第2話
「ママ、行ってきます。」
そう呟いて出かける女子高生は、写真を見つめている。
多分、彼女の母親であろう。
そしてそう思うのは、この家のペットである私だ。私は、この家に10年前にやってきた。その頃は両親と娘の三人暮らしであったのだが、今は父と娘の二人暮らしになっている。
あの子の母親は、死んだ。
不運な事故だった。交通事故。この田舎町ではよくあることだった。車社会とは、ある意味怖ろしいものだ。
で、そもそも私は何なのかって、それは、小動物なんだけど、つまり、猫。言葉を覚えたのは、結構昔からで、私は世界を人間、彼らのルールで認識するのだ。
私は記憶があいまいで、人間の顔の識別が苦手なのだ。だから写真というものを見ても、視力の優れていない猫には到底理解できない。だが、においを覚えている。あの子の母親、
そう、そうなのだけれどね、あの冷たさも、はっきりと覚えている。一美はだって、私を抱いたまま死んでしまったのだから。
私をかばって、いやかばうように抱きしめて、死んでしまった。そしてその凄惨な光景を五感で記憶している私は、いつも死にたくなってくる。ああ、死ぬなら私でも良かったんじゃないかって、だが同時にひどく震えるのだ。現実の生々しさに、私は死にたくないって、そうやって。
最近、娘の海名はひどく憔悴している。
というか、母親を中学生の頃に亡くし、その時も激しくしぼんでいたのだが、今回はまた違った様子で、もう生気がない、と言った方が良いのだろうか。
そもそも高校一年生であり、母親を亡くしたから一年もたっていないというのに、またひどく落ち込んでいるということは、何かあったのではないのだろうか、と疑う。
私は、あの子には、海名にはただ元気でいてほしいのだ。小さい頃から見てきたが、非常に可憐で美しい娘だと思う。元々生まれ持った才覚なのか、何か彼女が成長していく上で、獲得したものなのか、はっきりとはしないのだが。
あの子の父親は、ずいぶん前から家に寄り付かなくなってしまった。それは海名の母が、妻が死んでからのことで、理由は分からない。ただ仕事、ということだ。そして私は憤る。だって、あんなに愛していたはずの妻が大事にしてきた娘なのに、なぜそんなに軽んじることができるのかって。思うに、あの男はそういうやつなのかもしれないということだ、きっと元々、見かけだけの愛であり、深い情などなかったのだろうと結論付ける。
もう、そんなこんなで、人間というのは非常にややこしいものだなと、猫目線で決めつける。そしてふと、こんな狭い世界でしか生きれない私とは違って、彼らはどこにでも行けるのに、と、そんなことを呪ってしまうのだ。
海名はそれでね、呪いつながりの話なのだけれど、昔から何か憑き物につかれたようにひどく苦しむのだ。あの子が物心がついたころにはすでにそうだったのかもしれない。だって、10年前にこの家にやってきた頃には、いつも誰にも見えないところで苦しんでいた。だから、私だけが知っている。
母親の仁美は海名とは仲が良くなかった。だがそれは、海名の持病のせいだろう。だって海名は、何度病院に連れて行っても異常なしと決めつけられているから、挙句の果てには見せに言った医者から罵詈雑言を浴びせかけられることもままあったようだ。そのせいで家庭内の空気は悪くなったのだし、一美は私をかわいがることで心を満たしていたのだろう。
父親も一美が死ぬ前までは、家庭内から離れることはあまりなかった。そして、あまりにしゃべらない。もう、空気として存在しているのだ。だが世の男は皆そんなものだろうと思っている。
しかし、こう考えてみるとやっぱり、仮面夫婦ってやつだったのかなと思う。
だから、海名は愛されなかったのだし、だから仁美は私を愛したのだし、だからあの男は、海名の父親、シュウは別の女を愛したのだろう。
人間とは、醜い生き物だ。人間とは、醜くしかなれない生き物なのか、そう思うとなんだか憐みの情を抱く。
ああ、あと少しだ。
あと少しで私も死ぬのだろう。
何でって?そりゃだって、もう誰も、私に見向きもしない。エサというか、飯も全く平らげていない。だって、誰も与えてくれないから。でも、いいんだ。
海名はだって、もうまともじゃないから。あの子も朝から何も食べず、ずるずると布団から這い出して、大した身支度もせず、出かける。ひどく辛そうに。
あの子の父親、シュウ。やっぱりでも、あいつだけは許せないかもしれない。責任ってものを、放棄している。海名に対しても、私に対しても。
「ぼんやり。」
ほの暗い部屋の中で人間のまねごとをして、発声してみようか。でも、やっぱり私は猫であって、人間にはなれないのだろう。いつまでたっても何にもなれない虚しさを抱えたまま、孤独に飲まれてしまったようだ。
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