第17話 点滴治療が始まった 2

 僕がベッドに横になると、岸根医師は小さい注射器を取り出した。


 「麻酔を打ちます。ちょっと痛いですよ」


 そう言って、岸根医師は僕の右の乳首の上を麻酔を打つために消毒した。入院前に僕は骨髄こつずい穿刺せんし検査を受けて、その際に背中の背骨の横に麻酔を打たれた。今度は乳首の上だ。麻酔の注射は経験済みと言っても、普段注射など絶対に打たないところに注射を打たれるのは緊張する。


 天井を見ている僕の顔に岸根医師が布をかけた。僕の眼の前が布でふさがれた。なんだか死んだ人みたいだ。次の瞬間、右の乳首の上にピクリと痛みが走った。しかし、すぐに痛みは消えた。


 「これから針を血管にゆっくり入れていきます。何かあったら言ってください」


 岸根医師の声が聞こえた。同時に胸に何か太いものが挿入される感触があった。それきり感覚がなくなった。


 あんな太い針が身体の中に挿入されているのか! 僕は不思議に思った。


 処置をしている間、岸根医師は僕にさかんに話しかけてきた。その内容は病気のことではなく雑談だった。僕の気を紛らわそうとし、かつ自分も楽しもうという雑談のようだった。そのお陰で僕の恐怖心はいつの間にか消えていた。


 20分ほどで点滴の針を取り付ける処置は終わった。岸根医師が僕の顔の布を取ってくれた。僕の胸には太い針が刺さっていた。岸根医師が針を絆創膏のようなテープで固定した。横を見ると女性の看護師さんが点滴液を準備していた。岸根医師の声がした。


 「今準備しているのが抗がん剤の点滴液です。この針のチューブは二股に分かれていますので、同時に2種類の点滴ができます。この後に、抗がん剤と同時に吐き気止めの点滴をします。吐き気止めの点滴は30分ほどで終わりますので、その後は抗がん剤の点滴だけになります。抗がん剤の点滴液は12時間でなくなりますので、1日に2回交換します。今が午前10時ですから、これから午前10時と午後10時に抗がん剤の点滴液を交換していきます。そのときに合わせて、もう一度吐き気止めの点滴をします」


 「先生、ということは、僕は24時間ずっと抗がん剤の点滴をしているということですか?」


 僕は点滴というと30分ぐらいで終わるものと思っていた。どうもそうではないらしい。


 「ええ、そうです。この点滴は約3週間ぐらいは続けることになります。患者の中には、ずっと点滴のチューブが身体につながったままなので、鎖につながれた犬みたいだという人もいますが・・まあ、不便ですが我慢してください」


 看護師さんは車輪付きの移動式簡易ラックに点滴液をセットしていた。それを見ると、点滴のプラスチックの袋からチューブが出ていた。そのチューブは簡易ラックについている小さな四角い装置につながっていた。その装置からは電気のコンセントが出ていた。看護師さんがコンセントを壁の電気プラグに差し込んだ。


 次に、看護師さんがその装置から出ているチューブの先を僕の胸の針につないだ。

 

 看護師さんが小さな四角い装置についているスイッチを入れると、ウィーンとかすかな音がして点滴液がチューブの中を流れだした。


 僕は小さな四角い装置を指さして岸根医師に聞いた。


 「先生、これは何ですか?」


 「それは点滴液を体内に送るポンプです。12時間で点滴の液が無くなるように流量がセットされています。それにそのポンプには点滴液が流れているかどうかをチェックする機能も付いているんです。この機能によって、寝ているときなんかにチューブが身体の下になって点滴液の流れが止まったときはアラームが鳴るんです。もし、アラームが鳴ったらナースコールをしてください」


 「先生。さっき言われた吐き気止めの点滴というのは?」


 「この抗がん剤の点滴をすると吐き気に襲われます。その吐き気を抑える薬を点滴するのです」


 「吐き気ですか?」


 「ええ、そうです。それで吐き気がくると食欲が無くなると思いますが、絶対に無理をして食べたり飲んだりしないようにしてください。時々、病気なので、食べて元気をつけないといけないと言って無理して食事をとる人がいますが、食事をしても吐き気が強くなるだけですので、絶対に無理をして食べないでください」


