第9話 歩けなくなっちゃった 1
前回、僕は基本的に病室の中に閉じこもって生活しなければならないこと、ただし入院の初期には短時間ならマスクをして廊下を歩くことが許されていたことなどを書いた。
そして、僕が入院して間もなく、岸根医師が僕にこんなことを言ったのだ。
「これから長く病室に閉じこもった生活になるので、どうしても運動不足になって、筋力が大きく低下します。このため、病院には患者の肉体的なトレーニングを行うことを専門とする理学療法士がいます。ご希望があれば理学療法士をつけますが、どうしますか? 私としては理学療法士の指導を受けてもらった方がいいと思います」
僕に特に異存はなかった。そうしなければならないのだったら、そうするしかない。僕は「お願いします」と答えた。岸根医師は明るく笑った。
「わかりました。では、明日から理学療法士に来てもらいますので、その指導を受けて定期的に運動をしてください」
翌日、理学療法士さんが病室にやってきた。20代の男性だった。理学療法士さんの名前をここではAさんとしよう。
Aさんは病室に来て自己紹介をすると、僕にこう言った。
「まず、あなたの今の体力を測定します。マスクをして廊下に出てください」
僕はAさんに言われるままに、マスクをつけて廊下に出た。その病院では、廊下の真ん中あたりにフリースペースのような場所があった。そこには、椅子と机がいくつか置いてあって、テレビもあった。Aさんは僕をそこへ連れて行くと、血圧や心拍数などを測定した。フリースペースにいた他の患者さんが僕たちを珍しそうに見ていた。
それから、Aさんは僕を廊下の一番端に連れて行った。
「この病院の廊下は直線で約100mあります。これから、私と一緒に廊下を何回か歩いてください」
僕はAさんと何度か廊下を往復した。歩きながらAさんが僕に言った。
「やはり、あなたは血球の数が少なくなっていますね。私と一緒に歩いていても、あなたは少し息が上がっていますが、私は少しも息が上がっていません」
確かに言われるように、僕は少し息が上がっていた。Aさんは平気なようだ。そうか、これが血球数が減少している影響なのか。僕は初めて自分の病気を具体的な症状として認識することができた。
それから、Aさんは僕に垂直に飛んでみてくださいといった、さまざまな運動の指示を出して、その都度心拍数などを測定して記録をつけていった。
最後に、Aさんは僕を廊下のフリースペースに連れてくると、空いている椅子を出してきて、僕に座るように言った。僕が座ると、Aさんがカバンから何かベルトのようなものを出してきた。
「もっと椅子に深く座って・・・椅子の背もたれに背中をつけてください」
僕がそのように座り直すと、Aさんは持っていた布ベルトで僕の身体と椅子の背もたれを巻いて、僕の背中を固定した。そして、僕の左足の足首と椅子の足にまた布ベルトを巻いて、左足を椅子の足に固定した。最後に、ちょっと違う形をした別の布ベルトを出してきた。その布ベルトを今度は僕の右足首と椅子の足に巻いて、右足首を椅子の足に固定した。
僕は背中と両足を椅子に固定された格好になった。まるで、椅子に縛り付けられたような格好だ。いきなり椅子に縛られて、僕はいったい何が始まるのかと驚いた。すると、Aさんが説明を始めた。
「この姿勢で右足を思い切り蹴り上げてください。右足の蹴る力を測定します」
そう言いながら、Aさんは電気のコードを右足に巻いた布ベルトに取り付けた。そして、コードを伸ばして僕の後ろにまわった。僕の後ろでAさんはそのコードを何かの測定機器にセットしているようだった。「ようだった」というのは、僕は身体を椅子に固定されていたので、まったく後ろを見ることができなかったからだ。そして、Aさんが僕に声を掛けた。
「はい。準備ができました。それでは、右足を思い切り蹴り上げて」
