第31話 病院で『ひとカラ』

 こうして、第二回目の抗がん剤の点滴治療が始まった。


 僕は吐き気がひどくなるのではないかと恐れたが、岸根医師が言ったように、吐き気自体は第一回目の抗がん剤治療と変わりはなかった。やはり、吐き気止めの点滴が効いているようだ。だが、これも本当のことは分からない。岸根医師は巧みだ。僕は岸根医師の言う「吐き気止めの点滴があるので、吐き気はひどくならない」という言葉に操られて、『吐き気は変わらない』と思い込んでいるだけかも知れない。


 だが、僕はそれ以上考えるのを止めた。考えても仕方のないことだ。あまり深く考えすぎるのは良くないと思った。


 岸根医師の言うことを真実だと信じて、彼が導くままに導かれて行こう。そうなのだ。すべて、岸根医師に任せて行こう。僕はそう決心した。


 さて、吐き気は第一回目の抗がん剤治療と変わりはなかったといっても、無くなった訳ではない。実際に吐くことはなかったが、相変わらず僕は一日中軽い吐き気に襲われていた。


 吐き気は人の元気と気力を奪うようだ。僕は昼間に時間があっても、テレビを見なくなった。本も読まなくなった。そんな元気がとても出ないのだ。僕は終日ベッドの上で布団にくるまって、ただ吐き気に耐えていた。


 吐き気が軽い時は、前に書いたように窓のところに行って外を見ていた。僕はそうして外を見るのが好きだった。そして、もう一つ好きなことがあった。それは『ひとカラ』だ。


 『ひとカラ』とは『一人カラオケ』のことで、一人でカラオケをで楽しむことや一人でカラオケの練習をすることを指す言葉だ。


 僕は入院するときに、小さなハンディータイプの音楽プレーヤーを病院に持ってきていた。持ってきたと言っても、手の平に隠れるような大きさの小さなプレーヤーだ。携帯でももちろん音楽が聴けるのだが、携帯のスイッチを入れると画面がパッと明るくなるのが、このときの僕には辛かった。僕は吐き気で携帯を見る元気も失せていたのだ。そんなときには、画面が明るくならない小さな音楽プレーヤーが大変役に立ったという次第だ。


 僕は、僕が普段使っている小さなパソコンを病室に持ち込んだ。そのパソコンには、音楽がCDでいうと500枚分くらい入っていた。僕はパソコンと音楽プレーヤーをつないで、適当に好きな曲をパソコンからプレーヤーにコピーした。


 僕は入院中だ。そんなときに聴く曲は、比較的スローテンポで明るい内容のものが良かった。ときには落語なんかも音楽プレーヤーに入れた。


 そうして毎日夕方6時になると、僕は窓に取り付けている、僕が作った紙のブラインドを目一杯上げて、病室の明かりを消した。冬なので外は真っ暗だ。部屋の明かりを消すと、病室が真っ暗になった。窓には外の灯りが映った。そして僕はベッドの布団に潜り込んで、音楽プレーヤーのイヤホンを耳に入れて音楽を聴くのだ。ベッドから顔を窓の方に向けると、真っ暗な窓枠の中に近隣の灯火が揺れていた。僕は夜でも窓を閉め切ることをしなかった。窓を閉め切ると閉鎖されたようで怖かったのだ。


 夕方6時というと病院の夕食の時間だ。だが、僕はまったくと言っていいほど食事を食べることができなかったので、病院の食事は全て断っていた。少し元気のあるときに、売店で買ってきてもらったプリンを一つ食べるというのがせいぜいだったのだ。


 そして、そんな状態で夕方6時から『ひとカラ』をやるのだ。一人カラオケといっても、もちろん、病院の中でカラオケは歌えない。また、このときの僕にはそんなカラオケを歌うような元気も気力も無かった。


 僕は頭の中でカラオケをやるのだ。だから『カラオケ』や『ひとカラ』というよりも『エアーカラオケ』とでも言った方が正確だろうか?

 

 ベッドの中で僕は空想するのだ・・・・・僕は妻と二人でカラオケ店に来ている。あるいは友人たちと来ている。また知らない人たちと来ている。そして、カラオケを歌う姿を空想しながら、音楽プレーヤーから流れる歌に合わせて頭の中で歌を歌うのだ。


 僕の空想は病気が治って、元気になったときの僕の姿でもあった。僕の願望なのだった。


 夕方の6時というと、まだまだ早い。


 看護師さんたちが次々と僕の部屋にやってきた。みんな、6時から僕が部屋の明かりを消して布団に潜り込んでいることにびっくりした。そして、みんなが僕に聞くのだ。


 「一体、何をしているのですか?」


 僕は闇の中に音楽プレーヤーを出して、こう言った。


 「死んでいませんよ。音楽を聴いてるだけです」


 僕の姿がよっぽど不思議だったんだろう。あるとき、看護師さんが僕に聞いた。


 「普段から夕方の6時には布団に入っているんですか?」


 僕は笑い出してしまった。


 「まさか・・・夕方の6時ですよ。普段は仕事をしていますよ」


 そして、こう付け加えた。


 「しんどいんですよ。吐き気がして、しんどいので・・・こうしてると楽なんです」


 看護師さんは納得して帰っていった。


 この空想のカラオケトレーニングで、カラオケが下手な僕でも少しは歌がましになったかもしれない・・・と僕は空想するのだが・・・はて、さて、どうかな?(つづく)

 


 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る