第12話 歩けなくなっちゃった 4
主治医の岸根医師も僕に気を使ってくれた。
岸根医師は毎週火曜日と木曜日が外来診察だった。このため、火曜日と木曜日には、外来の診察が終わった午後3時ごろに自分が担当する入院患者をまわってくれた。
それ以外の月、水、金曜は午前中に各病室に顔を出してくれた。だいたい9時ごろに病室をのぞいてくれることが多かった。
岸根医師は土日が休みなのだが、土曜日はよく午前中に出勤していた。そんなときには、土曜日でも僕の病室にも顔を出してくれた。土曜日の午前中に顔を出してくれた時には、僕と二人で話し込むことも多かった。
そんなとき岸根医師と話すのは、半分が病気の話だが、残りの半分はどうでもいい雑談だった。
半月板損傷になって最初の土曜日だ。
10時ごろに岸根医師が病室にやってきてくれた。
話題はどうしてもひざの半月板損傷のことになった。どうして、こんなことになったのだろうという話だ。僕は岸根医師には、Aさんのことを詳しく話していなかった。いままでドタバタして、それどころではなかったのだ。僕は一番気になっている、Aさんが僕に施した「右足の蹴り上げる力の測定」について詳しく話をした。
「・・というわけなんですよ。僕は、Aさんがどうして充分な測定値が出ているのに『もっと、もっと、もっと強く』と繰り返したのかが分からないんですよ。あれから数日して、ひざに違和感を感じました。その夜、急に熱が出て、ひざが痛くなったんです。Aさんには悪意はないのですが、僕にはどうしても、Aさんにやらされた『右足の蹴り上げる力の測定』でひざを痛めてしまったように思えるんです」
岸根医師は真剣に僕の話を聞いてくれた。
それから、岸根医師は整形外科の夏木医師にも問い合わせてくれたが、夏木医師が言うには、Aさんにやらされた『右足の蹴り上げる力の測定』が半月板損傷の原因かどうかは分からないということだった。
それはそうだろうと僕は思った。夏木医師はあの運動を見ていないのだ。もっとも運動を見ていたとしても、運動直後に何らかの検査をしなければ因果関係は分からないのだが。。。
しかし、僕は生まれて初めての半月板損傷の理由が知りたかった。だって、原因が分からないならば、また再発の危険があるわけだ。もうこんなしんどい思いはこりごりだった。APL(急性前骨髄性白血病)より、半月板損傷の方が大変だったのだ。そのためには何としてでも原因を知りたいと思った。もし、Aさんがやらせた運動が原因ならば、あの運動さえ繰り返さなければ再発を防げることになるはずだ。
岸根医師は理学療法士のAさんや、Aさんの上司に当たる人にも話をしてくれた。すると意外にも岸根医師を介して、Aさんとその上司が僕に説明をしたいと言ってきたのだ。
僕は軽い気持ちでその話を了承した。
二三日した午後に、Aさんとその上司の人が僕の病室にやってきた。岸根医師も一緒だった。
僕はAさんにやらされた『右足の蹴り上げる力の測定』が半月板損傷の原因ではないかと推測を述べた。もとより、証拠や根拠があるわけではない。ただ、あの運動をしてから数日たってひざがおかしくなったというだけだった。
僕はAさんを追求する気はまったくなかった。Aさんに悪意があったとはまったく思っていなかった。僕はただ原因が知りたかっただけなのだ。
しかし、そのとき話は意外な展開を見せた。
Aさんとその上司の人が猛然と僕に反対したのだ。あのとき、Aさんにやらされた『右足の蹴り上げる力の測定』が半月板損傷の原因になることは絶対にありえないと言うのだ。
さらに、「半月板損傷は普通に歩いていてもなります。きっと、歩いているときになったんでしょう」と彼らは主張した。
この話はおかしいぞと僕は思った。普通に歩いているだけでも半月板損傷が起こるのならば、Aさんにやらされたあの激しい運動ならば、半月板損傷はもっと高い確率で起こるはずではないか。
普通に歩いていると半月板が損傷することがあるが、あの激しい『右足の蹴り上げる力の測定』で半月板が損傷することは絶対にないというのは全く理屈が通らない。
ただ、僕はそれ以上話を続けるのを止めた。彼らの言っていることは理屈ではなかった。彼らは絶対に自分たちの責任ではないということを強引に主張しているだけなのだ。僕が期待していた半月板損傷の原因を探るという話をしているのではなかったのだ。僕はAさんを犯人にして追求する気はなかった。これ以上、彼らと話しても無駄だった。
結局、半月板損傷が治って、痛みを感じなくなるまで約1カ月かかった。
半月板損傷になった原因は未だに不明である。
この話には後日談がある。
僕はAさんが、『右足の蹴り上げる力の測定』でいい測定値が出ているのに、どうして「もっと、もっと、もっと強く」とあんなに僕に無理をさせたのか、本当に不思議だった。僕の直感が正しければ、Aさんが僕に無理をさせなければ、僕は半月板損傷にならなかったのだ。
だいぶ後になって、僕は理学療法に詳しい女性に会った。そして、その人にどうして理学療法士のAさんが「もっと、もっと、もっと強く」とあんなに無理をさせたのか不思議に思うと話した。その女性はこう言った。
「理学療法士が相手する患者さんの中にはかなり年配の人もいます。そんな年配の人の中には体力測定をしても全然力を入れない人がいるんです。こんなとき、理学療法士は『もっと、もっと、もっと強く』といった声を掛けることがあります。たとえば、肺活量を測定していても、年配の人は強く息を吸ったり吐いたりしないので、測定器の数値がまったく動かないことがあるんです。そんなときには、『もっと、もっと、もっと強く』といった声を掛けるとやっと数値が出て測定できることがあるんです。ひょっとしたら、その方は、いつも年配の人のトレーニングをやっていたので、そのように声を掛けることが習慣になっていたのかも知れませんね。そうなると、理学療法士は、そんな声を掛ける必要のない人にも、ついそんな声を掛けてしまうことがあるんです。それで、その人は、あなたのような声を掛ける必要のない人にまで『もっと、もっと、もっと強く』と声を掛けてしまったのかも知れません」
そうなのかもしれないと僕は思った。もしそうならば、上司と病室にやってきたとき、「実は誰にもそんな声を掛けることにしているんです」とひとこと言ってくれれば、僕はこんなに迷わなくて済んだのだ。
しかし、Aさんはそうしてくれなかった。ちょっぴり残念だ。
Aさんがどうしてそんな声を掛けたのか、いまだ謎である。(つづく)
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