第7話 「つらいなあ おばさん」
僕の入院生活が始まった。
僕が入院した8階は全てが血液内科の病室だった。まっすぐな廊下が100mほど続いていて、廊下の両側に病室がずらりと並んでいた。廊下の中央にエレベーターとナーステーションがあり、その周りに事務室や処置室のような部屋が配置されていた。ナースステーションの斜め前が僕の803号室だった。
さて、今回からは入院中に経験したトピックスを書いていこうと思う。
今回はヘルパーのおばさんについてだ。
8階には看護師さんをサポートするヘルパーのおばさんが二三人いた。二三人と書いたのは、人数が常に変動していたからだ。
そのヘルパーさんの一人に僕は『つらいなあ おばさん』というあだ名をつけた。というのは、そのヘルパーさんが誰かの手助けをするときに、いつも手助けしている人に向かって「つらいなあ。つらいなあ」と言っているのを何度も目撃したからだ。どうも「つらいなあ。つらいなあ」と患者に言うのが、そのおばさんの口癖のようだった。
しかし、僕はあまりいい気はしなかった。だって、8階というのは全て血液内科の患者ばかりだ。ということは、僕を含めて全員が重篤な患者ばかりということになる。自分が重篤な病気だというのに、横から「つらいなあ。つらいなあ」と言われるとあまりいい気がしないではないか。。。
僕が入院してすぐのときだ。
僕は看護師さんからある検査に行ってくださいと言われた。検査に行くには、8階から1階に下りなければならない。そのとき僕は入院したばかりだったし、治療が薬を朝/昼/晩と1日に3回飲むだけだったので、まだまだ充分に元気だった。僕は一人で1階に行くつもりで、病室を出てエレベーターの方に歩いていった。すると、あの『つらいなあ おばさん』が僕の横にやってきた。おばさんが言った。
「手助けします」
僕は驚いた。
「いえ。ひとりで行けますから、大丈夫ですよ」
おばさんは少し考えたが、やがて言った。
「でも、規則なんで・・ついていきます」
そして、おばさんと僕はエレベーターの前に立った。おばさんが下に降りるボタンを押してくれた。それから、おばさんは僕の横で、僕の顔を見ながら念仏でも唱えるように何度も僕に向かってつぶやき始めたのだ。
「つらいなあ・・・つらいなあ・・・つらいなあ・・・つらいなあ・・・つらいなあ・・・つらいなあ」
僕は気が重くなった。僕は特にそのとき「つらい」とは感じていないのに、横で「つらいなあ。つらいなあ」と何度も言われるのだ。本当におばさんの言葉が僕に重ぐるしい念仏のようにのしかかってきた。
おばさんの胸には名札があって、△△と書かれていた。僕はたまらず、おばさんに言った。おばさんを傷つけないように軽く笑いながら。。。
「△△さん。つらいなあ、つらいなあと言うのが口癖になっていらっしゃいますよ」
おばさんは僕の言葉にハッとした様子だった。両手の手のひらを口にあてて、口を押えた。それから肩をすくめて、にが笑いした。少女のような仕草だった。そして黙ってしまった。
それから、僕にはそのおばさんは「つらいなあ」と言わなくなった。『僕には』と書いたのは、僕以外の人には相変わらず「つらいなあ。つらいなあ」と繰り返していたからだ。
しかし、ここまで、僕は『つらいなあ おばさん』を否定的に書いたが、おばさんの存在は必ずしも否定的なものだとは言えないようだった。
ある夜の8時ごろだったろうか。
僕はお茶が飲みたくなって病室を出た。エレベーターの横に自販機コーナーのようなところがあって、そこでお茶やジュースが買えるのだ。
ペットボトルのお茶を買って、僕は廊下を歩いてみた。岸根医師から「長期に入院すると、どうしても運動不足になって筋力が低下するので、できるだけ病院の中を歩いてください」と言われていた。ただし、病院の中といっても、歩くのは僕がいる8階の廊下だけにしてくださいということだった。僕は8階以外の階に勝手に行くことは固く禁止されていた。
まだ夜の8時といっても、夜の病院だ。ナースステーションに女性の看護師さんが二人いて何か仕事をしていたが、8階の廊下は僕のほかには誰も歩いていなかった。僕はまっすぐな廊下を一人、ペットボトルを持って歩き始めた。
少し歩いたときだ。
廊下の横から何か音が聞こえた。何だろう? 僕は立ち止まって、音の方を見た。そこは、病室と病室の間にあるリネン室のようなところだった。廊下から見るとリネン室の中が暗がりになっていた。その暗がりの中に、若い女性がいた。ネグリジェを着ているので入院患者だと分かった。女性は手で顔を覆って泣いていた。女性の横に、あの『つらいなあ おばさん』がいた。おばさんは泣いている女性の背中をさすりながら、「つらいなあ・・つらいなあ・・つらいなあ・・つらいなあ」と繰り返していた。
僕は急いで自分の病室に戻った。
僕があの若い女性だったら、泣いている横で「つらいなあ。つらいなあ」と言われるのには耐えられない。だが、あの女性はそんなに嫌そうではなかった。僕には女性が『つらいなあ おばさん』を受け入れているように思われた。
ただ、患者はみんな「つらい」状況にいるのに、患者に「つらいなあ。つらいなあ」と言うのはどうなのだろうか?
「つらいなあ」と言われることに、女性と男性で若干捉え方が違っているのかもしれないが・・・僕にはよく分からなかった。
僕は「つらいなあ。つらいなあ」と言うのは時と場合を考えてもらいたいなあと思うが・・・・・皆様はどのように思われるだろうか?(つづく)
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