第33話 輸血と巻きスカート 1

 二回目の抗がん剤治療は順調に進んだ。岸根医師が二回目は一回目より強い抗がん剤だと言っていたが、そのせいだろうか、白血球と赤血球と血小板の数はどんどん減少していったのだ。


 ある日、僕の血液検査の結果を見ながら岸根医師が言った。


 「かなり白血球や赤血球が少なくなりましたね。ここまで赤血球なんかが減少したら、輸血をしないといけません。明日から状況を見ながら輸血を開始しましょう」


 「えっ、輸血ですか?」


 岸根医師の言い方は緊急事態で急いで輸血をするというものではなかった。初めから輸血が必要になることが分かっていて、その時期を図っていたという言い方だった。僕は少し驚いた。輸血をするという話は今まで一度も聞いたことがなかったからだ。輸血のことを言わなかったのは、岸根医師一流の患者に詳しい情報を与えず、患者に不要な心労をさせないという配慮なのだろうか? 僕はそう解釈した。


 「ええ、そうです。輸血は初めてですね?」


 「ええ、幸い、今までしたことがありません」


 「それでは、まず、明日は赤血球の輸血をします。それから、明後日に血小板の輸血をしましょう。それで少し様子を見てみましょう」


 僕は輸血は生まれて初めてだった。それで、輸血というものは、赤血球や白血球や血小板などが全部入った血液を使うのだと思っていた。僕は岸根医師に聞いた。


 「先生。輸血用の血液というのは、赤血球や血小板ごとに分かれているんですか?」


 岸根医師が少し笑った。


 「ええ、そうです。献血をするでしょう。そうしたら、その血液を赤血球や白血球や血小板などに分離して、それぞれを保管しているのですよ。そうして、病院から赤血球を何百ccというふうに注文するんです」


 そして、岸根医師はちょっと妙なことを僕に聞いた。


 「今までアレルギーが出たことはありますか?」


 アレルギー? 輸血とアレルギーが何か関係があるのだろうか?


 「ええ、一度あります。僕はなまこが大好きなんですが、それで以前、妻が近所の魚屋さんでなまこが売れ残っているのを見つけて、わざわざ買ってきてくれたことがありました。それが『赤なまこ』という種類だったんです。ところが、その赤なまこを食べたところ、アレルギー反応が全身に出てしまいました。あのときは全身に発疹が出て、かゆくてかゆくて本当に大変でした。あとで調べたら、赤なまこというのはアレルギー反応が出るので、あまり売れないらしいんです。それで売れ残っていたんですね。僕たち夫婦だけがアレルギー反応が出ることを知らなかったようで・・・世間知らず夫婦だなあって、妻と大笑いしました」


 「赤なまこですか?・・・実は輸血をすると、アレルギー反応を起こす人がいるんですよ」


 僕は赤なまこのアレルギー反応を思い出した。あのときは本当に大変だった! しかし、輸血でもアレルギー反応が出るのか!


 「えっ、輸血でアレルギーがでるんですか? それは大変ですね。それで、アレルギーが出たら対処法はあるんですか?」


 「そのときはアレルギーを抑える点滴を打ちます」


 「先生。僕の場合はなんだか輸血でアレルギーが出そうな気がします。だから、輸血の前にその点滴をしてもらった方がいいのかもしれませんね?」


 「そうですね。でも、最初からその点滴をするのはやめておきましょう。最初の輸血ではアレルギーの点滴なしで様子を見てみましょう」


 僕はちょっぴり、そんな点滴があるのだったら、最初から点滴をしてくれたらいいのにと思った。岸根医師がこんな言い方をするのは、副作用でもあるのだろうか? 


