第22話 冷気が襲ってきた 5

 病院の中の誰もが僕を信用してくれなかった。僕を相手にしてくれなかった。僕があんなに図を描いて状況を説明しているのに。。。


 僕の冷気との闘いは終わった。僕の完全な敗北だった。闘いと言っても一方的な闘いでしかない。誰も僕の話を信用してくれないので、僕には我慢するしか手立てがなかったのだ。僕には成すすべがなかった。


 ほとんど食事がとれないところに吐き気と冷気による睡眠不足が加わった。僕は衰弱した。


 それでも僕はささいな抵抗を試みた。あるとき、僕は毎日11時から困ったことはないかと聞きにくる看護師さんに相談してみたのだ。


 「すみません。前にもお話しましたが、ベッドの上の空気の吹き出し口から冷たい空気が降りてきて困っているんです。ベッドの位置を少し動かすことはできませんか? あるいは、吹き出し口のところに段ボールの板を取り付けてはダメですか? ベッドに寝ているときに天井からの送風をまともに受けないようにしたいんですが。。。段ボール板は僕が探してきて取り付けますので、病院にお手間は取らせません」


 看護師さんは「病院の担当者に聞いてみます」と言って帰っていった。


 翌日、その看護師さんが僕の部屋にやってきて、こう言った。


 「残念ですが、ベッドの位置を変えることも、空気の吹き出し口に段ボール板を取り付けることも認められません」


 「えっ、どうしてですか?」


 「規則で認められません。ベッドの位置は吹き出し口の真下になるように設計されていますので、ベッドの位置を変えると設計から外れてしまいます。だから、ベッドの位置はわずかでも変えることはできません。また、吹き出し口に何か板をつけることもダメです。吹き出し口から直接ベッドに寝ている患者に空気が当たる設計になっていますから、その空気の流れを遮るものをつけることは認められません」


 僕はベッドと送風の設計思想を変えたいと言っているのではないのだ。寒いから、少しベッドをずらしたいだけなのだ。また、送風口に板をつけて、冷たい空気が直接身体に当たらないように工夫して、空気の流れを少しずらしたいだけなのだ。


 また杓子定規な『規則がこうなってる』という論旨だ。一体全体、規則は患者を従わせるためにあるのだろうか? 規則は患者のためにあるのではないだろうか? 


 みんなして何かあったときに病院や自分たちに責任が及ばないようにしているのは分かる。そうすることが正しいかどうかは別にして・・そうしたいという心情は分かる。


 しかし、それでは、何かあったときに病院や自分たちにに責任が及ばないように、つまり病院や自分たちを守るために、規則があることになるじゃないか! 


 そして、規則は患者のためにあるのではないということになるじゃないか!


 僕は怒りを覚えた。看護師さんに言った。


 「でも、その空気の流れが冷たい風になっていて、患者の僕がベッドで寝ていると寒いんですよ。患者が第一ではないのですか?」


 「この805号室と同じ設計の病室がいくつかありますが、そちらの患者さんは何も不満は言っていませんよ」


 「僕が前にいた803号室はここより広いですが、設計思想はここと同じです。しかし、803号室では寒いということはありませんでした。この805号室だけがダクトの中で冷たい空気と暖かい空気が交じり合っていないんだと思います」


 「どうしてそんなことが起こるんですか? この805号室とまったく同じ広さで同じ構造の病室もあるんですよ。さっき言ったように、そこにいる患者は何も言っていないんですよ」


 「何故かここの805号室だけがダクトの中で冷たい空気と暖かい空気が交じり合っていないんだと思います。805号室とまったく同じ広さで同じ構造の病室でもダクトの中で冷たい空気と暖かい空気が交じり合っていたならば、冷たい空気がベッドに降りてくるということはないんだと思います」


 「でも、この前、エアコンを調べたけれど異常はなかったという報告がなされているんです」


 「あれはスイッチを調べただけですから、あれではダクトの異常は分かりません。とにかく一度、ここのベッドに横になってみてください。そうして冷たい風が降りてくるかどうか実際に確かめていただけませんか?」


 でも看護師さんはそうしてくれなかった。もう話は終わったというように、看護師さんは病室を出て行ってしまったのだ。


 何を言っても無駄だった。


 議論はもういいと僕は思った。病院の人たちは最初から僕の言うことに聞く耳を持っていないのだ。一度でいいから、夜に僕の代わりにこのベッドで寝てみてほしい。そうして、冷たい風が吹き出し口から降りてくるのを体験してほしい。僕は心からそう思った。だが、そんなことをしてやろうと言ってくれる人は皆無だった。


 しかし、病院というところは何と融通が利かないんだろう。僕があんなに図を描いて説明しても誰も耳を貸さない。そして、今日のように規則でそう決まっているからダメだと言うのだ。


 また、病院というところはいままでやった通りのことしか対応してくれない。いい例が先日のエアコンの点検だ。何度も繰り返して申し訳ないが、やはり僕は言わざるを得ない。僕がダクトの中で冷たい空気と暖かい空気が混ざっていないのが原因だと言っているのに、エアコンのスイッチを点検しただけなのだ。おそらく、病院の設備担当者にとっては『エアコンの点検』というのは『エアコンのスイッチの作動の点検』のことだったんだろう。いままでエアコンに関しては、スイッチの作動の点検だけをやってきたのだろう。だから今回もいままでと同じ点検だけをしたのだ。スイッチの作動を調べて、ダクトの異常が分かるはずもなかった。


 僕は本当に困ってしまった。僕はこの病室にずっといなければならない。しかし、寒くて夜に寝られない状況では、白血病の治療どころか睡眠不足で僕の身体が参ってしまうのは眼に見えていた。


 僕は岸根医師に窮状を訴えた。しかし、既にエアコンは異常なしという報告がきており、岸根医師も手の打ちようがない様子だった。何もしてくれなかった。いや、病院の硬直した体制の中では何もできなかったというのが正確かもしれない。


 僕は絶望に頭を抱えた。


 そして、僕はますます衰弱した。


 ・・・・・・


 転機は突然にやってきた。


 あるとき、岸根医師が僕の805号室に急いでやってきて、こう言ったのだ。


 「実は803号室に入院していた患者が、今日退院することが急遽決まったんです。今なら803号室は空いています。もしよかったら803号室に替わりますか?」


 「えっ、病室を替わることができるんですか?」


 「ええ、替わることができます。いままではどの病室も空いていなかったんで、替わることはできなかったんですが。。。つい先ほど、803号室の患者の退院が決まったので、いまなら病室を替わることが可能ですよ。どうしますか?」


 「先生。それなら、ぜひ病室を替えてください」


 「わかりました。では、今日の昼に803号室に替わってください」


 僕はその日のうちに、前にいた803号室に替わった。病室を替わるというので妻がきてくれた。また、僕は病室を出るのを禁止されていたので、廊下の移動が短時間で済むように看護師さんやヘルパーさんが冷蔵庫の中のわずかな食べ物や僕の荷物を803号室に運んでくれた。


 こうして僕は803号室に替わった。地獄の805号室からやっと脱出できたのだ。


 懐かしい803号室は僕には天国のように見えた。803号室では、もう天井からの冷たい空気に悩まされることはなかった。


 その後、僕の後に805号室に入った人がいるはずだが、その人はどうだったんだろう。僕は気になったが、誰にも聞かなかった。どうせ聞いても本当のことは教えてもらえないと思ったのだ。だから、805号室の恐怖のエアコン設備がその後どうなったのかを僕は知らない。(つづく)

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