29.約束の残滓 ー地下一階ー
「スワロ、お前はここに残れ」
いつもと同じ平穏な朝。
彼はスワロにそう言った。スワロの成熟していない電子頭脳では、一体彼が何をしようとしているのかわからない。
ぴぴーと鳴いて、嫌だというけれど、ネザアスはスワロの頭をなでやりながら言うのだ。
「ここに残れ。お前は来ちゃダメなんだ」
ご主人の奈落のネザアスが、いつもと違うのはスワロにもわかる。
ネザアスは、あんなに大切にしている刀をスワロに預けて置いていってしまうのだ。あれはスワロと同じものでできている、スワロの分身。
それを置いていくということは、彼に捨てられるのと同義だった。
いやだ、とスワロは騒ぐ。せっかく彼と一緒にいて、少しは感情を持てるようになったのに。
どうか、どうか、捨てないで。
「おれだって、お前といたい。だけど、ダメだ」
非難の声に、ネザアスは首を振る。
「おれがやらなきゃダメなんだ。おれがやらなきゃドレイクがやる。どちらかがやらなきゃならねえなら、おれがやるしかないんだよ。ドレイクのやつ、だって子供ができるかもって。黒騎士も魔女も普通は子供なんてできないんだ。でも、アイツは特例で頼んでて、ようやく順番が回ってきたんだ。そんな奴を、狂うとわかってる作戦に参加させられねえよ」
ネザアスは、しかし悲しげにスワロを撫でた。
「お前の今後は、オオヤギのやつに頼んでおく。俺の手で元の娘っ子に戻してやりたかったけど。ごめんな、スワロ。でも」
ネザアスは目を伏せた。ご主人の左目は、燃えるような、夕日ような、綺麗な色をしている。スワロはそれが好きだったのに、今日はそれが沈んでいた。
「お前は幸せになってくれ」
*
夜になると灯台に火を入れる。
そうでなければ泥の獣、囚人が集まってきてしまうのだ。このなんでもない炎にどのような役割があるのかはしらないが、どうやら彼らの古い情報上、この炎を苦手とするのだという。
そして、彼女はひとしきり桟橋で歌を歌う。誰も聞く者もいないが、そうすることで囚人を鎮静化させるのだ。
少女だったころと今では、彼女の力の差は歴然としている。今の彼女は小さな
さみしくなるとペットのようにして、彼らと遊ぶこともできる。それをみて、中央派遣の男たちはおぞましいと恐れをなし、彼女のあらぬ噂を流すのだ。
別に構わない。そんな男たちのことなんて。
あんな男たちに、心を奪われることもないのだから。
ウヅキの魔女、ウヅキ・ウィステリアは、今更、誰に恋することもなかろうと思っていた。今までの恋人の写真や贈り物も簡単に捨ててこられた。彼女が魔女であるゆえに、それはすべて哀しい結末を迎えてきた。そんな感傷を思い出す必要はなかった。
(もう恋なんかしないわ。あたしは、魔女なのだもの)
いつしか彼女は泣かない女だった。冷たい切れ長の目をして、どんな悲惨な場面でも顔色一つ変えないようになっていた。過酷な戦闘訓練にも耐えることもできたし、実際に修羅場もくぐり抜けてきた。
今のウィステリアは強い女だった。そこには、昔の泣き虫のフジコは存在しない。
「怖いものなんてないわ。あたしには」
失うものも帰る場所もないんだもの。
歌い終わるとぽつりとつぶやく。
誰も返答するものもいない、星空の下だった。
一人で食事を作って一人で食べる。
あたたかでまろやかなかぼちゃのポタージュ。けれど味がしない。
ここにいたはずの、ヤヨイ・マルチアもそうだったのだろうか。一人で味気ない毎日を延々と繰り返し送っていた。
思えば、いろんな料理を作れるようになった。過酷な生活のなか、わざわざ料理を勉強したのは、理由はなぜだったろう。
会えるとも思ってなかったくせに、多分、あの人に食べさせてみたかったのだ。
戦闘に特化したために、味覚を与えられなかったかわいそうな彼と、一緒に食事がしたかった。
味のしないポタージュを口の中で転がしていると、ふいに幻のように思い浮かぶ。
おれも、いろんな料理を食べてみたい。
そういって無邪気に笑った彼のことを、恋をするはずもないウィステリアは、けれど忘れていなかった。
(あたしの中で、フジコがまだ生きているのかしらね)
ウィステリアは苦笑した。
「初恋は初恋。ただの幻想だわ」
ウィステリアは冷めた感想を述べる。
「ゆめまぼろしにすぎないのに」
けれど、この島に来てから、ちょっとウィステリアにも不思議なことが起きていた。
