第20話 冷気が襲ってきた 3
やっと寒さの原因が分かった。
だけど、この現象を病院の人に説明して、エアコンを直してもらわないといけない。僕はベッドの横に置いてあった何かの紙を手にとった。そして、その紙の裏に、持っていたボールペンでこの現象を説明するための図を描き始めた。僕はエンジニアという仕事柄、何かの図を描くというようなことは日常的にやっていたので苦にはならなかった。軽い吐き気に襲われていたが、僕は夢中になって図を描いた。
本来ならば、いますぐにナースステーションに行って、こういう状態ですと話をすればいい。しかし、僕は外出禁止だ。病室を出てナースステーションまで歩くことは許されていなかった。
それに、短時間でもルールを破ってナースステーションに行くにしても、僕は点滴のコードでつながれている身だ。このため、ナースステーションに行くには、一旦点滴液を送るポンプの電気コードを壁のプラグから抜いてポンプを止めて、簡易ラックに電気コードを巻きつけて、それから手でラックを押しながら行かねばならなかった。継続した吐き気で苦しんでいる身体には、それだけでも負担だった。
加えて、もしそこまでして、ナースステーションに行けたとしても、こんな内容を口頭で説明して理解してもらうのは難しい。また、ナースコールをして看護師さんに病室に来てもらうのは気が引けた。ナースコールをして「お話がありますので、病室に来てください」なんて、なんだか上から目線というか、大変偉そうで、とても僕には言えなかった。
夜間は2時間ごとに看護師さんが病室を巡回している。次に巡回の看護師さんが僕の病室にきた時に話をすればいい。そのときに、いま描いた図を出して状況を説明すれば分かってもらえるはずだ。結局、僕はそう決心した。
これでやっと僕を苦しめている冷気から解放される!
僕の心は浮きたった。
そうこうしているうちに、夜間の2時間置きの巡回で女性の看護師さんが僕の病室にやってきた。さっそく僕はその図を見せて看護師さんに説明した。
「・・・というわけで、空気ダクトの中で冷たい空気と暖かい空気が充分に混じり合っていないと思えるんです。その結果、このベッドの上の送風口から冷たい空気と暖かい空気が混ざらずに降りてくるんです。そして、冷たい空気は重たいのでベッドの上に溜まり、その周りに暖かい空気が溜まっているんです。それでいつもベッドに寝ていても寒いんです」
僕は看護師さんがこう言ってくれるものと思っていた。
「まあ、そういうことだったんですね。良かった! 原因が分かって! 朝になったら、すぐに病院の設備の人に連絡して調べてもらいましょう。その図をコピーさせてもらえますか? その図を設備の担当者に見せますので」
しかし、看護師さんは僕が期待したような反応はまったく見せてくれなかった。看護師さんはこう言った。
「でも病院の設備の点検でも、この部屋のエアコンは問題なかったんですよ」
そう言って看護師さんは病室を出て行った。僕は看護師さんが少なくともこの図をナースステーションに持っていって、コピーを取って病院の人たちに見せてくれるものと確信していた。絶対にコピーを取ってくれると思っていた。
しかし、看護師さんはコピーどころか、僕の描いた図にまったく関心を寄せてくれなかった。僕がやったように天井の空気の吹き出し口を手で調べてみることすらしてくれなかった。
僕はがっかりした。野球でホームランを狙っていたところに、ホームランボールがやってきたが、それを大きく空振りしてしまったような気分だった。
翌日、岸根医師がやってきた。僕は岸根医師にも図を見せて状況を説明した。具体的に、この辺に空気の壁が出来るんですよと位置を示した。僕は岸根医師ならば必ずや僕の描いた図をコピーして、病院の設備担当の人に見せてくれると思っていた。しかし今度も僕の期待は裏切られた。
岸根医師も昨夜の看護師さんと同様に、僕の描いた図にまったく興味を示してくれなかったのだ。また、天井の空気の吹き出し口に手を当てることもしてくれなかった。岸根医師が言った。
「そうですか。では、病院の設備の担当者に一度調べてもらいましょう」
僕は不満だった。
病院の設備の担当者に調べてもらうならば、僕の描いた図がいるはずだった。
だって何が起こっているのかが分からなければ調べようがないじゃないか。
そのためにも、僕の描いた図をコピーして担当者に見せてもらわないといけないのに。。。
それに、天井の空気の吹き出し口も調べてくれないなんて。。。
しかし、そんな僕の想いとは別に、岸根医師はそう言うと病室を出て行ってしまったのだ。岸根医師も僕の描いた図をコピーしたいとは一言も言ってくれなかった。僕は手の中に残った図を見つめて、一人でため息をついた。どうも、うまくいかない。僕はなんだか自分の周りに黒いもやが立ち込めだしたように感じた。
毎日11時には、二人の看護師さんが何か困りごとはないかと病室をまわって来る。僕はその二人の看護師さんにも図を見せて話をした。やはり反応はなかった。
「分かりました。岸根先生が病院の設備の人に話すと言っていたんですね。そういうことだったら、後は岸根先生にお任せしておけばいいでしょう」
そう言って二人の看護師さんは病室を出て行った。
僕は落胆した。
誰も僕の描いた図には見向きもしてくれなかった。誰も天井の空気の吹き出し口に手をかざすことさえもしてくれなかった。
誰も僕を相手にしてくれなかった。
どうして誰も僕の話を聞いてくれないんだろう?
どうして誰も僕の図をコピーしようとしてくれないんだろう?
どうして誰も僕がやったように天井の空気の吹き出し口に手をかざしてくれないんだろう。
誰もがみんな「それは私の仕事じゃありません」と言っているようだった。
僕にはみんなが「エアコンのことは病院の設備の担当者がいるので、その人に任せておけばいい。私が口を出すことじゃない」と言っているように思えたのだ。
僕は途方に暮れた。なんともやるせなかった。無念だった。自分の無力さに僕は打ちのめされた。
誰も話を聞いてくれない。
孤独感がひしひしと僕に迫ってきた。たった一人の病室で僕は孤独に打ち震えた。(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます