第23話 『開かないブラインド』
803号室に移って、僕はやっと寒い冷気からのがれることができた。
これで僕は803号室、805号室、803号室と3回病室を替わったことになる。
803号室に二度目に引っ越しの荷物を持って行ったときだ。そのとき、病室の窓には手でひもを引っ張って開閉する方式のブラインドが取り付けられていた。そして、窓の一番下までそのブラインドが降ろしてあった。僕が病室に入ると、病室にいた看護師さんやヘルパーさんが窓を指さして僕にこう聞いたのだ。
「窓のブラインドはどうしますか? もし、これが嫌だったら、病院の設備の人に言って、『
開かないブラインド? 初耳だった。そんなものがあるのか? 僕は聞いた。
「『開かないブラインド』ですか?」
「ええ、ブラインドの形はしていますけど、ひもを引っ張ってもブラインドが動かないんです。それだったら、ブラインドは下まで降りた状態でもう動きませんので、開くことはありません」
なんだか不思議な話だった。僕は首をかしげた。
「そんなものがあるんですか?」
「ええ、入院患者のみなさんは、ほとんど全員が『開かないブラインド』にしてほしいと言っていますよ」
「そうなんですか・・・・しかし、その『開かないブラインド』にすると、病室から窓の外を見ることができなくなるんですよね?」
「ええ。外は見えません。まあ、ブラインド全体を持ち上げたら、隙間からちらりと外を見ることはできますけど・・・・では、『開かないブラインド』に取り換えましょうか?」
看護師さんたちは、なぜか『開かないブラインド』にしたいようだった。僕はあわてて言った。
「いや、僕はいいです」
僕はいつも窓から外の景色を眺めていたかった。今は点滴中で病室から出ることを禁止されているのだ。そんな僕にとって、窓の景色は唯一病室と外をつなぐものだった。それに僕は暗いのが大嫌いだ。だから、その外につながった窓からは、病室にさんさんと陽が降りそそいでいてほしい。
しかし、病院で入院患者がそんなに窓を閉め切りたいと希望しているとは知らなかった。なんでみんな、そんなに『開かないブラインド』にしたいのだろうか?
看護師さんたちが病室を出て行くと、僕は点滴のポンプの電源を抜いて窓に歩いて行った。そして、ひもを引いて窓のブラインドを一番上まで押し上げた。窓の外に明るい景色が広がった。窓というものは、これでなくちゃ。僕は満足した。
しかし、その日の午後おそい時間になると、入院患者が開かないブラインドにしたいという理由がよく分かった。入院したときは冬だ。803号室の窓は南西に向いていた。このため、午後になると日差しがベッドまで入ってきて、ベッドに横になっているとまぶしくて仕方がないのだ。
初めて803号室に入ったときは点滴のチューブが無かった。僕は病室の中や、病室の外の廊下を自由に歩き回ることができた。廊下にある窓からいつでも外を見ることができたのだ。そのため、そんなに病室の窓から景色を見たいとは思わなかった。また、陽が差してまぶしいときは、簡単に窓まで歩いて行ってブラインドを降ろすことができたのだ。僕は無意識に窓のブラインドを上げ下げしていた。
次に入った805号室は廊下をはさんで803号室の反対側にある。すなわち、窓は803号室とは逆の北東に向いていた。このため、陽が差しこむといったことはなかったのだ。それに前に書いたように805号室では、僕は天井からの冷気に苦しめられていて、窓のブラインドどころではなかった。このため、最初に入ったときに看護師さんが窓のブラインドを一番下まで降ろしたのだが、それから僕はブラインドをずっとそのままにしていた。
だが、二回目の803号室では違った。冷気に苦しめられることが無くなったので、僕の心に余裕ができていた。それに、僕は病室を出ることを禁止されて、ずっと病室の中で暮らさなければならなかったのだ。外の景色を見るのは僕の唯一の楽しみだった。
こうしたことから、僕は『開かないブラインド』にはしたくなかったのだ。閉め切られた部屋は嫌だった。外がいつでも見える部屋であってほしかった。それに午前中は陽が差し込まないのだ。午前中はブラインドを全開にして、午後だけブラインドを閉めておきたかった。
読者の皆様は、窓に歩いて行って、その都度ブラインドを上げたり下げたりすればいいじゃないの?と思うかもしれない。
しかし、僕は点滴のコードでつながれている身だ。このため、ブラインドの上げ下げは、ベッドで点滴液を送るポンプの電気コードを壁のコンセント口から抜いてポンプを止め、点滴の簡易ラックに電気コードを巻きつけて、それから手で簡易ラックを押しながら窓まで歩いて行かねばならなかった。しかも、僕は抗がん剤による継続した吐き気で苦しんでいた。僕にはベッドから窓まで歩く数歩だけでも負担だったのだ。
何とかベッドに横になりながら、窓のブラインドを上げ下げできないものだろうか?
