30.黄昏世界の観覧車 ーはなむけー

 花束を抱え、傘をさして、ウヅキ・ウィステリアは居住区から出かける。

 その日は雨が降っていた。十一月の冷たい雨だ。こういう日は何かを思い出しそうになる。だからこそ、彼女は今日を選んだ。


 管理者の調査員エージェントでもある彼女は、表向きはジャズ・シンガーとして、あちらこちらのクラブで歌っている。

 その中で獄卒達と深く関わることが多く、この獄卒の街の近くで住んでいた。

 獄卒。

 かつて実験されていた、重犯罪者による人体実験は、強化された泥の獣の征伐を行う使い捨ての戦士という形でこの世界に広まった。それが獄卒と呼ばれるものたちだ。

 しかし、もともとが重い罪を犯すような者たちであり、彼らの扱いには多少のクセがある。管理局の監視が行き届かないところもあり、揉め事のタネにもなりやすい。

 その一方。復興して発展をつづけた一方で衰退も激しいこの世界では、囚人と呼ばれるかつての泥の獣の狂暴化から、獄卒の存在は不可欠だった。彼らがまた囚人を増やすことになろうとも、一時しのぎのために使い続けなければならないのだった。

 囚人が多く出る荒廃した区域はフェンスで区切られ、居住区と区別されていた。本来ならきちんと当局で管理されているゲートを通って外に出るが、それは通常囚人ハンティングを行う獄卒のみ許可されている。

 しかし、あくまでそれは正規ルートの話であり、フェンスが破損している場所からは、コッソリ外に出ることもできる。

 彼女は、今日はその荒野の方に用があった。が、そんな場所には危険がつきものでもあった。

「誰かと思ったら、レディ・ウィステリアじゃないか。この間、クラブで歌ってるのを見たぜ」

 フェンスの近く、荒野にほど近い獄卒の街は、半分スラム化している。

 彼女のような美しい女は目立つのだ。が、ウィステリアの方も絡まれるのは承知の上だ。近づいてくる数人の獄卒相手にも、彼女は別にひるみはしない。

「あら、あたしのことをご存じなのね。うれしいわ。けれど、今日は急いでいてね。また夜にお店に来てちょうだい」

 そう言ってあしらって通ろうとしたところで、グイと手を握られた。むっと彼女は男をにらむ。

「気が強いんだな。歌姫様」

「そうじゃなきゃ、こういう商売はやっていられないの」

 彼女の歌は、黒物質に対して沈静を行うものだ。つまり、黒物質で強化された獄卒にも、確実に効く。それがわかっているからこそ、ウィステリアも余裕だ。それでなくても、彼女はこの程度の相手なら、何とかできるほどの戦闘能力も持っている。

 が、ふと手から傘を叩き落され、ウィステリアは花束をかばいながら後退する。

 いつの間にか男たちは剣を抜いていた。獄卒には銃器携帯が禁止されているが、その代わり彼らは刃物をよく携帯している。それで傘を引き裂かれたのだった。

 冷たい雨が降り注ぐ。ウィステリアはきっと相手をにらみ上げた。

「何をするの!」

「どこに行くんだよ。ここから先は荒野だ。デートするわけでもあるまいし、俺たちと遊ぼうぜ? その方がよほど楽しいぞ」

「自信過剰ね」

 ふとウィステリアが、隠し持つ銃に手を伸ばしかける。

「あたしだって今日はもめたい気分じゃないの。でも、あなたたちがどうしてもっていうなら、仕方がないわ」

 そう言いかけた時、不意に男たちが何を感じたのか、ざっと後ろを向いた。

「その女から離れろ、下衆どもが」

 ハスキーな声が聞こえた。

 柄モノの赤い傘をさした、背の高い痩せ型の男がそこに立っている。白いスーツに赤いシャツを着ているらしい男は、妙な柄のネクタイを几帳面にきっちりと締めている。その右袖がだらりとさがっていて、中身がないことがわかった。そして男の腰には専用の剣帯に刀が二本ぶら下がっている。

「誰だてめえ!」

「聞こえなかったか? その女から離れろっていってんだよ」

 男は不機嫌に言った。傘がずれる。赤っぽい短髪に、薄く色づいたサングラスをかけていたが、それをちょっと外す。白く濁った右目は明らかに失明しているが、目つき自体は鋭い。

「俺はその女に話があるんだよ。だから、テメエらが邪魔だと言ってる。とっととね」

「ユーレッドの旦那」

 ウィステリアがふとつぶやくと、獄卒達が反応した。

「ユーレッド? さてはてめえ……あの……」

「何が、”あの”かは知らねえが、三下に名前覚えられてもなんのメリットもねえんでな」

 ユーレッドと呼ばれた男は、サングラスを胸ポケットにしまいながら気だるげにいう。

 そんな彼の右肩に、丸いだるまのような形のアシスタントロボットが控えている。

「お前らと話していると、いい加減イラつく。これ以上、俺がお前らを殺したくなる前に、さっさとどけっていってる」

「ちッ、獄卒同士討ち好きの問題児かよ。だがいい加減てめえの……」

 と言いかけた獄卒の男の顔に、素早く閉じられた傘が直撃する。

「口開くなって言ってるだろ? てめえらの声が耳障りなんだ。キレそうなんだぞ、こっちは」

「コイツ!」

 と、相手が乗ってきたところで、ユーレッドの口の端が楽しそうにゆがめられた。ざっと閉じた傘で応戦する。刃物できりつけられるのを体重移動だけで軽くかわし、逆に突き返したたき伏せる。

「くそっ、覚えていろ!」

 それに恐れをなしたのか、獄卒達が悪態をつきながら逃げ出す。ユーレッドはばさっと傘を差しなおして、舌打ちした。

「あーくそッ、傘が邪魔でぶっ殺せなかったぜ。刃物だったら確実に仕留められたのにな」

 きゅきゅーとすかさず、肩のアシスタントが警告する。

「う、うるせえな、スワロ。実際殺してないだろ。いいじゃねえか、少しくらい。アイツらの声がカンに触るのが悪いんだよ」

 ユーレッドはそう言い訳をする。

 彼は獄卒UNDER-18-5-4という名前の獄卒の男だ。ユーレッドは、その番号をアルファベット変換した通称でU-REDである。名前の付け方は獄卒には良くあるやり方だ。

 ウィステリアが監視をしている賭場に出入りしているワルであり、喧嘩早くよく同士討ちで獄卒をたたき斬っている問題獄卒である。一方、囚人ハンティングの成績がとびぬけていいことから、当局的にも特殊な扱いをされている男だった。

 ウィステリアが賭場で歌っているときに知り合って、今でもたまに顔を合わせる。

「ユーの旦那、ありがとう」

「まったく、ボサっと歩いてるから、あんなクズどもに絡まれるんだぞ」

 基本的にユーレッドは、ウィステリアには冷たく乱暴な対応をする。しかし。

(やっぱり、この人、あまりにも似ているのよね)

 彼は似ているのだ。その顔や風体が、あまりにも”彼”に似すぎていて、ウィステリアは戸惑ってしまうのだ。

 かつてドクター・オオヤギが言っていた通り、オオヤギが外見データを提供した人物は複数人いる。

 あの奈落のネザアス以外にもおり、ウィステリアは実際にそうした人物にも会っていた。しかもこの世界のシステム的にも、あのネザアスに似せて作られた人物が存在することもおかしくない。