なぜか。あの人の夢を見るのだ。
あの人とは、処刑されたはずの黒騎士、奈落のネザアス。
彼と一緒に旅をしたテーマパーク廃墟の奈落の、あの冒険の日々。それから、あったはずもない、ウィステリアがたくさんの料理をふるまって、彼とスワロと一緒に食べる夢。
そして、スワロが彼に置いて行かれてしまって、悲しんで泣いているあの夢。
「あたし、感傷的になってるんでしょうね。ここから、あの観覧車が見えるから」
窓からそっと覗くと、夜の暗い海の上であの観覧車の影が黒々と見えていた。
「ありもしないことだわ。全部、あたしの妄想」
ウィステリアはそう切って捨てた。けれど、手は、いつの間にかあのペンダントトップを握っている。
夕食の片づけをしてから、ちょっと気がふさいでいたせいか、ウィステリアは少しここを探検する気になった。
この孤島の灯台の生活は暇だ。夜に灯台に火を入れて一日に一度か二度か歌う。役目はそれだけ。
戯れに黒物質のペットを作ってみることもあるが、足元をちょろちょろさせる程度のもの。造形の魔女ならもっと複雑なものを作れるだろうが、彼女はそこまで得意ではない。すぐに飽きてしまう。
「ここ、狭い小屋の割りに妙に複雑な構造をしているのよね。地下室があるわ」
流石のウィステリアでも、地下に行くのはちょっと怖い。
(とはいえ、いなくなったマルチアを見つけるようなことはないだろうけれど)
彼女の捜索は念入りに行われたと聞いている。結局彼女は身投げしたのではないかということで、片付けられてしまった。
「念のため、護身用の銃ぐらいは持っていこうかしらね」
準備をしてからウィステリアは、地下室への扉を開ける。
地下には複数の部屋があるようだった。
「倉庫にしてはいろいろあるわねえ。誰が作ったのかしらここ」
地下は、誰も入った形跡がなく、埃が積もっている。マルチアはここに立ち入らなかったようだ。
電灯をつけてみると、まだ生きていた。チカチカと点滅するものもあるが、ライトを使って進めばさほど困らなかった。
扉を開けるとほとんどが倉庫。ガラクタや歴代の灯台守の荷物が突っ込んである。今でこそ魔女一人っきりだが、かつてはそうでもなかったらしく、複数の男女がここで働いていた形跡があった。
(宿舎だものねえ。個室があったのかしら、地下に)
意外と廊下は長い。
その一番奥に扉があった。
そっとドアノブに手をかけるが、なぜか開かない。
「鍵がかかってる?」
ドアノブの周囲のほこりを払ってライトを照らす。しかし鍵穴がない。代わりにあるのは、何かしらのセンサーのようなものだった。
「なにこれ? 生体認証なの? ここだけやけにハイテクねえ。ほかのは笑えるほどアナログなのに」
ウィステリアは不審そうな顔になった。しかし、生体認証だとしたら歯が立たない。火薬を仕込んで無理やりあけてもよいが、そこまでするメリットは彼女にはないのだ。
「まあいいわ。何かの業者か中央派遣のヒトが来た時にでも、ついでに相談して……」
とウィステリアがあきらめかけた時、不意に、ぴ、と電子音が鳴った。
何かとそれが反応している。鍵が開く音がして、扉が静かに開いた。
「何? え? 今の何と反応したの?」
戸惑いつつ、ウィステリアは扉を開く。
埃のにおいがしたが、彼女の侵入とともに電灯がついて室内は明るかった。中を覗き込んでみる。
そこは、誰かの個室のようだった。
調度品は簡易なものだけ。ベッドとカラーボックスが一つ。簡易なデスク。そしてクローゼット。読みかけの本には異国の言葉がびっしりと書かれている。そして、壊れた通信端末。
クローゼットの前に段ボール箱が積まれている。
ウィステリアはどきりとした。なぜかむしょうに懐かしくなったのだ。反射的に手でペンダントトップを握りしめる。
ふらつくように部屋の中に入る。毛布が跳ね上がっていて、まるでさっきまで人がいたかのような形跡を残したまま、部屋は時間を止めていた。
読みかけの本をそっと拾い上げる。
「これ、みたこと……ある……」
確か、これは、あの時、奈落のネザアスの隠れ家の本棚にあった、古い外国語で書かれた詩だ。シェークスピアだと彼は言った。
ばっとクローゼットを開けてみる。そこに並んでいる衣類は埃をかぶっていたが、やはり見覚えがあるものだった。
足元の段ボールをふるえる手でひらく。