僕は吐き気に悩みながら考えた。そして一計を案じた。
翌日の午前中だ。午前中は陽が差してこない。何か細工をするなら午前中だ。まず、僕はヘルパーさんに頼んで、大きな白い模造紙、はさみ、ガムテープ、荷造り用のひもを買ってきてもらった。そして、模造紙を目分量で窓枠の大きさにカットして、それをガムテープで張り合わせた。それから、その一番端に荷造り用のひもを2本ガムテープで固定した。
次に点滴の電源を外して、窓枠に椅子を持っていった。そして、その椅子の上にあがった。窓のブラインドを外そうとしたのだ。
そのとき、女性の看護師さんが病室に入ってきた。看護師さんは僕が椅子の上にあがっているのを見て驚いたようだ。慌てた声で僕に注意した。
「ちょっと、何をしてるんですか? 危ないじゃないですか?」
看護師さんが僕に注意するのは当然だ。僕は胸の血管に点滴の太い針を刺している状態だ。倒れたりしたら大変なのだ。大けがをしてしまうことになる。しかし、僕は笑って答えた。
「大丈夫ですよ」
そう言って、僕は窓のブラインドをゆっくりと外した。看護師さんはあきれ顔で僕を見ながらもう一度聞いた。
「一体何をしてるんですか?」
「窓のブラインドを外しているんです」
「ああ、そうですか。では病院の係の者を呼びましょう。『開かないブラインド』に取り換えたいんですね」
「いや、そうではないんです。僕の手作りのブラインドに取り換えたいんです」
僕はそう言って、先ほどつなぎ合わせた模造紙を手に持って、また椅子の上にあがった。今度は看護師さんが、僕が倒れないように手で僕と椅子の背を支えてくれた。僕は模造紙を窓枠の一番上にガムテープで張り付けた。これで窓全体が模造紙でふさがれた。そしてガムテープで模造紙に固定した2本の荷造り用のひもを窓枠の上部のカーテンレールに通した。
僕はゆっくりと椅子から降りて、2本のひもを持ってベッドに戻り横になった。そして、看護師さんに言った。
「見ていてください。こうすると、ベッドに寝ていてもブラインドを上げることができるんです」
僕はベッドに横になった姿勢で2本のひもをゆっくりと引いた。すると、模造紙のすそがゆっくりと上にあがっていった。模造紙が上がっていった後には、窓の景色が現われた。
看護師さんが吹き出した。
「まあ、すごい。病院でこんなことをする人を初めて見ました。紙でブラインドができるんですね」
僕はちょっぴり誇らしかった。
「ええ、僕の本業はエンジニアですから。こんなことは何でもありません」
僕は紙のブラインドを一番上まで引き上げた。外の景色が窓枠いっぱいに広がった。僕は笑って看護師さんに言った。
「午前中はこうしてブラインドを窓一杯に開けて、外の景色を見たいんです。僕はこの病室から出られませんから、外の景色を眺めるのが楽しみなんです。だけど、午後からは冬の日差しが入り込みますので、まぶしい時はこの紙のブラインドを降ろしてしておきたいんです」
その翌日、妻が病室にやってきた。妻も紙のブラインドを見て笑い出した。
「これって、病院の外から見たら、この部屋の窓だけ模造紙で白く見えるわけね。なんだか、あなたが外の人に『オレ様はここに入院してるぞ』って、アピールしてるみたいね」
僕も妻と一緒に大笑いした。そのとき、模造紙は下まで降ろしていた。僕の眼には僕たち夫婦の笑う姿が模造紙に一瞬映ったように見えた。
僕は思った。みんな窓から外が見たいのに、我慢しているんじゃないだろうか?
紙のブラインドか。。。何でもないことなんだが、こうしたちょっとした工夫が入院生活には必要なんだな。
吐き気と外出禁止で閉塞していた僕の心にちょっぴり明かりが灯った気がした。(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます