第24話 窓から見える風景 

 紙製ではあるが手作りのブラインドができたので、僕の生活にわずかな潤いができた。


 僕は一日中抗がん剤の点滴をしていたので、常に吐き気に悩まされていた。このため、一日中ベッドに横になっていることが多かった。しかし、時おりは吐き気が軽いときがあった。そんなときには、僕は点滴液のポンプの電源を抜いて、椅子と点滴のラックを窓際に持っていった。幸いなことに窓際の壁にも電源コンセントがついていたので、僕はそこに点滴のポンプの電源を差して、椅子に座って窓から外を眺めていた。


 抗がん剤の点滴治療が始まってから、僕は病室のテレビを全く見なくなった。吐き気のせいで、テレビを見る元気も気力もなくなってしまったのだ。本を読む元気もなかった。つまり何かをする元気が出ないのだ。以前テレビで白血病の子どもが病院で学校の宿題をやっているシーンを見たことがあった。しかし、自分が実際に白血病になったら、あの子は大したものだったなあというのが僕の感想だ。僕があの子だったら、吐き気でとても宿題などする気にはなれなかっただろう。


 そのため、僕は一日中吐き気に耐えながら、布団をかぶってベッドに横になっていた。そんな僕には、たまに窓から外を見ることは、数少ない楽しみになったのだ。


 病院の隣には建設会社の大きなビルがあった。そのビルには壁に大きな窓がはめ込まれていたので、僕の病室から建物の中で働いている人たちの姿がよく見えた。何でもない風景だが、入院中の僕にとっては唯一の外界の風景だった。僕は飽きることなく建設会社のビルで働く人々を病室の窓から眺めていた。


 特に土曜日が僕の楽しみだった。その建設会社は土日が休みなので、土曜日はビルの明かりが消えている。だが、いつも土曜の9時キッカリに出勤する人がいるのだ。男の人だった。


 いつも土曜日の9時になると、その人がやってくる。まず、ビルの1階の玄関の鍵を開けてビルの中に入る。しばらくすると、3階のある部屋の明かりがつく。そして、窓から見える席にその人が座って仕事を始めるのだ。それから、次々と人がやってきて、そのビルに吸い込まれていく。僕はその一部始終を土曜日の午前中に病院の窓から眺めていた。


 ある土曜日だ。9時になっても、いつもの人がやってこないのだ。10時ごろに別の人がやってきて、ビルの鍵を開けて中に入った。3階とは違う階の明かりが灯る。その後、次々と人がビルに入っていった。だが、その男性は現れなかった。


 それから、土曜9時の人は、土曜日の9時にやってこなくなった。


 僕は何だか他人ごとではなかった。あの土曜9時の人はどうしたのだろう? 僕は家族を心配するように、その人のことが気になった。


 土曜9時の人は何かの事情で9時に出るのではなく、もっと遅い時間に出勤することにしただけなのかもしれない。あるいは、別の支店に転勤したのかもしれない。いや、ひょっとしたら病気ではないだろうか? それとも・・・・


 さまざまな思いが僕の胸を駆け巡った。


 また、その建設会社の近くにマンションがあった。毎朝、8時ごろにマンションを出て駅に向かう若い女性がいた。どこかに務めているのだろう。当然のことだが、彼女は毎朝、服を変えていた。僕は彼女の服を見るのが楽しみだった。今日はどんな服を着ているのだろう?・・・あれっ、今日の服はなんだか地味だなあ。もっと明るい服にすればいいのに・・・


 まるでストーカーだ。自分でもそう思った。僕は思わず苦笑してしまった。


 また、病室の窓の片隅にタワーマンションの入り口が見えた。そのタワーマンションには著名な芸能人が住んでいるという噂があった。僕はその入口もよく見ていた。芸能人が出てこないかなと思ったのだ。しかし残念ながら、芸能人の姿を見ることはなかった。そこには住んでいなかったのかもしれない。


 なんだか芸能レポーターか、張り込みをしている刑事になったような気分だ。僕の頭にテレビで見た刑事の張り込みシーンがよぎった。


 病院の近所にはちょっと大きな公園があった。その公園にはたくさんの木が植えられていた。そして、そこには多くの野鳥が住んでいた。時おり、その野鳥の一羽が飛んできて、僕の病室の窓の外にある病院の木に止まっていた。その野鳥はよくその木から周囲を見まわしていた。その木が鳥の偵察基地のようだ。薄茶色の頭に少し青い線が入ったような鳥だった。何という名前の鳥かは知らない。しかし、その鳥は僕の眼を大いに楽しませてくれた。


 天気の良い日には、午後になると窓から陽が差しこんできた。冬でも直射日光がまぶしかった。僕は手製の紙のブラインドを降ろして、ベッドに横になった。


 しかし、夕方になると、ベッドからひもを使って手製のブラインドを引き上げた。ベッドに寝ている僕の眼に、夕焼けの茜色に染まる空が映った。僕は朝陽も好きだが、夕陽が大好きだった。とりわけ、夕陽で茜色に染まる空を見るのが好きなのだ。吐き気が厳しく、窓際に行って窓の外を見ることができないときでも、僕はベッドに横になって茜色の空を見ていた。


 高校のとき、僕は電車で3つ目の駅にある図書館によく行っていた。図書館の自習室で一人で勉強をしていたのだ。その図書館は高台に建っていて、自習室が西向きだった。このため、冬の夕方には高台の下の平野一面が夕陽で黄金色に染まるのだ。その黄金色の上には茜色の空があった。その空の真ん中には真っ赤で大きな太陽があった。時間の経過とともに、太陽がゆっくりと地平に沈み、空の色は茜色から徐々に群青色に変わっていった。そして、暗くなっていく空を背景にして、平地には少しずつ宝石のような赤や黄や白の灯りがともっていくのだ。僕は勉強するのを止めて、何十分も黄金色の平地と茜色の空が変化していくのを飽きずに見ていた。僕の至福の時間だった。


 ベッドで吐き気に苦しみながら、僕は病院の窓から見える茜色の空を見ていた。


 高校時代に見た空と同じ空だ。僕はそう思った。


 いつの間にか僕は高校時代に還っていた。(つづく)



 


 






 

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