中には缶詰が並べられていた。みかん、桃、そしてチェリー。彼がかわいいと言っていた、いつか奈落で一緒に食べようといって約束したあの缶詰。
「ッ……」
ウィステリアは、思わずへたり込みそうになる。
「ここ、まさか……。もしかして、このペンダントに反応して?」
ぎゅっとペンダントトップを握りしめる。
(この、中のメモの文字……、ああ、そうか。なんで今まで気づかなかったんだ。あの文字は、ネザアスさんの血文字なんだ。……自分の中のナノマシン
だからこそのおまじない。
そして、だからこそ、入口の鍵が反応した。ここにきて彼女が何か彼らに関する夢を見るのも、この場所にきて彼の痕跡に彼女が感応してしまっているからだ。彼が遺したこのペンダントの中身の文字の黒物質を通して。
みかんの缶詰のフタがあいている。そっと手にしてみると、中に封筒が入っていた。
「これ、は」
鏡文字だ。慌てて手持ちのコンパクトミラーに映してみると、はっきりと文字が読み取れた。
「DEAR LADY WISTERIA」
どきりとした。これは間違いなく奈落のネザアスの文字だ。左利きの彼は鏡文字を書くのが得意だったし、文字が左利き特有の跳ね方をする。癖はあるが意外に字がきれいで、自分でもドヤ顔で語っていた。
慌てて封筒を開ける。中から写真が出てきた。
「これ……」
そこに写っているのは、かつての彼女、今とは違う、力も弱くて、少し気弱な少女のフジコだった。
ワンピースをきてはにかむようにして笑う彼女のそばに、機械仕掛けの小鳥を肩にのせて派手な着物を着た長身の男が写っている。長い赤い髪を束ねて、右目に眼帯をしていて、そしてそんなちょっと怖い顔のくせに、あどけない笑みを浮かべてフジコに寄り添っている。
「これ、あたしが……、最後に、撮ったの……」
呆然と写真を裏返す。そこに鏡文字でメッセージが書かれてある。
「親愛なる、レディ・ウィステリア。いつまでも貴女の幸せを願い……。BLACK KNIGHT YURED NEZAS……」
ざ、とウィステリアはその場にへたり込んだ。
「ネザアスさん、あたしがここに来るの、わかってたの?」
泣いちゃだめだ。泣いたら、もう止まらなくなる。強い女でいられない。
だめだ。涙はだめなんだ。
そう言い聞かせる彼女の目の前に、ふととある映像が浮かんできた。
*
真っ黒な海。空を飛ぶものが、ある人物たちをとらえる。
崖の上だった。追い詰めたぞ、と声が飛ぶ。
しかし、彼は落ち着いていた。追い詰められたものの焦燥とは無縁だった。
彼が何か青年と話している。おそらく、青年は創造主アマツノ。
「こうなることはわかっていたぜ、アマツノ」
彼は静かに言った。
「おれを殺すんだろう」
「正気に戻れたんだね。ネザアス」
「おかげさまでな。ちょっとアレに耐性があるらしいよ、おれは」
ネザアスは苦笑した。
「まァな。今更正気に戻っても仕方がない。おれ、操られているときの記憶がねえんだ。だが、やることやってんだろ、おれ」
アマツノは答えない。静かに目を伏せた。
「君かドレイクにしかできなかったんだ。でも、ことが終わったら、流石に消えてもらわなきゃならなかった。そうじゃないと示しがつかないからさ。……ごめんね」
「うすら寒い謝罪なんていらねえよ。アマツノ」
ネザアスは犬歯を見せて引きつった笑みを向けた。
「だけど、おれはお前に作られた。お前のためになれたなら、良かったんだろう」
アマツノと彼は静かに話している。アマツノの連れてきた複数の従者の銃が、ネザアスに向けられていた。
「おれは、おれとドレイクは、お前には、もう要らないんだな?」
「……ごめん。だって、……古いものは捨てないと。もう、置く場所が無くなる」
「ああ。そうか」
ネザアスは嘆息した。
「やれよ。……おれはお前に作られた。お前の自由にすればいい」
それを契機に一人の男が引き金に手をかけた。が、ふと方向を変える。銃口を向けられたのは彼ではなく、アマツノの方だった。
その動きにネザアスが反応した。
「あぶねえ! アマツノ!」
奈落のネザアスの声が響く。
彼がアマツノ・マヒトをかばうように前に飛び出す。その彼の右側に銃弾が浴びせられた。はっと彼の左目が見開かれた。
人魚の涙の毒を含む銃弾は、彼の体を溶かしていく。
「ネザアス!」
アマツノを撃とうとした男は、ほかのものにすぐさま拘束されていく。アマツノは構わず、ネザアスに近づいた。
