第26話 髪の毛が抜けだした

 抗がん剤の点滴治療を開始する前に、僕は病院にいる薬剤師さんから髪の毛の話を聞いていた。抗がん剤の副作用で髪の毛が抜けるという話だ。僕も覚悟はしていた。最初に大学病院の血液内科を受診したときに、壁際に「ウィッグを提供します」という広告やらパンフレットがやたら置いてあったのだ。それは、今いる病院でも同じだった。それを見て、この血液内科の治療では髪の毛が抜けるんだと思った。だから覚悟はしていたんだ。それで、薬剤師さんが僕の病室にやってきて髪の毛の話を始めたときに、僕は「いよいよ髪の毛が抜けだすのか」と思ったのだ。


 僕の友人の中に頭を剃ってスキンヘッドにした男がいた。悪友連中がさかんに彼を冷やかしたが、僕は彼を見て、それはそれでなかなか似合っていると思った。彼もまんざらではなかったようで、スキンへッドを続けた。それからスキンヘッドが彼のトレードマークになっていった。


 だが、僕は自分にはスキンヘッドは似合わないと思った。だから、髪の毛が抜けるのは嫌だった。しかし、こればっかりはどうしようもない。抗がん剤で治療中の僕には選択肢は何もないのだ。


 薬剤師さんは僕に言った。


 「もし、ウィッグを作るんだったら、早めに言ってください」


 その病院では薬局がウィッグを提供しているようだ。僕は薬剤師さんに聞いた。


 「患者のみなさんは、どうされているんですか? やっぱり、みなさん、髪の毛が抜けたらウィッグを作っておられるんですか?」


 「いえ、人それぞれです。女の方はウィッグを作る人が多いのですが。。。必ずしも、すべての女性の患者さんがウィッグにしている訳ではありません。女性でウィッグにしない人は毛糸の帽子をよくかぶっていますよ。男性はウィッグより、毛糸の帽子をかぶる人が多いですね。ウィッグですと頭を採寸して作りますので、製作にだいぶ時間がかかります。それで、早めに注文していただいた方がいいんですよ」


 僕は病院の廊下でよく見た、毛糸の帽子をかぶった女性や男性の入院患者を思い浮かべた。今は冬だ。僕は安易に防寒対策だと思っていた。そうか、あの人たちは抗がん剤で髪の毛が抜けたから、毛糸の帽子をかぶっていたのか・・・


 「毛糸の帽子を希望されますか? それでしたら、いいのを紹介しますよ」


 薬剤師さんが言ったが、僕は首を横に振った。


 「いえ。初めてなので、まだ、どうしたらよいのか、まるで分かりません。もし、ウィッグや帽子が必要になったら、そのときにお願いします」


 「そうですか。では必要になったら、いつでも声を掛けてください」


 薬剤師さんはウィッグのパンフレットを置いて帰っていった。


 それから、抗がん剤の点滴が始まったのだ。


 正直言うと、僕はいつ髪の毛が抜けだすかヒヤヒヤしていた。普段は髪の毛を櫛で梳くのもいい加減にしていたが、それからはゆっくりと丁寧に髪に櫛を入れるようになった。抗がん剤の点滴が始まっても、すぐには髪の毛は抜けなかった。僕はちょっぴり安堵した。


 しかし、一週間ほどしたときだ。少しずつ、髪が抜けだしたのだ。朝起きて、髪の毛を触ると何本かの髪が抜けるようになった。それから、髪の毛の抜ける量はだんだん多くなっていった。


 髪が抜け始めたなと思ってから、二三日したときだ。僕は何気なく頭に手をやった。そして、その手を顔の前に持ってきて驚いた。手の中にあったのは髪の毛の束だったのだ。


 手の中に髪の毛がいっぱいある? えっ・・・これって?


 僕は洗面台のところに点滴液のラックを移動させた。洗面台の鏡の前で、さっきと同じように頭に手を置いた。髪の毛の束を軽くつかんで、そのまま手を頭上に持ち上げた。髪の毛の束がそっくり抜けて、手の中にあった。痛みも何もなかった。


 えっえっ・・・


 僕は頭の別の場所の髪の毛をつかんだ。手を持ち上げると・・いとも簡単に髪の毛の束が抜けていった。僕は残っている頭の髪の毛をところかまわず、ひっぱてみた。髪の毛が面白いように抜けていった。


 僕は四谷怪談の有名なシーンを思い出した。夫の伊右衛門に毒を飲まされたお岩さんが、腫れあがった顔で鏡の前で髪を梳くのだ。お岩さんが髪に櫛を入れると、髪の毛が櫛と一緒にごっそりと抜けていく・・・お岩さんは女性だ。女性の本能で、それでも髪に櫛を入れる・・・また、髪の毛がごっそりと抜ける・・・あの有名な、髪に対する女性の情念を表していると言われている身の毛もよだつシーンだ。


 鏡の中の僕の口から思わず声が出ていた。


 「これじゃあ、まるでお岩さんだ」


 僕の頭はあっという間にツルツルテンになってしまった。わずかに側頭部に髪の毛が残っているだけだった。


 あっという間だった。あんなに恐れていたが、髪の毛がなくなるのはほんの一瞬だった。僕はなんだかおかしくなった。病室で一人でくすくすと笑った。


 僕は薬剤師さんが置いていったウィッグのカタログを手にした。カタログを開くと、さまざまな女性がウィッグをつけて笑っていた。男性のモデルは登場していなかった。


 あれっ、なぜかモデルは女性ばっかりだなあ?


 僕は首をひねった。ツルツルテンの頭を鏡で見ながら、僕の口からまた言葉が洩れた。


 「さあどうしようか?」(つづく)

 

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