第10話 歩けなくなっちゃった 2

 理学療法士のAさんに体力測定をしてもらってから数日経った。


 僕は廊下を散歩していた。Aさんから理学療法のレッスンがないときでも、できるだけ散歩するように言われていたからだ。


 僕はいつものように、マスクをして8階の廊下をゆっくりと歩いた。歩き始めて、少ししたときだ。右足のひざになんだか不思議な感覚を感じた。まるで、ひざの中に何か異物が挿入されていて、その異物が歩くたびに筋肉や骨とこすれるような感じだった。ひざから伝わる、ほんのかすかな感覚だったが、こんな感覚は初めてだった。


 僕はあまり無理をしない方がいいなと思った。理由はない。直感だった。僕は急いで廊下の散歩をやめて病室に戻った。そして、その日はそれからベッドに寝っ転がって、だらだらと過ごした。


 その日の夜のことだ。


 ここは病院なので、一日に何回も体温を測らなければならない。体温を測る時間は決まっている。看護師さんが定期的に巡回に来るので、そのときに測った体温を申告しなければならなかった。うっかり測定を忘れた場合は、巡回の看護師さんの眼の前で体温を図らされた。


 さて、その日、僕は夜の7時半ごろに体温を測った。看護師さんが毎日夜8時から巡回に来るのだが、その日はなんだか熱っぽいので早めに体温を測ったのだ。37度5分あった。入院してからずっと平熱が続いていたので、熱が出たのはその夜が初めてだった。37度5分ならばそんなに高熱という訳ではない。しかし、僕は看護師さんから37度5分を超える熱が出たらナースコールするようにと指示されていた。


 僕はナースコールして体温が37度5分あった旨を伝えた。当直の看護師さんからは「すぐに行きます」という返事が返ってきた。

 看護師さんがやって来るまでのわずかな時間、僕はベッドに横になっていた。


 そのときだ。


 僕は何気なくベッドから降りようとして足を曲げた。すると、右足のひざに激痛が走ったのだ。痛くて思わず口からうめき声が洩れた。それから、ベッドの上に起き上ろうとしたが、痛くてひざを折り曲げることができなかった。僕はそのままベッドの上でじっとしていた。じっとしていると痛みが少しずつ引いていった。しかし、足を少しでも動かそうとすると、再びひざに激痛が走った。


 僕は混乱した。僕は白血病で入院しているのだ。どうして足のひざに激痛が走るんだろう。白血病というのは、足のひざが痛くなるんだろうか? しかし、なぜ右足だけなんだ?


 僕が茫然としていると、女性の看護師さんが病室にやってきた。看護師さんが僕に言った。


 「入院して初めて熱が出たんですね」


 「ええ。それと右足を動かそうとすると、なぜかひざに激痛が走るんです」


 「えっ、ひざですか? いつからですか?」


 「たった今です」


 岸根医師はもう帰宅していたので、看護師さんが当直の医師を呼んでくれた。病院では緊急時や救急医療のために、夜は医師が交替で宿直をしている。その夜の当直の担当は消化器内科の若いお医者さんだった。お医者さんは僕の病室に来ると首をひねった。


 「白血病で足が痛くなったんですか? うーん、私には分かりませんので、明日、主治医の岸根先生に診てもらいましょう。今夜はとにかく安静にしていてください」


 特に診察をすることもなく、そのお医者さんは病室を出て行った。


 僕はベッドに横になったまま一夜を過ごした。身体を動かそうとすると、ひざに激痛が走るので、寝返りも打てなかった。身体が動かせないのと不安とで、その夜はよく眠れなかった。


 翌朝、岸根医師が来てくれた。岸根医師も「APL(急性前骨髄性白血病)で足のひざが痛くなることは絶対にありませんよ」と言って、首をひねっていた。それでも、岸根医師が言ってくれた。


 「とにかく、整形外科の先生に連絡しますので、後で診察に行ってください」


 少しして、整形外科から診察に来てくださいという連絡があった。しかし、僕は歩くことができなかった。やむなく、看護師さんが松葉づえを持ってきてくれた。松葉づえを使うのは、それが初めてだった。僕は看護師さんに付き添ってもらって、松葉づえでゆっくりと1階にある整形外科の外来に行った。


