第16話 点滴治療が始まった 1

 入院して最初の治療は投薬だけだった。前に書いた「ベサノイド」という薬だ。そして僕は一日おきに血液検査を受けていた。


 血液検査の結果は順調だった。白血球の数はゆっくりではあったが、少しずつ増加していった。入院して約1カ月すると、正常値の少し下というところまで回復した。僕は岸根医師から少しずつ白血球が増えているという話を聞くのが楽しみになった。


 また、ひざの半月板損傷も順調に回復した。僕が半月板損傷になったのは入院して1週間ほど経ったときだった。こちらは約3週間すると、車椅子なしに松葉づえで病院の廊下を歩けるようになった。さらに1週間経つと、ゆっくりだったら松葉づえなしで動けるようになった。


 僕はうれしかった。すべてが順調にいっているように思えた。


 入院して約1カ月経った金曜日だ。朝、病室にやってきた岸根医師が血液検査の結果を僕に告げると唐突に言った。


 「もういったん退院していいでしょう」


 岸根医師の突然の宣言に僕は驚いた。退院というのは、もっといろいろと手続きがあるものと思っていたのだ。


 「えっ、退院ですか? もういいのですか?」


 「ええ、治療はまだまだ続くのですが、前に言ったように保険の関係で、約1カ月ごとに一旦退院して、少し自宅で休んでから再度入院していただくことになります。白血球がここまで回復したら、もう一旦退院してもいいでしょう」


 「そうですか。皆さん、一度退院してから再度入院するまで、どのくらい自宅で休むのですか?」


 「人によっていろいろですが、だいたい1週間ぐらい自宅にいて、それから再入院されます。中には退院の翌日に入院する人もいますよ。どのくらい休まれますか?」


 僕はすぐに答えられなかった。僕はどれくらい休むかということを今まで考えたことがなかったのだ。


 「えーと・・・・・そうですねえ・・皆さん、1週間ぐらい休むんだったら、僕も1週間休みましょう」


 「わかりました。それでは1週間後に外来の予約を入れておきます。1週間後にまず外来を受診していただいて、それから再度入院してください」


 「先生。半月板はずいぶんよくなりましたが、念のため病院の松葉づえをお借りできますか?」


 「ああ、いいですよ。担当の看護師に言っておきます」


 というわけで、急に退院が確定した。僕の心は浮きたっていた。まるで、遠足の前の日のように心が弾んでいた。だって、1カ月ぶりの娑婆なのだ。


 僕はすぐに妻に電話した。妻は驚いたが喜んでくれた。そして1時間もすると病院に来てくれた。

 僕たちはお世話になった看護師さんにお礼を言って病院を出た。僕の眼の前に明るい午前中の陽に浮かぶ街があった。街が輝いて見えた。


 僕は1週間自宅で静養した。1週間はあっというまに過ぎた。


 1週間後、僕は妻と再び病院に行った。外来で診察を受けて、そして入院の手続きをした。1カ月前の入院のときには不安で心が震えていたが、今度は慣れたものだった。岸根医師は次の治療について、あまり詳しい話はしてくれなかった。後でわかったのだが、患者はどうしても次にどんな治療をするのかを聞きたがる。このため、あまり詳しく説明すると、空想が膨らんでかえって不安になってしまうのだそうだ。


 看護師さんに連れられて病室に行くと・・・病室が変わっていた。前は803号室だったが、今度は805号室だった。看護師さんが言った。


 「退院されている間に前の803号室に患者さんが入ってしまって。それで、今度は805号室になりました。何か問題はありますか?」


 僕に不服があるはずもない。僕は言った。


 「いいえ。805号室でまったく問題はありません」


 後に僕はこの言葉を悔やむことになる。しかし、この時点では病室はすべて埋まっていて、僕が805号室は嫌だと言っても、どうしようもなかったのだが。。。


 805号室も今までいた803号室と同じ特殊な病室だった。室外から細菌が侵入しないように、空気が常に室内から室外に流れているのだ。室内には、お風呂とトイレが備えられている。805号室の方が803号室より少し狭かった。しかし、どうせベッドの上で寝ているだけだ。狭いのはまったく気にならなかった。


 病室に荷物を置くと、看護師さんが僕と妻に言った。


 「今日中にお風呂に入っておいてください。明日から点滴治療になりますので」


 僕は聞いた。


 「点滴治療になると、もうお風呂には入れないんですか?」


 「いえ、点滴の針を刺している部分に防水用のテープを貼って、お風呂にはいれますよ。ただ明日は点滴の針を刺すのでお風呂には入れません。だから、今日中に入っておいてください」


 僕は看護師さんに言われるままにお風呂に入った。まだ右足が不自由な僕を妻がサポートしてくれた。僕がお風呂から出て着替えると、妻は帰っていった。


 「さあ、第2ラウンドだ」


 僕は自分に言い聞かせた。


 翌日、岸根医師が病室にやってきた。


 「ひざがまだ完全ではありませんので、処置室ではなく病室で点滴の針をセットしましょう。この針を胸の血管に刺すのです。ベッドに横になってください」


 岸根医師はそう言って、太い針を取り出した。針は数mmの口径があった。


 「あんな太い針を身体に刺すのか?」


 僕は脅えた。(つづく)

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