 しかし、岸根医師はそれ以上何も言わなかった。また、岸根医師得意の情報統制だと僕は感じた。しかし、僕は岸根医師に任せることにして何も聞かなかった。


 翌日の昼間だ。看護師さんが真っ赤な輸血用の血液を点滴のラックに乗せて運んできた。初めて見る輸血用の血液は、僕には何だかおどろおどろしたものに見えた。


 看護師さんが僕の胸につながっている点滴のチューブにその輸血用の血液をつないだ。点滴のチューブは途中が二股になっている。抗がん剤の点滴と同時に別の点滴ができるようになっているのだ。輸血用の点滴液のチューブを二股部分につなぐと、赤色の液体がチューブの中を走って、僕の胸に吸い込まれていった。


 輸血は約1時間を要した。初めての輸血だったが、僕の身体には特に異変はなかった。


 良かった。アレルギーは起きなかった。


 僕は心から安堵した。そのとき、輸血の後片付けをしながら、看護師さんが僕にこう言った。

 

 「ずっと、お風呂に入っていないでしょう。胸に点滴の針を刺していても、その部分を防水テープで覆えば、シャワーを浴びることができますよ。せっかくですので、防水テープを持ってきますから、今、シャワーを浴びてしまいませんか?」

 

 その通りだった。確かに僕は第二回目の抗がん剤治療が始まってからは一度もお風呂に入ったり、シャワーを浴びたりはしていなかった。二週間近く、身体を洗っていないのだ。吐き気が継続していたので、とてもそんな元気はなかったのだ。でも、看護師さんはそんな僕を気にかけてくれたのだろう。僕は看護師さんの気遣いがうれしかった。せっかくの気遣いを無駄にするのもなんだった。僕は言った。


 「そうですねえ。では、せっかくですからシャワーを浴びてしまいましょうか」


 看護師さんはさっそく防水テープを持ってきてくれて、僕の胸に差してある針の周りを覆ってくれた。そして、病室を出て行った。僕はバスタオルと着替えをベッドの上において、点滴のポンプの電気コードを長く伸ばすと、お風呂に点滴のラックを押して行ってシャワーを浴びた。前にも書いたように、僕の病室は特殊でお風呂やトイレがついているのだ。シャワーを浴びるときも抗がん剤の点滴は継続していた。


 僕は久しぶりにシャワーを浴びた。看護師さんが貼ってくれた胸の防水テープがシャワーの水を弾き飛ばした。

 

 シャワーを浴びると、僕は全裸の濡れた身体でお風呂を出た。お風呂場には抗がん剤の点滴のラックを引っ張って行って、シャワー中も点滴を行っている。このため、お風呂場が狭くなっていて、僕はお風呂場でバスタオルを使うことができなかったのだ。それで、バスタオルはベッドに置いておいた。シャワーを浴びた後は、全裸でお風呂からベッドに歩いて、ベッドの横で身体を拭くつもりだったのだ。僕の病室は特殊な構造で、それゆえ個室だった。全裸でお風呂場を出ても誰も見ている人はいない。


 僕はスリッパだけをつっかけた全裸姿で、点滴ラックを押しながらベッドに歩いた。身体にはシャワーの水滴がいっぱい残っていた。歩くと水滴が床にポタポタと落ちた。今は冬だ。早く身体を拭かなければ・・・・・僕は濡れた身体を拭こうとして、ベッドの上に置いてあるバスタオルに手を伸ばした。


 そのときだ。僕はドンという衝撃を受けたように感じた。突然、全身が熱くなった。身体が燃えるようだ。次の瞬間、全身が一気にかゆくなった。僕は全身をかきむしった。


 しまった。アレルギー反応だ!


 全身のかゆみが僕を突き上げた。猛烈なかゆみだ。僕はあえいだ。そして、このかゆみからは逃げられないことを瞬間に悟った。このかゆみから逃れるためには死ぬしかないという思いが僕を支配した。


 逃げ場のない恐怖が僕を襲った。頭が真っ白になった。僕は悶えた。思わず大声で悲鳴を上げた。


 「うわああああああああ」


 そして、僕は全裸のままベッドに倒れ込んでしまった。(つづく)

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