第19話 冷気が襲ってきた 2
僕は病室の明かりを点けてベッドで考え込んだ。
どう考えてもおかしい。エアコンの設定温度を上げると、ますます寒くなるなんて・・・・・一体、どうしたんだろう? この事態をどう考えればいいんだろう?
前回、まるで病室に幽霊でもいるようだと僕は書いた。でも比喩ではなくて、そのとき僕は本当にそう思ったのだ。よく幽霊に会って背筋がヒンヤリしたなんて表現が小説なんかに出てくるじゃないか。僕の身体は本当に少しヒンヤリしていたのだ。
僕は幽霊なんて見たことがなかった。しかし、『幽霊のようなもの』ならば、仕事でドイツに行ったときに一度写真に撮ったことがあった。僕が撮ったドイツの『幽霊のようなもの』の写真が僕の脳裏に浮かんだ。
僕は病室を見まわした。夜の病院は物音一つしない。しかし、僕の病室のトイレのドアや窓のブラインドの陰から、いまにも何かが飛び出してきそうだった。じっとしていると僕はなんだかおかしくなりそうだった。たまらず僕はベッドから立ち上がろうとした。じっとしているのが辛かったのだ。24時間点滴のチューブに繋がれてる不自由な身体だが、それでも何もしないでいるよりは少しでも病室の中を動きたかったのだ。
まず点滴液のポンプの電源をコンセントから外そうと思った。僕は点滴の簡易ラックに手をかけて、ゆっくり身体を起こした。そして、足をベッドから降ろして床に置いてあるスリッパに挿入した。次に、簡易ラックを持って小さく一歩だけ前に踏み出した。
そのときだ。おかしな感覚があった。周囲が急に暖かくなったような気がした。
あれっ? どうしたんだろう? 何だろう、この感覚?・・・
そうだ、もう一度試してみよう。
僕はその姿勢から逆に、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。そして、さっきと同じように点滴の簡易ラックに手をかけて、ゆっくり身体を起こして小さく一歩前に進んでみた。
やはり周囲が暖かい。どうしてだろう? なぜかその場所の空気が暖かいのだ! なぜ空気が暖かいんだろう? こんなことがあるのだろうか?
僕はベッドの周りを恐る恐る手で探ってみた。すると、驚くようなことが分かった。
ベッドから数十cm進んだところに、眼に見えない空気の壁が出来ていた。その壁より向こうは空気が暖かく、その壁の内側つまりベッド側では空気が冷たいのだ。すなわちベッドの上に冷たい空気があって、ベッドの周りには暖かい空気があるのだ。そして、冷たい空気と暖かい空気の境がちょうど空気の壁のようになっていたのだった。
よくSF映画や小説で「バリヤーを張る」というシーンが出てくる。敵の攻撃を避けるために自軍の基地や宇宙船の周りに眼に見えないシールドを作るというやつだ。ベッドの周りの空気の壁は、僕にその眼に見えないバリヤーを連想させた。
僕は空気を乱さないように注意しながら片手の袖をまくって、ベッドに座った姿勢で腕をゆっくりとベッドから空気の壁に突き出してみた。少し突き出すと・・・手の先に暖かさを感じた。空気の壁を手が超えたのだ。さらにゆっくりと腕を突き出した。腕を突き出すにつれて、その暖かさが手の先から腕に順々に伝わってきた。まるでSF映画の中でバリヤーに手を突っ込んでいるようだ。
もう間違いない。ここに、冷たい空気と暖かい空気の壁があるのだ。
でもどうしてこんな空気の壁ができたんだろう?
僕はベッドにひっくり返って上を見上げた。ベッドの上の空気の吹き出し口が見えた。
前にも書いたように、エアコンの風はベッドの真上から噴き出している。僕のようなAPL(急性前骨髄性白血病)の入院患者は、ほとんどの時間をベッドで寝て過ごすことになる。そして、その患者は血液中の白血球が減少しているので、菌を含んだ外気に触れないようにしなければならない。つまり、その患者が最も外気に触れないようにするために、ベッドの真上からベッドに向かって新鮮な空気を送風しているのだ。
僕の本業はエンジニアだ。ベッドの上の吹き出し口を見上げながら、僕はエンジニアの視点でこの現象を考えてみた。
はて、ここの病室のエアコンの空気は一体どこからきているのだろうか?