 しかしだ。ネザアスはとうの昔に死亡しているし、実際に本人も、人違いだと言っているのにもかかわらず、彼は。

「俺が通りがかってよかったな。気をつけて歩けよな」

 ユーレッドは、ふらっと彼女に近づくと傘をぐいと乱暴に押し付けた。

「ほら」

「え?」

「これさして帰れ。お前の傘は破れちまってるからな」

「でも旦那が濡れちゃうでしょう?」

「俺は獄卒だから平気だけど、お前は雨に当たると良くねえんだよ。荒野に降る雨は、汚泥の含有率が高い。感染されても厄介だ。コイツかしてやるから、大人しく帰れ」

 大きな傘を渡すと、ユーレッドはじゃあと帰りそうになるが、ウィステリアが動かないので、むと眉根を寄せる。

「帰らないのか?」

「ごめんなさい。でも、あたし、いかなきゃ……」

「は?」

「どうしても、今日行きたいのよ」

「馬鹿じゃねえか、お前。こんな雨の中、荒野に行くとぶっころされるぞ」

 ユーレッドは乱暴に言う。

「荒野はこんな半端な奴だけじゃねえんだ。囚人もいるんだぞ! しかもアイツら、泥を含む雨を浴びると活性化する」

「でも、どうしても行くところが……」

「知らねえよ。勝手に行け!」

 ユーレッドはイライラした様子でそういうと、踵を返していってしまいそうになる。きゅきゅ、と肩のスワロが非難するように鳴くが、しばらく歩いたところで、左手で濡れた髪の毛をぐしゃりとやった。

「あー、もう!」

 ユーレッドは戻ってきて、傘を手からもぎ取る。

「しょうがねえな、お前! ボサっとしやがって、危ねえって言ってんだよ。ほら、どこに行くんだ?」

「どこ?」

 あっけにとられてウィステリアがきょとんとすると、ユーレッドはちょっと照れた様子で視線を泳がせる。

「皆まで言わすなよ。ついて行ってやると言ってんだよ。ほら、さっさと歩け」

 ユーレッドが傘をさしかけてくる。

 その傘の下で、二人はフェンスを抜けて荒野に入った。



 *


 荒野は基本的には荒地が続く。

 かつての廃墟などもそのまま残っている場所もあるが、味気ない、さみしくなる場所だ。

 ただ手つかずの自然がある場合もあり、この周辺は草原と大きな木がいくつか残っていて、林のようになっていた。

 居住区から程近く、海の見える一角に、大きな木があって、ウィステリアは毎年十一月になると、ここを訪れるらしい。

 歩いてくるうちに、いつのまにか、雨が上がっていた。

 その木の根元に彼女は花束を置き、近くの濡れていない岩に座った。

「お、スワロなんか見つけてきたのか? お、すげー。これ、盗品のバイクだな! あー、獄卒の奴が盗んできたのはいいけど、隠す場所に困ってこんなトコに置いていったって? ここ、隠すのに良いもんな。お、ほかにもあるー!」

 ユーレッドは、林の中でスワロの見つけてきたオートバイに夢中だ。どうやら盗品の受け渡しをこんなところでしている獄卒がいるらしい。話の内容をきくと、ユーレッドは、その一台を失敬するつもりらしい。

「盗品回収は、ポイント稼ぎにもいいし、金も多少もらえるしな。ちょうどよかった。はは、お前、流石に優秀だな! 愛いやつだぜ」

 よしよしとスワロを撫でてやる。 

 そんな彼らの様子を見ながら、なんとなくウィステリアは置いて行かれたようにぼんやりしていた。

 スワロ。

 なんで、あのひと、彼と同じ名前をあの子につけるんだろうね。違う人だって自分で言ってるくせに。

 実際、彼らは違うのだ。ウィステリアに対する視線も。

 黒騎士、奈落のネザアスは、あれで確かに騎士だった。それに比べて獄卒のユーレッドはただの無頼漢だ。賭博場で酒を傾けながら、ご法度の賭博に興じているような、そういう悪い男。ただし酒には強くないし、女性関係は奥手らしいが。

 でも。やはり。

「ウィステリア」

 スワロに目星をつけた一台を解錠させて乗れるようにしている間、ユーレッドは、煙草を吸いながらふらっと寄ってくる。電子煙草というフレコミだが、実際何を吸っているのか、よく知らない。そんな彼が眉根を寄せる。