「どうして、僕を助けたの?」
ネザアスの右半身は顔も含めてすぐに黒く溶けだしていた。ようやく崖っぷちの松の木によりかかり、ネザアスは荒い息をついた。
黒い液体が血のように足元に流れ出している。
「ネザアス。だ、大丈夫だから! すぐに手当てするから!」
殺そうとしていた相手に、彼は反射的にそういった。
「でも、ネザアス、どうして?」
そんなアマツノの声は、初めて普通の人間のように響いた。今までの彼とは違う、明らかな人間の感情を宿して、彼は戸惑いと悲しみを表していた。事実、アマツノ・マヒトは泣いていた。
「僕は君を殺そうとしたんだよ? なんで?」
「さあ」
ネザアスは薄く笑った。
「なんでだろうな。……おれは、だって……お前が作った存在だから」
右側を黒い花のように散らしながら、ネザアスは左目から涙を流していた。
「おれはお前に不要だといわれたら、もう存在することができない……。どうして? どうしてはおれのセリフだ。お前はおれが、お前に不要だといわれて、どうして存在できるとおもったんだ? お前、おれがもう要らないってさっき言っただろう?」
ネザアスは涙をぬぐうこともしなかった。
ぐいとネザアスはアマツノを突き放す。
「おれはもう助からねえよ、アマツノ……。中枢まで溶け出して……、数分でただの黒物質の塊になる……。せめて綺麗に散っていけるだけが幸せかな……。水中花みたいに、多分、きれいにバラバラになる……」
「待って! まだ、だって!」
アマツノは子供のように追いすがる。
「僕ならきっと助けられる! ねえ、僕が悪かったんだ! ネザアス、待って!」
ネザアスは崖の方に後退した。
「おれはお前の言う通り、壊れた古いおもちゃだ。もう置く場所もない、古いお気に入りだよ。……だから、おまえは全部おれのせいにすればいい……」
ネザアスは倒れるように崖から身を投げる。
「お前と会えて楽しかったぜ。アマツノ……」
ふわりとネザアスの体が宙に浮く。アマツノの手が空振りする。
黒い花びらのような彼の体が、宙を舞うように飛んでいく。
そして、空から彼を追いかけるようにして、スワロが落ちてきた。銃弾で撃ち抜かれたその金属片にネザアスが気づく。
「ああ、スワロ、なんで、ついてきちまったんだ?」
ネザアスが薄く目を開く。もうスワロは答えない。
「仕方ねえな。そんなに俺といたいなら」
そっと左手でスワロを抱き寄せながら、ネザアスは言った。
「おれと一緒に……一緒に、地獄に堕ちようぜ、スワロ」
ふっとネザアスが目を閉じ意識を手放す。
黒い桜の花びらのように彼の右側から
ふいに黒い海の中から、黒々とした不定形のなにかが頭をもたげ、彼を大きな口の中に飲み込んだ。ばしゃばしゃと水音がたち、彼らを飲み込んだ獣は深い海の中に消えていった。
いつの間にか、彼女の前に奈落のネザアスが立っていた。
あの頃と寸分たがわぬ姿だ。肩にスワロをのせている。
どこかさみしげで、乱暴で、しかしフジコには優しい彼だった。
「ネザアスさん」
その中では彼女は小さなフジコだった。
「ネザアスさん、どうして?」
――仕方ねえよ。
とネザアスは言った。
――おれかドレイクのどちらかがやらなきゃならなかった。
「うん」
――でも、ドレイクの奴も助けられなかったけどな。……アイツも結局巻き込まれて、ビーティアも死んじまって……今はどこにいるかな。生きていればいいんだが。
ネザアスは薄くわらった。
「どうしてあんな人を助けるの? あの人はネザアスさんを!」
――アマツノは、ひどいやつだけど、昔はああじゃなかった。おれは、あいつを守る必要があった。約束したからな。
「あたしとも約束したじゃない!」
――ああ、覚えてるよ。お前と約束したこと、最期まで覚えてたんだぜ。おれ。
「うん。わかってる。ネザアスさんは約束は守るひとでしょ」
――そのつもりだった。ごめんな。
そっと頭を撫でられる。
――お前を最低限は守れた。でも、そこで、もうおれには限界だったんだ……。許してくれな。
「うん」
フジコはいつもの泣き虫のフジコだ。
――泣くなよ。女を泣かすのはきらいなんだ。だから、泣くかわりに歌ってくれ。
「無理だよ。こんなの」
フジコは言った。
「こんなの、歌えるわけないでしょう!」
――ウィス。
怒っても、彼は笑うばかりなのだ。
