第8話

 翻したスカートの裾をちぎる。

 「どうして?」

 久見木海名は呟く。

 僕は橋本有という、しがない男だ。もうい言ってもいいのかな、初恋の人なんだ、久見木海名は。だから、「好きだ。」そう伝える。25歳になった今、再会を果たした僕と、人妻。「私、もう結婚してるから。だから。」少し言葉を詰まらせて話す彼女は、非常に愛おしい。

 もう会ってしまったのだから、蘇ってきた諸々を伏せても、何もかも受け入れたい。そう思ってしまったのだから、きれいなものだけを選び取る。「あなた、一体なんて言うお名前なの?」だからそう語った彼女の顔は無垢だった。世の中には汚いものがはびこっている、そうだとしたら一体全体何を甘受すれば僕は幸せになれるのか、そんなことを考える。

 久見木海名は、壊れていた。

 久しぶりに会った、再会した初恋の人は、もう普通ではなくなってしまったらしい。どこで何があったのかは全く分からないが、分かるのは、彼女は全てを失っていて、たった独りぼっちだということだけ。

 騙されて、蔑まれても、気付かない。気付けない。

 一瞬平静になったかと思ったら、またどこか遠い世界へ行ってしまったみたいに、無垢に変化する。

 好きだ、全部が好きだ。壊れててもいい、ただ、傍にいてくれと、願う、いや、思う。この世の中の汚いものから、抜け出したような感覚、超越した幸福、ああ、これか。

 理想郷はいつも幻影でしかないと思っていたが、ああ、ああ、今確かにここにある。だから。

 だから僕は守らなくては、あなたのことを。

 ドラマの中で出てくるようなフレーズを心の中で口にする。味方なんていなかった僕らは、ただ惹かれあった。こんなことが現実にあるなんて、思いもしなかった、から、僕は今空を浮遊している感覚に陥る。ここは広い場所で、僕はその一部となる。吸収されているのだから、もう離れることはない。

 そろそろかな、現実の鐘が鳴り始めるのは。だって、僕たちは人の世界で生きていて、相互関係を排除して、独立するなんてことはできないから、だから、戻ろう。僕だけ、君は。あなたは、夢の中にもぐっていていい。僕が、守るのだから。

 思い出す。つと流れた彼女の涙を、なぜ、あんなに傷ついているのかと、嗚咽した自分を。

 理想郷は、創るしかない。そんなことを、漠然と決意する。

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