沈んだんです」
看護師さんは事態が理解できたようだ。僕にこう言った。
「ああ、そうですか。びっくりしました。椅子のネジをあなたが回して落下させたんですね」
僕は驚いた。僕が椅子のネジを回して落下させた? 僕は何もしていない・・・
僕はすぐに言った。
「いえ、僕は何もしていません。椅子が勝手に落下したんです。椅子のネジが緩んでいたんです」
しかし、看護師さんはこう繰り返したのだ。
「そうなの、そうなのね。あなたが知らないうちに椅子のネジを回してしまったのね。あなたの手が椅子に触れて勝手に椅子のネジを緩めてしまったのね」(つづく)
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