――お前は相変わらず綺麗な声だな。怒ってる声でも、お前の声をきくと、落ち着く。
頭を撫でながら、にこりと彼は笑う。
――たまにでいいから、おれのために歌ってくれ。
ネザアスの声と手の感触が遠ざかる。
――お前はおれの、かわいいレディだったよ。レディ・ウィステリア。
*
ふと、夢のような幻から醒める。
ウィステリアは、またひとり、奈落のネザアスの部屋の中で座っているだけだった。
いつの間にか時計が進んでいる。長い夢でもみていたかのように。
いや、夢ではない。あれは、間違いなく彼とスワロの……。
「あ、……ああ!」
手の中の写真をみながら、ウィステリアはふるえた。
感情がコントロールできない。彼女の凍り付いたような瞳があっという間にうるんで、ぼろぼろと大粒の涙があふれだした。
たまらなくなってウィステリアは、封筒とペンダントを握りしめながら走り出した。
地上にあがって建物の外に出る。
目の前には少し夜が白み始めただけの、暗い空と海。
桟橋まで走って、ウィステリアはそこで息を切らしながら座り込んだ。
「どうして、ッ!」
ウィステリアは叫んだ。
「どうしてなの! あたしは貴方のそばにいたくて強い女になったのに! なのに、どうして貴方はどこにもいないの、ネザアスさん!」
ウィステリアは感情のまま、誰もいない黒い海に叫んだ。
「約束したのに。強くなったら、側に置いてくれるって! 嘘つき! 嘘つき! 約束が守れないなら、スワロちゃんみたいに、どうしてあたしも連れて行ってくれなかったの! あなたのいる地獄なら、あたしだって一緒に堕ちたかった!」
ひとしきり慟哭しながら、ウィステリアは顔を覆う。
ぎゅっとペンダントトップを握る。
「知ってたんだ。あたしが魔女として生き延びたのは、ネザアスさんのお陰なんだって。創造主アマツノは、あのゲームの約束を守ってあたしに手を出さなかったんだ。それだけのことよ。あたしの実力なんかじゃない。だから、あたしはまだ生きていける。……でも、そんなの、何の意味があるの? 魔女のあたしに、幸せなんて来るはずないのに!」
肩をふるわせて、ウィステリアは泣いた。
「あたしはただ、貴方と旅をしていたあの頃に帰りたいだけなの! だって、あたしに帰るところなんてもうないんだもの! あたしにはそこしか帰る場所がないの!」
泣くものか泣くものか。そんなふうに誓ったのに、涙が溢れて止まらなくなる。
「あたし」
はらはらと涙を流しつつ、ウィステリアは立ち上がる。
「……あたし、あなたのことが本当に好きだったのよ、ネザアスさん」
ほかの恋人の贈り物は捨てられた。すべて忘れられた。
でも、彼からもらったこれだけは、どうしても捨てられなかったのだ。
これの”おまじない”の効能だって知っていた。これがある限り、創造主は自分に手を出さない。魔女として守られる。
けれど、捨てなかったのはそんな理由からではない。魔女の宿命から逃れるためには、これを捨ててしまう方が簡単なのだ。魔女をやめてしまう方が、まだしも幸せだ。こんな世界では。
「……ネザアスさん……」
ウィステリアは優しく写真を抱きしめながら、顔を上げた。
そっと口をひらく。
涙でかすれた声を必死で修正しながら、彼の好きだったあの歌を歌いだす。
誰も歌を聞いているものもいない。目の前には、黒い死のような海。朽ち果てた観覧車。海のヘドロに埋まったあの思い出の場所。
神の恩寵なんてもう存在しない。この世界はとっくに見捨てられている。神の救いも存在しない。
結局、降り注いだのは絶望だけだった。
けれど彼女は願うのだ。彼がどこかで救われていてほしいと。
これは彼女のレクイエム。彼女にできる彼のための精一杯のはなむけだった。
夜が明ける。白み始めた海に観覧車のシルエットが浮かび上がる。
澄み切った歌声が、その世界を清めるように響き渡っていく。
*
そして、その桟橋のたもと。いつしか歌に魅せられて一匹の怪物が近づいてきていた。
――あア、……ヤはリ、綺麗ナ声だな……。綺麗ナうた……。とテモイイ。
濁った声でそう嘆息をつく。
――そうだ、コノ人魚ヲ、オれは、守ってアゲよう……
彼はそうこっそりと誓うと、いたずらっぽくフフフと笑う。
夜が明けるまで彼は静かに歌を聴いていた。そのことを彼女は知らない。
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