第21話 冷気が襲ってきた 4

 その次の日だ。


 お昼過ぎに前触れもなく僕の病室に誰か入ってきた。僕は吐き気に加えて、連日の睡眠不足でぐったりしていた。吐き気のお陰で、ここ数日ほとんど食事がとれていないのだ。


 僕はベッドの布団にくるまって横になっていた。昼間はベッドにいても寒くはなかった。さすがに昼間はいろんな人が絶えずやって来るので、頭上の空気吹き出し口から冷気が直接降りてくるということはなかった。いや、冷気は昼でも夜と同じように、空気吹き出し口から降りてきているのだろう。しかし、昼間は人の動きが激しくて、常に病室内の空気は撹拌されている。このため、冷気はベッドの上の僕に当たるまでに暖かい空気と混ざってしまって、僕の寝ているところまで到達しないだけなのだ。そして人がいない夜になると、僕はいつものように冷気に苦しめられていたというわけだ。


 前に書いたように、病院の昼間は実にいろんな人が入れ代わり立ち代わり病室にやって来る。いちいち誰がやってきたのかを気にしていられない。僕はしんどさもあって、このとき突然僕の病室にやってきた人には特に注意を向けなかった。布団の中で僕はじっとしていた。


 その人は病室の入り口で20分ほど何かやっていたが、やがて黙って病室を出て行った。


 その日の夜8時からの看護師さんの定期の診察のときだ。病室にやってきた看護師さんが僕にこう言ったのだ。


 「今日の昼間、病院の設備担当の人にエアコンのスイッチを調べてもらいました。しかし、何も異常はなかったそうですよ」


 あなたがあんなに騒ぐから病院がわざわざ調べてやったら、なんと異常なしじゃないか。それ見ろ。やっぱり異常なしじゃないか・・・看護師さんの言葉はいかにもそういう口調だった。


 僕は驚いた。では、あの昼間にやってきた人が設備担当の人だったのか。しかし、看護師さんの話では、あの人はエアコンのスイッチを調べただけじゃないか!・・・これはスイッチではなくて、空気のダクトの構造の問題だ。調べるところがまったく違っている。しかし、病院が言っていた『エアコンの検査』というのは、たったそれだけなのか?・・・


 僕はあの図を出して看護師さんに言った。


 「エアコンのスイッチの問題じゃないんですよ。冷たい空気と暖かい空気が充分に混ざっていないことが原因なんです。この図を見てください。この図を見ていただければ分かります。こう言っては申し訳ないのですが、入り口のエアコンのスイッチだけを点検していただいても、異常が見つかる訳はありませんよ」


 だが、看護師さんはまたしても僕の差し出した図に見向きもしてくれなかった。そして、何も言わずに病室を出て行ってしまったのだ。


 深夜になった。


 僕は部屋の明かりを消して布団をかぶって寝ていた。正確には布団をかぶって、眼をつむって横になっていた。吐き気と疲労と空腹で眼を開けているのさえ、しんどい状況だった。疲れて何もする気が起きなかった。テレビを見たり本を読む元気もなかった。変な言い方だが、寝ることさえしんどかったのだ。


 ベッドの上からは、いつもの夜と同じように冷気が降りてきているのが分かった。このため、僕は入り口まで行って、エアコンの設定を26度から28度に上げておいた。そうしても冷気が降りてくるのは変わらないのだが、寒いので心情的に設定温度を上げておかざるを得なかったのだ。


 しばらくすると、2時間ごとの巡回の女性の看護師さんがやってきた。看護師さんはいつもペンライトを僕の顔に当てて呼吸をしているかどうか、つまり死んでいないかどうかを確認する。僕はペンライトが当てやすいように布団から顔を出した。眼をつむって寝たふりをしていた。