「なんでここに花なんぞ手向けてるんだ? こんなとこで知り合いでも死んだのか?」

 その辺は遠慮なく、ストレートにきいてくるユーレッドだ。

「ううん、ここじゃあないわ。もっと荒野の奥の方よ。海の近く。……でも、ここと似ているところだった。毎年、ここにきてるの。それで気持ちが落ち着くから……」

 座っていたウィステリアは立ち上がる。

「荒野はずいぶん地形が変わっちゃってるからね。昔の名残を探すのは大変なのよ。本当は観覧車の残骸を見つけたいんだけど、探せなくって……」

「ふーん、なるほどなあ」

 こほん、とユーレッドはなぜか咳ばらいをする。

「あのな」

 きょとんとすると、彼は真面目な顔になる。

「その、死んだやつかなんだか知らねーが、花たむけんの、今年でやめにしとけ」

「なんで?」

「ん、その、なんつーか、まあその」

 ユーレッドは言葉を濁しつつ、

「そのー、もう成仏してるかもしれねーしだな。そんな昔死んだやつとか、もう花とかいいだろ」

「だったら尚更お花くらいいいでしょう?」

「いや、要らないっていうかもだし」

 妙な絡み方をする彼に、ウィステリアはふとたずねる。

「もしかしたら、生きてるとかも、ある?」

「ん……。んーーー。そ、それは、ね、ねえんじゃないか?」

 ユーレッドはちょっと困った様子で否定する。

「とにかく、昔のことは昔のことだ。もういいだろ?」

「旦那は昔のことを思い出したりしないの」

「昔? さあ」

 ユーレッドは肩をすくめた。

「おれみたいな獄卒には過去はねえよ。獄卒は負傷なんかすると、時々、派手に記憶が飛ぶしな。それに、忘れちまうような過去は、思い出す必要も価値もないから忘れる」

 にやりと彼は笑った。

「だから、お前も忘れちまえよ。昔のつらいことなんて。楽しくないのに思い出す価値ないだろ?」

「そっか。そういう考えもあるわね」

「ん。うーん、その、ま、だからー」

 さみしげに笑うウィステリアに、ユーレッドは完全に調子を崩して困惑気味になった。

「今日のお前、ちょっと変だな。調子が狂う」

 ウィステリアは意地悪っぽく笑った。

「だったら、少しくらい優しくしてよ」

「お前に優しくする理由はねえだろ」

「そうね」

「んーー、いやー、あー」

 困った様子でユーレッドは、解錠して戻ってきたスワロをそっと撫でる。

「……いやそのあのな」

 むー、と眉根を寄せて考えた結果、ユーレッドは、ふむと唸った。

「ちょっとお前、俺に付き合え」

「え?」

「優しくして欲しいんだろ! 優しくはしねーけど、気晴らしはさせてやるよ。雨もちょうど止んだしな!」

 瞬きしたウィステリアに、ユーレッドはそう言って乱暴に彼女の手を引いた。

 

 *


 半壊した旧ハイウェイを改造オートバイで走る。

「おー、すげえ! これ、めちゃくちゃイイやつじゃねえか。管理局に渡すのもったいねえ!」

 ユーレッドがアクセルをふかしながらテンションを上げる。後部座席に座りながら、ウィステリアは正直不安に襲われていた。

「ちょ、ちょっと。大丈夫なの! 道、ガタガタなんだけど」

「ふん、俺を誰だと思ってんだ? これぐらい余裕だぜ! こういうの得意なんだよ!」

 ユーレッドは目いっぱいアクセルをふかしているが、何せ荒野の廃道路だ。路面はひび割れ、ところどころ崩れ落ちている。ただし、この程度のスピードで走っていると、囚人に襲われることもまれだ。

