第45話 僕は女子寮の寮生だった 3

 女子寮に入る際に、管理人さんが僕の入寮について「女子寮の女子寮生の了解は取ってある」と言っていたが、実は僕は実際に女子寮で生活すると女子寮生から反対の声が上がるのではないかと危惧していた。


 しかし、それは杞憂だった。たとえば、僕は女子寮の中で女子寮生と会うとお互いに「おはようございます」とか「おやすみなさい」といった挨拶を交わしたし、ときには雑談もした。が、寮生の女性はみんな嫌がらずに挨拶をしてくれたし、雑談にもつきあってくれたのだ。本当に女子寮の中で嫌がられたというようなことは一度も経験しなかったのだ。


 僕は女子寮の中で他の女子寮生とまったく同じ生活を送った。


 僕は女子寮の中の寮生の定期的な集会にも必ず参加していた。もちろん、隅っこに座って話を聞いていただけだが。。。


 うっかり門限を破ってしまったときは、他の女子寮生と同様に女子寮の規則で決まっている罰を受けた。庭の草むしりや女子トイレの掃除といった罰掃除をさせられたのだ。門限を二度破ったときは反省文を書かされて、その反省文を食堂の掲示板に張り出されてしまったこともある。


 また、女子寮生の代表が寮長をしているのだが、毎月一回、寮長による『各部屋のお掃除チェック』というのがあった。『各部屋のお掃除チェック』では、毎回、寮長の女性が(後で聞くと、誰の部屋もそうしていたらしいのだが)指で、僕の部屋の窓枠や本棚やテレビの後ろなどをなぞって、埃の有無をチェックした。そのたびに僕は彼女に「お部屋がきたない。お掃除のやり直し」と言われて、何度も自分の部屋の掃除をさせられたのだ。こうして毎月一回、僕は自分の部屋を何度も掃除させられて・・おかげで僕の部屋はたいそうきれいになった。


 このように女子寮の寮生の女性たちは、僕を同じ寮生として受け入れてくれて、僕は女性の寮生たちとまったく同じ生活を送ったのだ。


 さて、僕がいる女子寮の2階なのだが、階段を上がったところに大きな女子トイレが一つあった。寮にいるのは女子ばかりなので別に遠慮することはないということなのだと思うのだが・・・トイレの入り口にドアはあるのだが、いつも開いていた。つまり、いつも入り口が開け放たれた状況になっていたのだ。そのため、1階から階段を上がっていくと2階の手前から女子トイレの中がよく見えたのだ。もちろん僕は中をのぞく気などは全くなかったのだが、階段の真正面に入り口が開いているので、階段を上がる際に否応なしに女子トイレの中が見えてしまうのだ。


 そこは大きなトイレで、中に入って右側に個室が10室あって、ずらりと一列に並んでいた。そして、左側が洗面とパウダースペースになっていた。


 さて、僕が女子寮に入って三カ月ほどした平日のことだ。その日は普通に会社に行って、夜9時ごろに女子寮に帰ってきた。寮で頼んでいる夕食をとって、男子寮のお風呂に入りに行った。ついでに男子寮でトイレを済ませて、僕は女子寮の2階の自分の部屋に戻った。そして、ベッドにひっくり返って読みかけの本の続きを読んで、零時前に眠ったのだった。普段通りの一日だった。


 その日の夜だ。自分の部屋のベッドで寝ていた僕は猛烈な腹痛で目が覚めた。今までに経験したことのない腹痛だった。胃が錐で揉まれるように痛むのだ。『錐で揉まれるように』というのは決して比喩ではなかった。文字通り胃の中に錐があって、その錐が胃にキリキリと穴を開けているように激しく胃が痛むのだ。思わず僕は苦痛のうめき声を洩らした。


 ベッドわきの時計を見ると、ちょうど午前2時を指していた。痛みはますます激しくなる。ベッドの上で僕は身体をくの字にして苦しんだ。額に脂汗が浮かんできた。脂汗なんて僕は本の中の比喩表現だと思っていたのだが、苦しい時に本当に出てくるのだということをこのときに知ったのだ。


 痛みは一向に引かなかった。僕はこれは食中毒のようなものかも知れないと思った。とにかく、お腹の中のものを出してしまわなければならない。僕はベッドを降りて、部屋を出た。そして、身体をくの字に折って廊下を進んだ。激しい痛みで、ゆっくりとしか進めなかった。夜中の2時だ。当然だが、廊下には誰もいなかった。そうして、先ほど書いた2階の階段のところにある大きな女子トイレに向かったのだ。


 やっと女子トイレの前まで来た。女子トイレは夜も明かりをつけっぱなしにしたままだった。女子トイレだといっても、僕は中に入るのを躊躇していられなかった。今は緊急事態だ。僕はなりふり構わず、女子トイレの中に入っていった。


 もちろん、女子トイレの中には誰もいなかった。僕はうようにトイレの中を進んで、10個並んでいる個室の一つに適当に入ったのだ。ドアを手前に開けると、そこは和式のトイレだった。こんなときだ。洋式の方が良かったのだが、腹痛が限界に達していて、僕はもう個室を入り直す元気を失っていた。そして、個室の中に入って、鍵を掛けようとして驚いた。鍵が壊れていたのだ。さっき書いたように、お腹が痛くて痛くて・・・もう個室を入り直す余裕は本当になかった。鍵がなくても大丈夫だろうと僕は思った。今は夜中の2時だ。こんな時間にトイレに来る寮生なんているわけもない。