 「すると、患者の皆さんは食事を全然とらないのですか?」


 「もし食べられるならば、看護師やヘルパーさんにカップ麺とか売店で売ってるプリンやゼリーなんかを買ってきてもらって食べてください。それだけで結構です。決して無理をしないでください」


 岸根医師は何度も無理はしないようにと念を押した。


 「はい。わかりました」


 「いまは吐き気止めの薬が開発されて、これでもずいぶん患者さんも楽になったんですよ。昔は、白血病の患者さんはベッドの横に洗面器を置いておいて、四六時中、げーげーと吐いていました」


 「・・・・・」


 「昔のテレビドラマや映画を見ると、白血病の患者さんがしょっちゅう口を押えて吐き気に耐えていたり、洗面器に吐いたりしているでしょう。昔は本当にあんな状況だったんですよ」


 「・・・・・」


 「ただ、今でも感じやすい人は、看護師が病室でこの点滴液を準備しているのを見ただけで吐きそうになる人もいます」


 「・・・・・」


 「だから決して無理をしないようにしてください」


 そう言われたら、そんなテレビドラマを見た気がした。そんなに吐き気がひどいのか・・・・僕の気持ちが重く沈んだ。


 点滴液が僕の身体の中に流れ込んでいるのを確認すると、岸根医師と看護師さんは病室を出て行った。


 その日から吐き気との闘いが始まった。


 その日は特にどうということもなかったが、僕は翌日から軽い吐き気に襲われた。ただ、トイレに行って吐いたりすることはなかった。そこまでではなかったのだが、一日中わずかな吐き気が消えなかったのだ。

 

 わずかな吐き気でも、僕は食事を食べることができなかった。身体が受けつけないのだ。僕は岸根医師が言ってくれたように、ヘルパーさんにお願いして、病院の1階にある売店でゼリーやプリンを買ってきてもらった。それを一つ食べるので精一杯だった。一日にプリンひとつだけという日もあったし、一日中まったく何も食べない日もあった。


 そして、僕は病室から出るのを禁止された。点滴液で白血球だけでなく赤血球や血小板の数がどんどん減少していくのだそうだ。このため身体が無防備になって、外部の菌にさらされるとたちまち菌に侵されてしまうことになるためだった。


 こうして僕は常に部屋の中から外に空気が流れている特殊な病室の中で、ずっと一日を過ごさなくてはならなくなったのだった。


 病室の中は点滴のラックを動かしながら、自由に動いていいと言われていた。しかし、点滴のラックにはポンプがついている。そのポンプの電源コードは常に壁のプラグに差し込まれていて、ポンプが一日中稼働していた。ポンプから出るチューブは僕の胸の針につながっている。つまり、点滴セットを介して、僕はまるで壁にひもでつながれているような状態だったのだ。岸根医師が「鎖につながれた犬」という患者の言葉を紹介してくれたが、本当にその通りだった。僕はまさに鎖でつながれた犬になった気分だった。


 このため、病室の中を移動するときは、一旦ポンプの電気コードを壁のプラグから抜いてポンプを止めて、簡易ラックに電気コードを巻きつけて、それから手でラックを押しながら動かねばならなかった。僕は病室から出るのを禁止されたと書いたが、そんな有様なので、そもそも、とても病室を出て廊下を歩きまわれるような状態ではなかったのだ。


 病室の中を移動すると言っても、動くのは部屋の隅にある冷蔵庫に買ってきてもらったゼリーやプリンを入れたり、あるいはそれらを出したりするときと、トイレに行くときぐらいしかなかった。僕は一日中ベッドの上で過ごした。永遠に続くような軽い吐き気に悩まされながら。。。


 不自由な生活が始まった。(つづく)

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