 きゅきゅ、とスワロが叱るように耳元で鳴く。

「は? 制限速度オーバー? 何言ってんだ? あんな標識に今更何の意味もねーよ」

 ははは、とユーレッドは、スワロの警告を一蹴するが、ウィステリアには他人事ではない。

「ちょっと、旦那。大丈夫なの、確か旦那は義肢装着が苦手とかなんとかって……」

 そう、今の彼には持ち運べる軽量義肢が装着されてある。しかし、本来、ユーレッドは軽い義肢でも長時間の使用が厳しいらしく、普段はつけていないのだ。

「ああ、右手のことか? 長時間は厳しいけどこの程度ならスワロがいればな。まー、流石に自分用に改造してねえ乗り物乗るときは、両手あった方が便利だからなあ。それとも片手運転してほしいのか」

「怖いこといわないで。本当、気を付けてよね」

「うるせえ奴だなあ。せっかく俺が……っと!」

 言いかけて、ユーレッドはふとブレーキをかけた。スピードを出していた割にキレイにきゅっとバイクを止める。

「お、ここだ!」

「ここって?」

 ユーレッドの目的がいまいちよくわからない。ハイウェイは森と荒地の間を抜けるように作られているが、橋げた自体の高度も高い。それだけに見晴らしは良いのだが、荒野はどうしたって荒野なのだ。気晴らしにはならない。

「そっちじゃない。海の方だ」

 そういわれてウィステリアは、バイクをおりて反対側の海の方を見た。

「あ!」

 ウィステリアはそう声をあげて立ち尽くしてしまった。

 緑の森の間に青い海が見えている。それが晴れ間の青空の下で、キラキラきらめいていた。そして、その中に朽ち果てた観覧車が、半分海に浸かったまま、頭を出していたのだ。

 いつぞや見た時よりもまた壊れて、ゴンドラはほとんど落ちてしまっているけれど、あの骨組みは間違いない。

「あれ……」

「お前が観覧車がどーのこーの言ってたからよ。この間、ハンティング中にみつけたのを思い出してだな。観覧車ってアイツのことだろ?」

 ユーレッドがそう言って、ウィステリアに近づいてぎょっとする。

「な、な、なんでお前、泣いてんだよ?」

「泣いてなんかないわ」

 ウィステリアは、はらりと涙を流しながら微笑する。

「旦那の気のせいよ。あたし、泣いてないもん」

「お、おう……」

 ユーレッドは困惑気味になり、スワロに助けを求めるような視線を送る。が、当然スワロからは、有効な返答がない。とりあえず無言で、胸ポケットに入れてあるハンカチを差し出すのみだ。

 しばらく、その光景を黙って眺めた後、ウィステリアは、からっと笑って差し出されたハンカチで涙をふいた。

「ありがとう。ユーの旦那。気がすんだわ」

「そ、そか。それならいい」

 ユーレッドは内心ドキドキしているらしく、妙に落ち着きがない。とりあえず、エンジンをかけてハンドルを握る。

「じゃ、そろそろ行くぜ、お嬢レディ

「え、お嬢レディ?」

 その言い方が。あまりにも。

 それは、彼も油断をしていたのだ。

 はっと反射的にユーレッドが口を押さえる。そして、かかかかーとみるみるうちに顔が赤くなった。

「ち、ちが、違うんだぞ。こ、これはー、こっ、これはー、ほ、他の女と間違えた」

 ユーレッドがそんな最悪な言い訳をする。

「こ、これは、な、他の女の呼び方を、何故か今、お前に使ってしまい、なんか、こう、気まずいなーって、ど、動揺しているんであって! そ、そういう、動揺、なんだ。わ、わかるよな?」

 ユーレッドが必死にそんなことを言う。

 呆然としていたウィステリアは、思わずふっと噴き出した。

「あはははっ! サイテーな言い訳ね」

「は、ははは、そ、そーだぞ! お、俺は、サイテーな男なんだからなー、ふははははっ。だ、だから、お前も俺に変に絡むのはなー」

「はー、旦那、馬鹿なんじゃない! 涙出ちゃう!」

 ウィステリアは大笑いして、目じりをぬぐった。

「そういうことにしておいてあげるわ! さあ、帰りましょう!」

「お、おう、か、帰るぞ」

 挙動不審なユーレッドをそう誘導して、ウィステリアは後部座席に座った。

 

