第14話 病院の長い一日 2

 ここで、ちょっと横道にそれるが、僕が飲んだ商品名「ベサノイド」という薬に触れてみたいと思う。


 もちろん、僕はこんな薬の名前など聞いたことがなかった。以下は岸根医師から聞いた話だ。


 この「ベサノイド」という薬は僕がかかったAPL(急性前骨髄性白血病)の特効薬だった。僕はこの話の冒頭に、大学病院の先生から病名を聞かされたときに、すぐにパソコンで死亡率を調べた話を書いた。そのとき、調べた結果では生存率は40%程度だった。岸根医師の話では、この生存率は「ベサノイド」が開発されて、大幅に改善されて40%になったのだという。


 「ベサノイド」というのは、ビタミンAの一種だ。ビタミンAと言っても、野菜に含まれているものではなくて、もっと特殊な活性の強いビタミンAだそうだ。そして、「ベサノイド」が開発される前は、APLに掛かった患者さんは血液が固まらなくて困っていたという話を聞いた。怪我でもしたものなら、いつまでも血が出続けて大変だったという。このため、昔はAPLが白血病の中でも特別厄介な病気として有名だったそうだ。


 岸根医師は僕にこう言った。


 「この『ベサノイド』という特効薬ができてから、APLの治療がほんとに楽になりました。APLというのは『あっぱれ』という語の略語とも読めるでしょう。この薬ができてから、私たち医師はAPLをジョークで『あっぱれ』とも呼んでいるんです」


 昔の患者さんには誠に申し訳ないが、僕は「ベサノイド」ができてからAPLにかかって本当によかったと思った。

 注射をした後の血が止まらない、ちょっと擦りむいたら血が止まらない・・考えただけでそんな病気は嫌だ。


 では、「ベサノイド」がAPLの特効薬ということなら、「ベサノイド」を服薬していれば、それだけで治療は終了してしまうのだろうか? もし、そうなら、服薬だけで済むのだ。こんな楽なことはない。


 僕はさっそく岸根医師に聞いてみた。なぜか、岸根医師は明確な返事をしなかった。


 「いまの『ベサノイド』の投薬治療が約1カ月続きます。その後、3回に分けて、化学治療になります。化学治療では抗がん剤を点滴します。APLの治療にはいくつものパターンがあるのですが、これが一つの典型的な治療パターンです」


 岸根医師はそれ以上言わなかったし、僕もそれ以上質問しなかった。岸根医師が明言を避けた意味は後で明らかになる。


 話を戻そう。


 病院の長い一日の話だ。


 前回、朝食が終わって、朝8時半ごろに看護師さんが「ベサノイド」を2錠持ってきてくれるというところまで書いた。


 9時になると、看護師さん二人がペアになって、定時の診察にやってきた。ここでは、血圧を測って、必要があれば体温を測るように命じられた。看護師さんの手元には記録表のようなものがあって、そこには僕の採血の結果や、食事の内容や、食事で何を完食して何を残したのか、あるいは例の便の状況・・といったことが、こと細かく書かれていた。看護師さんはその記録表を見ながら、血液検査の結果を伝えたり、僕に問診をするのだ。

 問診でも便のことは執拗に聞かれた。

 あまりに便のことばかり聞かれるので、あるとき、僕は女性の看護師さんに笑いながら言った。


 「いつも、便のことばかり聞かれるんですけど・・ここは病院で、僕は入院患者なので、それはよく分かるんですが・・普通、人は便のことなんか、あまり気にしないでしょう。僕は今日の便の色は何色だったかとか聞かれても、思い出せず、分からないときが結構ありますよ」


 看護師さんも笑った。


 「そうですね。私も仕事だからこうして患者さんに聞いてますけど・・私も今朝の私の便の色が何色だったか聞かれても困りますね。色なんて、いちいち覚えていませんものねえ。まあ、ここは病院ですから我慢してください」


 看護師さんたちはだいたい10分ぐらい病室にいて、別の病室に移っていった。


 それから月・水・金曜だったら、看護師さんが帰ると、岸根医師が来てくれた。岸根医師は10分ぐらい僕と雑談をすると、別の患者さんのことろへ行った。


 すると、毎日だいたい9時50分ぐらいに、掃除をしてくれるヘルパーさんが病室にやってくるのだ。実はその病院の8階には掃除をしてくれるヘルパーさんが何故か二人いて、最初の一人は9時50分ごろ、次の一人が10時半ごろに病室にやってくるのだった。二人のヘルパーさんは病室内のそれぞれ別のところを掃除してくれて、やはりそれぞれ10分ほどして帰っていくのだ。


 僕は岸根医師に、どうして掃除の人が二人いるのですか?と聞いたことがあった。岸根医師の答えは、「いや、病院の雇用の関係で、二人の人に掃除をしてもらっています」というものだった。

 

 なんだか、複雑な病院の労使関係を見るようで、僕はつまらない質問をしたことを後悔した。


 さて、僕は白血球の数が大幅に減少しているので、外から菌が入らないように室内がプラス圧になっている病室にいることは既に書いた。すなわち、空気の流れが常に室内から室外へと流れるようになっていた。

 言い換えると、僕の病室の中には常にエアコンから風が吹いているのだ。

 掃除の二人のヘルパーさんは、そういう規則なのだろうが、掃除のときはいつも室内の風の風量スイッチを操作して、風量を最大にアップしていた。


 このため、掃除の間はゴーというものすごい音がして、強い風が病室内に流れるのだ。実は、このときはどうということはなかったのだが、やがて、この風が僕を苦しめることになる。

 

 さて、二人のヘルパーさんが相次いでやってきて掃除をしてくれると、もう11時近くになっている。


 11時になると、看護師さんが二人ペアで病室にやってきた。この二人は診断ではなく、入院患者に何か困っていることはないか、何か不便なことはないかといったことを聞いて回るのが仕事だった。

 この二人の看護師さんは、いつも5分ぐらい話して病室を出て行くのだ。


 以上書いたように、朝食の後の8時ごろから、この二人の看護師さんが部屋に来てくれる朝の11時ごろまでは、頻繁に人が病室に出入りしていることになる。この午前中の時間帯が実は僕にとって一番忙しいのだ。病院にいるのにおかしな話だが、この時間帯は次から次へと人がやって来るので、僕はトイレもゆっくりいけなかったのだ。


 そして、11時半ごろになると、もう昼食の準備で廊下が騒がしくなってくる。


 昼食は和洋の違いはなく、病院のメニューの一品だけだ。朝食と同じように僕は看護師さんやヘルパーさんに食事を運んでもらった。


 前回、僕はお医者さんや看護師さんから「病院だからゆっくりして休んでください」とよく言われると書いた。しかし、病院の午前中はこのように実に忙しいのだ。とても午前中に「ゆっくりして休む」ような時間はなかった。


 昼食が済んで、昼からの定期診察が終わると、僕はやっと一息付けるのだった。(つづく)

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