僕は言われたように椅子に縛られたままで、右足を蹴り上げようとした。右足は布ベルトで椅子に固定されている。僕はテコの要領でひざを中心にして、ひざから足先までを上に回転させようとした。しかし、足が布ベルトで縛られているので、布ベルトの中で、ほんのわずかに足首が動いただけだった。Aさんの声がした。
「もっと力を入れて。もっと強く蹴って」
Aさんは右足の蹴る力を示す計器を見ながら、僕に指示を出しているようだった。僕には全くAさんが見えないので、Aさんがどんな計器を見ているのか、またその計器がどんな値を示しているのか、僕にはさっぱり分からなかった。しかし、Aさんがそう言うのだ。僕の蹴る力が弱かったのだろう。
僕は力を入れて、もう一度右足を蹴り上げた。しかし、椅子に縛られた格好では力がでなかった。こんな体力測定は初めての経験だった。再びAさんの声が聞こえた。
「もっと力を入れて。もっと強く。もっと。もっと」
僕は力を入れた。しかし、それでも蹴る力は弱いようだった。Aさんの指示が続いた。Aさんの声がだんだん大きくなっていった。
「もっと強く。もっと、もっと、もっと力を入れて。もっと強く」
僕はこれでもかと蹴る足に力をこめた。Aさんが計器に頭を近づけて、数値を読んでいる様子が僕に伝わってきた。しかし、Aさんは許してくれなかった。Aさんの怒鳴り声が後ろから聞こえた。
「もっと強く。もっと。もっと。もっと強く蹴って」
僕はさらに力を入れた。それでもAさんはOKを出してくれなかった。怒鳴り声がさらに大きく激しくなった。
「もっと。もっと強く。もっと強く・・強く・・もっと・・もっと」
それから、僕が右足の力を入れる、Aさんが「もっと、もっと、もっと強く」と怒鳴る、という繰り返しがしばらく続いた。
僕は混乱した。こんなに右足に力を入れているのに、まだ蹴る力が弱いのか? まだ、OKが出ないのか?
すると、Aさんの怒鳴り声がした。
「これが最後。もっと力を入れて。もっと。もっと強く。強く。強く」
僕は椅子に縛られている身体をできる限りずらした。そして、椅子の手すりを両手でつかんで、右足に渾身の力を込めた。身体をねじりながら、といっても椅子に縛られているのでわずかに身体が動いただけだったが、思い切り右足を蹴り上げた。僕の右足が布ベルトを思い切り引っ張った。僕の顔が真っ赤になった。
僕は心の中で叫んだ。これでどうだ。これ以上の力はもう出ないぞ。
Aさんの声が背中で聞こえた。
「はい。終わりです。いやあ、すごい力ですね。すごくいい結果が出ています」
僕は正直「ええっ」と心の中で叫び声を上げた。いい結果? 蹴る力が弱かったんじゃなかったのか? それなのに「もっと、もっと、もっと強く」と怒鳴っていたのか?
これは競技会での体力測定ではないんだ。たかだか病院の中での、体力維持トレーニングの参考にするための体力測定に過ぎない。いい結果なんて出す必要はさらさらないはずだ! いくらなんでもやりすぎじゃあないか。
それにしても、そんなにいい測定結果が出ているのに、なぜAさんは「もっと、もっと、もっと強く」と執拗に言ったんだろう?
僕はそう思ったが口には出さなかった。いい結果が出たという言葉が僕に満足感を与えていた。
Aさんは僕の後ろで計器や電気のコードをカバンにしまっている様子だった。僕は数分間、椅子に縛られたままで放置された。正直言って、先に僕の身体を縛っている布ベルトを外して欲しかったのだが・・Aさんはそうしてくれなかった。しばらく、僕の後ろでガチャガチャという音が聞こえた。
それから、Aさんは僕の椅子のところに来て、やっと僕を縛っている布ベルトを外してくれた。このため僕は結局最後まで、Aさんが使っていた計器を見ることができなかった。僕の初めての「右足の蹴る力を測定する」体験はそれで終わった。
その日の体力測定はそれですべてが終了した。
僕が右足のひざにかすかな違和感を感じ始めたのは、それから数日したときだった。(つづく)
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