 雨上がりの冷たい空気。どこからか、枯葉が飛んでくる。いつのまにか、日が落ちてきていた。秋の夕暮れは早い。

 旧ハイウェイを飛ばしながら、ウィステリアはユーレッドにつかまっている。

「ねえ。旦那」

「なんだよ?」

 ユーレッドは、先ほどの一件からちょっと不機嫌だ。というより、不機嫌を装っている。

「あのね、あたし、ずっと側にいさせてとか言わない。でも、時々は後ろにいるぐらいなら、許してくれる?」

「な、なんだよ、いきなり。ウゼェなあ、お前は。勝手についてくるだろ、いつも」

「ダメかしらね」

 ユーレッドは、うーんとうなる。

「う、後ろにいられると落ち着かねえからな。ま、まあ、でも、俺はお前の下手な歌くらいは聴いてやってもいいと思ってるぜ。たまに上手くなってるかもしれねーからな」

「ふふ、旦那のために歌うのは好きよ、あたし」

「ふん。俺は迷惑だよ。でも、そんなに歌いたいなら、お前が飽きるまで、俺の為にピーチクパーチク歌ってろ」

「うん」

 じんわりと、ユーレッドの体があたたかい。

 けれど、やはり、彼は体臭らしいものがないのだ。煙みたいで消えていきそうで、ちょっと不安になるぐらい。ただ、今はこうしてつかめている。それだけでいい。

 これで、ようやくあの時のことを忘れられる。ユーレッドの言う通り、きっと花を手向けるのは今年が最後だ。

「でも、あたしね」

 ウィステリアは小声でつぶやく。

「貴方のこと、今でも大好きなのよ。ネザアスさん」

「はァ? ウィス、お前、なんか言ったか?」

 耳の良いユーレッドが聞きとがめて、不機嫌に聞き返す。

「なんでもなーい」

 クスリとウィステリアは笑う。

「今日のお礼に何か美味しいものを作ってあげる。この間ミカンの缶詰が大量に出てきたの。そのデザートと甘ーいカフェラテにしましょう」

 ユーレッドがいらだつ。

「はァ? ふざけんな! お前、俺は甘いものが嫌いだってんだろ! 特に珈琲はブラックしか飲まねえって! てめえ、いやがらせか?」

「あら、旦那、味覚音痴じゃなかったの? 塩と砂糖の区別がつかないってみんなに言われてたじゃない?」

「そ、そ、それぐらいは、わかる……ぜ? ただ、ちょっと……繊細な違いとかは……」

 ユーレッドがトーンダウンするのを、ウィステリアはくすくすと笑う。 

「ふふっ、いやがらせに決まってるでしょ」

 ウィステリアは、いたずらっぽく言った。

「約束を破るような悪い男には、嫌いなものでも食べてもらわなきゃねえ」

「はァっ?」

 

 ふと後ろを見る。海の向こうに観覧車と、そしてその遠くに細くなった泥の滝が見えていた。いまだにあの滝は止まらず黒い絶望の泥を振りまいている。

 相変わらずあの色は絶望の色なのだ。

 しかし、ウィステリア、かつてのフジコ09は思い出すのだ。

 黄昏時が一番きれいだ。そんな風に言った奈落のネザアスの言葉を。

 輝く陽光が、朽ち果てた観覧車をキラキラと映し出す。こんな黄昏の世界でも、それは相変わらずきれいだ。黄昏時だからこそ、その様はきれいなのかもしれない。

 本当は穢れだけを流しているのでないあの滝ですら、必要な要素なのだ。

 それは本当は呪いでなくて祝福で、やがて迎える新しい日々への餞なのかもしれない。

「やっぱりな」

 不意にユーレッドの声が聞こえた。ネザアスよりもハスキーで、少し声がつぶれている。

「あの観覧車、雨上がりの黄昏時がきれいだぜ」

 ウィステリアはふと目を見開き、うなずいた。

「本当ね」

 ウィステリアはそっとユーレッドの右袖を引っ張った。



【霜月は雨、楽園廃墟の観覧車……完】


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