 整形外科の先生は夏木(仮名)という医師だった。夏木医師も僕のひざを見て首をひねった。みんな、首をひねっている・・ここは大きな病院なのに? 僕はなんだか不思議な気がした。


 すぐにレントゲンを撮ったが、それでも原因はよくわからなかった。僕は夏木医師に、Aさんの体力測定と昨日散歩のときに感じた右ひざの違和感を話した。Aさんには悪いが、僕はAさんにされた「右足の蹴る力の測定」が原因ではないかと疑っていたのだ。


 それでも夏木医師はまだ首をひねっていた。


 「レントゲンではどこも悪いところはないなあ。まあ、しばらく様子を見てください」


 その日は、僕は病室の中で松葉づえを使って生活した。もう散歩や、理学療法士のAさんの体力維持の運動どころではなくなってしまった。


 しかし、右ひざの痛みは回復しなかった。回復しないどころか、なんだかだんだんとひどくなるようだった。岸根医師が心配して夕方にも病室に来てくれた。僕が、痛みがひどくなっているような気がすると言うと、岸根医師が、また翌日にも整形外科の夏木医師の診察を受けるように手配してくれた。


 岸根医師が病室を出て行くと、一人の女性の看護師さんがやってきた。病院の車椅子を押している。


 「松葉づえで移動するのは大変でしょう。車椅子を持ってきましたが、乗れますか?」


 僕のためにわざわざ車椅子を持ってきてくれたのだ。僕はその看護師さんのやさしい心遣いに心から感謝した。


 さっそく、車椅子にゆっくりと乗ってみたのだが、車椅子というのは足を折りたたんで乗るようになっている。僕はひざが痛くて、とても足を折りたたむことはできなかった。足を伸ばして乗ると、伸ばした足を支えるところがないことが分かった。看護師さんは少し考えていたが、何に使うものか、足を支える金具のようなものを持ってきて、わざわざ車椅子に取り付けてくれた。


 本当に看護師さんの対応がありがたかった。僕は何度もお礼を言った。


 そして、翌日、僕はまた整形外科の外来に行った。親切な看護師さんが用意してくれたあの車椅子に乗って行ったのだ。僕は車椅子に乗るのも初めての体験だった。いままで、病院の中で車椅子に乗っている患者さんを数多く見てきたが、今度は僕が見られる側になったのだ。


 看護師さんに車椅子を動かしてもらって、僕が整形外科の診察室に入ると、夏木医師が眼を剝いて絶句した。


 「えっ、車椅子に乗っているのか!?・・・車椅子に乗る必要があるのか?・・・そんなにひざが痛いのか?」


 何ということだ。僕は昨日から「痛い、痛い」と言っていたが、夏木医師はレントゲンの結果を見て、僕の言葉を全く信用していなかったようだ。僕はおうむ返しに言葉を返した。


 「ええ。痛いんですよ」


 夏木医師が再び首をひねった。


 「よくわからんなあ・・・では、MRIを撮ろう」


 僕は約1時間かけてMRIの検査を受けた。MRI検査が終わると、僕は再び車椅子を押してもらって病室に戻った。2時間ぐらいすると、看護師さんが僕を呼びに来た。


 「夏木先生がMRIの結果を説明すると言われています。今から先生が8階に来られるそうなので、ナースステーションの横の処置室に来てください」


 短い距離だったが、僕はまた看護師さんに車椅子を押してもらって処置室に行った。処置室には夏木医師と岸根医師のほかに8階の主だった女性の看護師さんが何人か集まっていた。


 夏木医師がMRIの画像を出して、僕と岸根医師や看護師さんたちに詳しく画像を説明してくれた。正直言って、僕には夏木医師の説明は難しくてさっぱり分からなかった。

 しかし、説明の最後に夏木医師が言った。


 「・・というわけで、原因がわかりました。原因は右ひざの半月板の損傷です」


 僕は絶句した。えっ、半月板の損傷だって? 思わず、夏木医師に聞いた。


 「半月板の損傷? それで、先生。どんな治療になるんですか?」


 「治療方法はありません。自然に治るのをただ待つしか治療方法はないのです」(つづく)

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