 僕はいつも薄いジャージを着て寝ている。僕はジャージのズボンとパンツを降ろして、和式の便器の上にしゃがみこんだ。便器の上でも苦痛のために、身体をくの字に折り曲げた。右手をくの字に折ったお腹に当てて、左手を個室の前の壁に当てて身体を支えた。ちなみに、その和式の便器は個室のドアに平行に置かれていた。ドアに向かって便器の前方が置かれていたのではなく、便器はドアに平行だった。つまり、ドア側からはしゃがんだ僕の側面が見えることになる。


 便器にしゃがんでも便意はまったくなかった。僕は苦しい息の中で、便が出るまではこのままでいようと思った。朝までかかろうが、とにかく便を出さないといけない。個室の中でしゃがみながら、僕はうめき声を洩らした。また、脂汗が額に浮かんできた。


 どれくらいの間、そうしていただろうか?・・・


 おそらく、30分ぐらいそうしてしゃがんでいたと思う。すると、廊下から足音が聞こえてきたのだ。足音がだんだん大きくなってくる。そして、女性の鼻歌が聞こえてきた。♫フンフンフン♫とハミングをするようにその女性は歌を口ずさんでいた。足音に合わせて、その歌声もだんだん大きくなってきた。僕はあせった。


 えっ、えっ・・・まさか? トイレに来るんではないだろうな?


 僕の危惧は現実になった。鼻歌と足音がトイレの中に入ってきたのだ。


 誰か寮生の女性がトイレに入ってきた! そんな! よりによって、こんなときに、なんてことだ! 


 でも、僕は思った。


 このトイレには個室が10個もあるのだ。彼女がこの個室を選ぶのは十分の一の確率だ。僕がいる個室に来るわけはない。


 個室のドアの鍵が壊れていたが、僕には個室のドアを手で押さえる余裕はなかった。両手はお腹と前方の壁を押さえるので精一杯だったのだ。僕は両手でお腹と前方の壁を押さえて息を詰めながら、そして脂汗を浮かべながら、彼女の足音を聞いていた。


 トイレの中に彼女の足音がひびいた。そして、その足音は・・・なんと、僕の個室の方へ進んできて・・・僕の個室の前で止まったのだ。


 えっ、うそだろ!


 次の瞬間、僕の個室のドアがいきおいよく引き開けられた。


 僕の隣の部屋の女子寮生が立っていた。彼女の眼の前には、お尻をむき出しにして和式便器に横向きにしゃがんだ僕がいた。


 彼女は一瞬立ちすくんだ。彼女の眼が大きく見開かれた。彼女が息をのむのが分かった。彼女は眼を見張って、大きく口を開けて、和式の便器にしゃがんでいる僕を黙って上から見下ろしていた。僕は便器にしゃがみこみながら、黙って呆然として彼女を下から見上げていた。個室の中で彼女と僕の上下の視線が一瞬からみあった。


 次の瞬間、「キャー」という大きな悲鳴がトイレの中にひびいて・・・彼女は走ってトイレを飛び出していってしまった。その勢いで、個室のドアがバンと勢いよく勝手に閉まった。そして、廊下を走って行く彼女の足音が聞こえて・・・それが次第に小さくなっていった。・・・僕は呆然として、彼女の足音を聞いていた。


 僕は和式の便器の上にむき出しにしたお尻を見られてしまったのだ。彼女の驚きは想像するに余りある。深夜に女子トイレに行って、個室のドアを引き開けたら、隣の部屋の男性が便器にしゃがんでお尻を丸出しにしていたのだ。彼女にすれば、突如、妖怪でも現われたような気持ちだっただろう。僕は彼女がよくトイレの中に倒れてしまわなかったものだと思った。


 さて、僕はまだそのまま便器の上にしゃがんでいた。そして、明け方近くになって・・やっと便が出て・・僕はトイレから出て部屋に戻ったのだ。


 便を出した効果は絶大だった。僕はそれから少しまどろんで、朝に目覚めた。なんと、そのときには腹痛はすっかり消えていたのだ。僕は服を着替えて、朝食に行こうとして部屋を出た。そのとき、隣の部屋のドアが開いて、あの彼女も廊下に出てきたのだ。


 僕は彼女にどう言おうかと考えた。しかし、何も言えなかった。何と言っていいのか、まるで分らなかったのだ。「おはようございます」といつものように声を掛けただけだった。


 彼女も「おはようございます」と笑顔で挨拶を返してくれた。昨夜は何もなかったといった顔をしていた。


 結局、僕はトイレで彼女を驚かせたことを謝罪できなかった。なんとも恥ずかしくて・・・とても彼女の前で口にすることができなかったのだ。彼女も何も言わなかった。それからも彼女は僕と普通に挨拶を交わしてくれて、雑談も気持ちよくしてくれた。


 それから数カ月して、僕は結婚して独身女子寮を出たのだ。


 この『トイレに入っているときに女性にドアを開けられた』という経験は僕にとって大きなトラウマになった。ドアの鍵が壊れている、あるいはドアの鍵がないトイレの個室に入っているときに、女性がやって来るようなシチュエーションはめったにない。しかし、病院の病室のトイレはまさにそのシチュエーションに他ならないのだ。


 病室でトイレに入っているときに、女性の看護士さんやヘルパーさんが病室にやってきたときは、僕は女子寮のトイレの一件を思い出して、いつも冷汗が出るのだ。僕がトイレのドアを開けられる前に大声で「いまトイレに入っています」と叫ぶのは、そのトラウマのせいなのだ。(つづく)

 

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