第36話 僕はお姉さんに壁ドンされた

 さて、今回は少々雑駁ざっぱくな話にお付き合いをいただきたい。第二回目の抗がん剤治療の経過とお姉さんに壁ドンされたという『貴重な』トピックスをお話しておきたいのだ。


 第二回目の抗がん剤の点滴は約1カ月続いた。第一回目の抗がん剤の点滴に比べて第二回目で変化があったことといったら、微熱が出たことだった。高い熱ではないが37度5分程度の微熱に僕は苦しんだ。


 岸根医師は僕に「抗がん剤は、一回目より二回目、二回目より三回目とだんだん強くなりますよ」と言っていた。微熱は抗がん剤が強くなったせいかもしれないと僕は思った。


 実は、岸根医師は看護師さんに僕が37度5分以上の熱が出たら、解熱剤の点滴をするように指示を出していた。解熱剤の点滴をされると汗が大量に出て、いったんは熱が下がった。しかし、一日も経つとまた熱が上がり始めるのだ。このため、また解熱剤を点滴しなければならなくなった。


 僕は一日おきに大汗をかいて服を着替えていたのだ。さすがにしんどくて身体が悲鳴を上げた。着替えも足らなくなってきた。そこで、僕は岸根医師に相談して、解熱剤は38度以上になったときに点滴してもらうようにした。熱が38度を超えることはめったになかった。


 微熱と言っても37度5分程度なのでたいした熱ではなかったのだが、それでも何日も続くと、さすがに身体がだるくなった。吐き気、食欲不振、睡眠不足に微熱のだるさが加わったのだ。僕はげんなりした。


 そんなある日のことだ。僕はヘルパーのお姉さんにお願いして、1階の売店でプリンを買ってきてもらった。前にも書いたように僕は一日にプリンを1個食べるのが精一杯だったのだ。水ようかんが食べたかったときに、妻に水ようかんを36個も買ってきてもらって一度に食欲がなくなってしまった経験があったので、プリンは2~3個ずつに分けて買ってもらっていたのだ。


 このときも僕はヘルパーのお姉さんに千円札を1枚お渡しして「すみませんが、プリンを2~3個買ってきていただけませんか」とお願いしたのだが、お姉さんはなんと1個150円のプリンを6個も買ってきてくれたのだ。おそらく、お姉さんは僕がプリンばかりを食べていることと、僕が病室から出られないことを知っていたのだ。それで多く買ってきた方がいいだろうと善意で解釈して、千円札で買えるだけのプリンを買ってきてくれたという次第だ。6個のプリンはポリ袋ではなく、裸のままで持ってきてくれた。僕はお礼を言ってお釣りと6個のプリンを受け取った。


 さて、僕はプリンを病室の冷蔵庫に入れようとした。点滴のポンプの電源を外して、電源コードを点滴ラックに巻きつけて、それから点滴ラックを右手でつかんでベッドから立ち上がった。左手にはプリンを持っていた。いつもこの姿勢で、プリンを冷蔵庫に入れに行くのだ。

 

 しかし、このときはちょっと勝手が違った。いつもはプリンが2個程度なので片手で持てたが、このときはプリンが6個なのだ。おまけに僕は微熱が続いて、身体がフラフラしていた。僕はベッドの横の壁際で、うっかりプリンを床に落としてしまったのだ。


 ちょうど、ヘルパーのお姉さんが僕の病室を出ようとしたときだった。お姉さんはプリンが床に落ちた音で驚いて振り返った。僕を見た。そして、僕のところに飛んできたのだ。おそらく僕がめまいを起こしたのだと勘違いしたのだと思う。


 僕のところに飛んできてくれたというお姉さんの行動はもちろん正しい。僕は点滴の太い針を胸に刺している。変な姿勢で床に倒れでもしたら、大けがをすることがあるのだ。


 だが、お姉さんの次の行動に僕は面食らった。お姉さんは壁際で突っ立ている僕の前に立つと、両手を僕の両脇に伸ばして壁に当てた。つまり、壁に両手を当てて自分の体重をささえた格好になった。もっと分かりやすく言うなら、ちょうど両手を僕の両脇に伸ばして両手の壁ドンをしているような格好になったのだ。