 看護師さんは病室に入るとゆっくりとベッドに近づいてきた。部屋の明かりが消えているので、看護師さんがペンライトで足元を照らしているのが分かった。僕は眼をつむっていたのだが、雰囲気で看護師さんの動きが分かったのだ。そして、看護師さんは僕のベッドの横で立ち止まった。僕の顔にペンライトを当てた。僕はまぶしくて眼を少ししばたたいた。


 少しそのままで看護師さんに顔を観察された。やがて、看護師さんは後ろを向いて、ゆっくりとベッドから離れて行った。そして、入り口のところで立ち止まると、エアコンの設定パネルにペンライトを当てた。気のせいか、僕には看護師さんが舌打ちをしたように思えた。それから彼女はエアコンの設定パネルで何か操作して、病室を出て行った。彼女が病室を出るときに、ドアをいつもより強く閉めたように感じた。


 僕は眼をつむって寝たふりをしていたが、雰囲気でそういった看護師さんの動きが手にとるように分かったのだ。


 僕は彼女がエアコンの設定パネルで何をしたのかも理解できた。先ほどベッドの横で彼女がペンライトを僕の顔に当てるために立ち止まった位置は、冷たい空気と暖かい空気の境界より暖かい空気側だった。すなわち、そこに立つと暑いのだ。おそらく彼女は暑いので病室内の温度が異様に高いと思ったのだろう。それで病室を出るときに。エアコンの設定温度を低く変更したのだ。


 僕はベッドに起き上った。部屋の明かりを点けた。そして、点滴のポンプの電源コードを抜いて、点滴の簡易ラックを押しながら部屋の入口に行った。エアコンの設定を見ると、僕が設定した28度が24度に下げてあった。僕は再び28度に設定しなおして、ゆっくりとベッドに戻った。


 ベッドに入ると、先ほどの看護師さんの様子が脳裏に浮かんできた。彼女がエアコンの設定温度を確認したときに、彼女が舌打ちしたように僕には感じられたが、本当に彼女が舌打ちをしたのかどうかは分からない。雰囲気でそう感じたのだ。だが、僕の心に彼女の想いが伝わってきた。エアコンの設定温度を確認したときに、間違いなく彼女は心の中でこう言ったのだ。


 「寒い、寒いと言ってるけど、こんなに暑いじゃないの。しかもエアコンの設定を見たら、28度になってるじゃないの。これじゃあ、暑いはずよ。本当にお騒がせな人ね。いったい、どうなってるのよ」


 実際に彼女はそう口に出したわけではなかった。病室に残る彼女のいた残滓ざんしというか、そういうものが僕に彼女が心の中でそう言ったことを語ってくれたのだ。彼女が強くドアを閉めたこともそれを裏付けていた。


 僕には誰も味方がいなかった。僕は冷気が降りてくるベッドの上で一人布団にくるまった。


 今日、設備の人が来て異常なしと結論を出したのなら、病院の対応はそれですべて終わったことになる。結局、誰も僕の言うことを理解してくれなかったのだ。


 病院の対応はすべて終わった。これから病院の誰かが僕の言うことを信用してくれることは・・・もうないだろう。僕はずっとこの寒さに耐えなければならないのだ。


 こんなバカげた苦しみが一体いつまで続くんだろう? 


 どうしたら、ベッドに冷気が来ていることを誰かに分かってもらえるんだろう?


 僕はベッドで悶々とした。苦しかった。誰も分かってくれないということが情けなかった。泣きたかった。


 少し前、冷気の原因が分からなかったとき、僕は病室に幽霊や『幽霊のようなもの』がいるんじゃないかと本気で恐れおののいた。でも、幽霊や『幽霊のようなもの』より怖いものがいたのだ。それは、かたくなに自分のテリトリーを守ることだけを気にして、患者の声にまったく耳を貸さない病院の人たちだ。僕は病院こそ患者の声に耳を貸してくれるところだと信じていた。でも、それは妄想に過ぎなかったのだ。


 もう手立てはないのか・・・絶望が僕を包み込んだ。(つづく)

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