第30話 骨髄穿刺検査でアウト 3
僕はその結果に恐れおののいた。
マラソンでいうと、順調に走ってもうゴールが見えてきたというときに、いきなり有無を言わずに、スタート地点まで戻されてしまったような気分だ。
落ち着け、落ち着け。僕は心に言い聞かせた。
何とか気持ちを落ち着けると、僕は岸根医師に聞いた。
「先生、これはいったいどういうことなんでしょうか? 前回の
「いや、必ずしもそういうことではないんですよ」
「・・・・・」
「実は、あんまり患者さんに詳しいことは、あえてお話しないようにしているんですが・・・今回のAPLの治療は最初に投薬治療で、後の三回が抗がん剤の点滴治療ですよね」
「ええ」
「実は、このステップはだんだんと薬が強くなっていくんですよ」
「薬がだんだん強くなる? すると、僕が最初に受けた投薬治療が薬がもっとも弱い治療だったのですか?」
「その通りです」
そうだったのか。知らなかった。
「それで、今回は残念な結果で白血球に異常が認められましたが、まだ強い薬による治療が二回続きますので。それで、白血球に異常が認められなくなることは充分にあるんですよ」
「先生、他の患者さんはどうなんでしょうか? 投薬治療とそれに続く三回の抗がん剤の点滴治療ですから、全部で4段階の治療ですよね。毎回、骨髄穿刺検査をするとして、全部で4回の検査があるわけですが、僕のように途中の検査で異常が出ることはよくあるんですか?」
僕の質問には岸根医師は明確に答えたくなかったようだ。岸根医師からは言葉を濁した返事が返ってきた。
「そうですね・・・異常が出ることはありますが・・・まあ、あと二回、強い薬による点滴治療がありますから、それに期待しましょう」
僕は胸の血管の中に注入されている点滴液の袋を見上げた。そう言えば、一回目の点滴治療とは袋の色が少し違っていた。そうか。これは一回目よりも強い点滴液なのか。。。。
僕は質問を変えた。
「先生、先生はさっき、患者にはあまり詳しいことを話さないといったことをおっしゃいましたね。しかし、どの患者もどんな治療になるかを知りたいのではないでしょうか?」
岸根医師が少し苦笑いをした。
「そうなんですよ。それは私も分かっているんですが・・・・実は、患者さんに詳しい話をしてしまうと・・・・患者さんの中にはその詳しい話に影響されて、必要以上に薬に過敏に反応してしまう人が出てくるんですよ」
「・・・・・」
岸根医師が僕の点滴液の袋を見上げた。
「前にも少しお話しましたが、この抗がん剤の点滴をすると、吐き気が襲ってきますね。それで患者の中には、看護師が病室に点滴の袋を持ってきただけで、口を押さえて吐きそうになる人がいるんですよ。まだ点滴は開始していないから吐き気がくることはないのに、点滴の袋を見ただけで身体が過敏に反応してしまうわけです。だから、私たちも患者さんにはあまり詳しい話はしないようにしてるんです」
僕は岸根医師がときどき話をぼかすような表現をすることを思い出した。そうか、それで、わざと話をぼかして詳しい話にならないようにしていたのか。
「なるほど、先生。よく分かりました・・・・すると、抗がん剤の点滴の段階が進むと、吐き気も段階的にひどくなるということですね」
「そうなんですが、今は吐き気止めのいい薬ができているので、吐き気は今までと同じくらいに抑えることができるんですよ。しかし、患者さんの中には『強い点滴薬』と聞いただけで『吐き気が激しくなる』と思いこんで、げーげーと吐き出す人もいるんです。だから、段階を追って強い薬になるということはあんまり言わないようにしているんです」
それから、岸根医師は急に話題を変えた。僕にブラセボ効果について雑談をしてくれたのだ。ブラセボ効果というのは、本来薬ではないものを薬と称して患者に服用させると、効果が認められることがあるというものだった。岸根医師は自分の経験からいっても、ブラセボ効果は本当に認められるんだと言っていた。
ただ、これは本当かどうかは分からない。岸根医師は僕が神経過敏になって質問を続けるので、僕に『詳しい話』を聞かせないように、僕が興味を持ちそうな『ブラセボ効果』を持ち出して巧みに話題を切り替えたのかもしれない。
岸根医師は患者の話を巧みに誘導するのが本当にうまいのだ。
岸根医師の顔を見ながら、僕はこの人は名医だなと思った。(つづく)
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