 お姉さんは僕がめまいを起こしたと勘違いして、僕が床に倒れないように両手で壁をつくってくれたというわけだ。だが、これは後で僕が解釈したもので、このときの僕には何が起こっているのかわけが分からなかった。僕にしてみれば、病室を出かかったお姉さんが急に戻ってきて、僕に両手の壁ドンをしたことになる。お姉さんの両手が邪魔になって、しゃがんでプリンを拾うこともできず、またお姉さんがなぜ両手壁ドンをしているのか理解できず、僕はお姉さんの両手に鋏まれた形で呆然と突っ立ていた。


 一方、お姉さんの方も咄嗟とっさに両手で壁ドンをして、僕が床に倒れないような体制をとったものの、そこから次の行動は考えていなかったようだ。壁ドンをしている手を離すと僕が倒れてしまうかもしれない。そう思って、両手を動かせなくなってしまったのだ。


 僕はお姉さんに両手で壁ドンをされた姿勢で、お姉さんと見つめあうことになってしまった。実を言うと僕は女性に壁ドンをされたのはそれが初めてだった。「このお姉さんは僕が好きだったのか?」とまでは思わなかったが(笑)・・・お姉さんの壁ドンが僕を守るためだと分かるまでには少し時間がかかった。


 なんだか呪縛にかかったようになって、僕は動けないでいた。お姉さんの顔が僕の眼の前にあった。お姉さんは僕を見つめている。お姉さんの吐く息が僕の顔に当たった。僕の心臓がドキドキした。僕は震えた。


 そこへ、女性の看護師さんが病室にやってきた。看護師さんは、壁ドンで見つめあう僕とお姉さんを見て・・・赤い顔になって、「失礼しました」と言って病室を出て行った・・・ということはなく、さすがにすぐに事態が理解できたようで、黙って僕の足元に転がっているプリンを拾ってくれた。


 看護師さんの登場でやっと僕の呪縛が解けた。僕はお姉さんに言った。


 「大丈夫です。めまいがしたのではなく、手が滑ってプリンを落としただけです。あの・・この手を除けていただけませんか? 手を除けていただいても僕は倒れませんので・・」


 お姉さんも何だかホッとしたようだった。ゆっくりと片方ずつ手を除けてくれた。


 僕はお姉さんにお礼を言った。


 「どうもありがとうございます」


 だが、それ以上は何も言えなかった。何と言っていいのか分からなかったのだ。


 こうして、僕の『初めて女性に壁ドンをされた体験』は終わった。


 さて、第二回目の点滴治療の経緯に戻ろう。僕の初めての女性壁ドン体験とは別に微熱は続いた。


 僕は岸根医師にこの微熱は何ですかと聞いてみた。いつものように岸根医師は明確には答えてくれなかった。ただ、白血球の数が減少しているので、通常体内にいる大腸菌などの菌が悪さをしているのかもしれないという趣旨のことを岸根医師は言ってくれた。そして、岸根医師は看護師さんに抗生物質の点滴をするように指示を出した。抗生物質の点滴を始めると、しばらくして熱が平熱に戻った。


 このため今度はしばらく抗生物質の点滴が続いたのだ。そんなあるとき、岸根医師がやってきて僕にこう言った。


 「明日から抗生物質を変えましょう」


 「えっ、何か問題があるのですか?」


 「いえ、問題があるわけではありません。ただ、同じ抗生物質を使い続けていると菌が耐性を持ってしまって、抗生物質が効かなくなるんです。だから、ある抗生物質をしばらく使ったら、別の抗生物質に替えないといけないんです」


 そして、岸根医師は翌日から抗生物質を替えてくれた。このとき、僕は特に何も考えず、事態の推移を黙って眺めていた。だが、後でわかることになるのだが・・抗生物質を替えることは極めて重要なことだったのだ。


 そうこうしているうちに、第二回目の抗がん剤の点滴を開始してから約1カ月が経過した。ようやく白血球の数が通常の十分の一程度まで落ちた。そこで、抗がん剤の点滴は終了になった。あとは自然に白血球や赤血球などが増加していくのを待つだけになった。


 白血球はなかなか増加してくれなかった。それでもさらに3週間ほどすると、ようやく白血球の数が正常値に近くなった。


 これでやっと、第二回目の点滴治療がすべて終わったことになる。僕は前回と同じように、金曜日の夕方に退院し、月曜日の午前中に再度入院するために病院を訪れた。エアコンが快適な803号室に引き続き入院させてもらうためだ。


 こうして、最後の第三回目の抗がん剤の点滴が始まったのだ。


 いよいよ最後だ。


 僕は月曜日に病院に入るときに武者震いした。(つづく)



 


 





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