第3話

 「シュウ。」

 そう呼びかけるのは会社の後輩、山田美穂だ。彼女は25歳で、やけに僕になついてくる。僕は嫌なのに。

 と、そう思ってしばらく過ごしていたんだけれども、僕はやっぱりくだらない人間みたいだ。手玉にちゃっかり取られてしまった。

 山田は僕の愛人である。そんなふうに簡単に、僕は家族を裏切る。

 妻が死んだのはつい最近のことで、でも僕はなんだか何とも言えない、と言ったらいいんだろうか、そんな心地になっていた。正直言って、僕はそんなに他人を大切に思ったことがない。だから、いくら妻であっても、なんだか知り合いが亡くなった程度というか、多分人並みに悲しむことができていない。たまに、たまにだけれど、ふとそんな自分をおかしいんじゃないかと思って、苦しくなる。

 山田美穂はやけになれなれしく僕に近づいてきた。これははっきりと好意を寄せているというのを、経験値から推し量る。ねっとりとした話し方、ずんずんと詰めてくる距離感、真っ赤な頬、そしてうるんだ瞳。

 ああ、そう言えば妻も、一美もそうだったっけ?と、そんなふうにして近づいてくる美穂をうっとおしく思いながら、考える。

 だからそもそも僕は、僕は、他人を近づけることが極端に嫌なことと感じてしまうみたいだ。家族、そんな感覚など到底感じたことはない。なあ、考えても見てくれよ、他人との同居、こんな怖ろしいことあるか?いや、別にいいのかもしれない。だが、それは他人としてではなく家族としてだと考えると、やっぱり薄気味悪いと言っていいだろう。

 「シュウ、奥さん亡くなったんでしょ。辛い?辛かったら言ってね。私、慰めてあげる。」そう言い放つのは、美穂。

 でも僕は、「ああ、そうだね。」と単調に答えるだけだ。正直、妻を失ってみて、喪失感というものをあまり感じていない。そもそも僕は、一美とははっきりと言って不仲だと断定できる。彼女も僕を愛してはいなかったし、僕も彼女に愛を感じたことはない。じゃあ、なぜ結婚したんだっけ、なんて考えていると、「シュウ!」。

 はっ、現実に引き戻される、そのヒステリックな叫びで。

 「怒るなよ。驚くじゃないか。」ドキドキというか、ヒリヒリしながら美穂に語りかける。「だって、またぼーっとして、私、そういうの嫌いなんだから。」と少し可愛くすねる。

 僕は子供が好きだ。だが、近づきたくはない。だって、どう扱っていいのか分からないほど、もろく繊細なものに感じるから。娘の海名にも、だからそのように接してきた。まさしく、腫物を扱うように。

 「ごめん美穂、なんか最近忙しくて、ちょっと眠れていないんだ。」そう言ってやると、「なんだ、でもそうだよね。今、奥さん亡くなったりして、大変だもんね。」と納得してくれた。僕は美穂のこういう所が好きだ。子供のように純粋で、純真なところ、彼女といると、小学生のころの気持ちで遊び呆けているような気分になる。これは、童心に帰るというのだろうか。

 「もうさ、いっそのこと海名ちゃんとも一緒に暮らそうよ。」

 そうだ。美穂は要領がよく、子供のことも嫌わない。すべてを受け入れてくれる。これが彼女の強さであって、ずるさでもあるのだろう。だって、僕たちがしているのは不倫で、海名にとってはただの敵みたいなものだ、美穂は。でもそれでもいいのかなとふっと思う。海名には父親らしいことを全くしてこなかった、というかできなかったのだし、あの子には母親のような存在の女が必要なんじゃないかと思っているから。これはきっと、この卑怯な僕の最低限の罪悪感によるもので、最低限の責任感にもなるのだろうと思う。

 いけない。また考えにふけってしまった。そう思いながら見上げると、美穂が薄ら笑いを浮かべている。そうだった、ここは美穂の家で、僕たちは一緒に暮らしていて、海名は一人で生きている。

 「またぼうっとして、また驚いた顔をして。あきれるよ。シュウはそういう所がダメだけど、私にとっては魅力的なんだよね。」そう美穂は言い、僕は「ごめん。昔からなんだ。」とだけ答える。そう、昔から、気付けば僕は悪人になっている。

 「いいよ。」そう言われたから、僕たちはまたともに深い眠りにつく。これでいいのか、とかダメなのか、とかそんなことに労力を使わず、ただざっくりと意識が遠のいていけばいい。そうなんだ。

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