恐らくどこかでフィルターを介して外の空気を吸い込んで、病室のこの吹き出し口から吐き出しているのだろう。しかし、そのままでは外気温の冷たい空気が吐き出されてしまう。それでは、その吐き出す空気の温度調節はどうしているのだろうか?
仮定だが、ひょっとしたら吸い込んだ外の冷たい空気を二つに分けて、その片方だけをヒーターで暖めているのではないだろうか? つまり、空気の流れは暖められた空気と外気のままの冷たい空気の二系統あるのではないだろうか? そして、吹き出し口の温度がエアコンの設定温度になるように暖められた空気と冷たい空気の流量を変えて、空気ダクトの中で両者を混合しているのではないだろうか?
このシステムならば、普通は暖められた空気と冷たい空気は充分に混合されて吹き出し口から出てくることになる。この場合は、吹き出し口から出てくる空気の温度はエアコンの設定温度と同じになるはずだ。
しかし、何かの理由で、暖かい空気と冷たい空気が充分に混合していないとするとどうなるだろう?
暖かい空気と冷たい空気では比重が異なる。冷たい空気の方が重いのだ。このため、両者は交じり合わず、暖かい空気の層と冷たい空気の層に分離して空気ダクトの中を流れることになるはずだ。そして、その分離した状態で吹き出し口から吐き出されたとすると・・・冷たい空気は重たいのでベッドの上にそのまま落下し、暖かい空気は冷たい空気の周りを落下するはずだ。
これによって、ベッドの上には冷たい空気が滞留し、ベッドの周囲には暖かい空気が滞留することになる。こうなると、空気の壁ができることになるではないか。
そうだ。こう考えるとこの奇妙な現象の説明がつくのだ。
僕は思わずベッドの上に半身を起こした。
そうだ、確かめてみよう。
僕はベッドの上にゆっくりと立ち上がった。ベッドの上で僕の身体がガタガタと揺れた。本当は点滴の太い針を胸に刺したままなので、そんな危険な行為はやるべきではない。もし、どこかに倒れでもしたら大けがにつながるのだ。しかし、僕は確かめずにはいられなかった。僕はそっと手をベッドの上の空気の吹き出し口に差し出した。吹き出し口の真ん中は冷たかった。そして、その周囲は・・・暖かいのだ。
やった。思った通りだ。
これで間違いなかった。ベッドに寝ていてあんなに寒いのは、冷たい空気と暖かい空気が交じり合わずに、吹き出し口から吐き出されていたことが原因だったのだ。これによってベッドの上には常に冷たい空気が降りてきていたのだ。エアコンの設定温度を上げると暖かい空気の流量が増加する。しかし、ベッドには冷たい空気しか降りてこないので、いくら設定温度を上げてもベッドの上が暖かくならなかったのは当然のことだったのだ。
また、専門的になるが、エアコンの設定温度を上げて暖かい空気の流量が増加した場合、一般にその流量が増加しすぎる現象が起こる。いわゆる『行き過ぎ量』が生じるのだ。『行き過ぎ量』が生じると、エアコンの制御システムは、次に冷たい空気の流量を増加させて設定温度に合わせようとする。これを繰り返して設計温度に落ち着くのだ。僕が設定温度を上げたときによけいに寒くなったと感じたのは、このように制御システム上、冷たい空気の流量が一時的に増加したためだったのだ。
こう考えると、すべて説明がつく。
前にいた803号室ではこんなことはなかった。きっと、805号室だけが冷気と暖かい空気の混合が悪いのだ。
これで、やっと原因が分かった。これで夜間にベッドが寒い状態から解放される。このとき、僕は心の底からそう信じていた。(つづく)
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