26.黒騎士のディール ー対価ー
黒い飛沫を上げながら、真っ黒な泥水が空から落ちてくる。
「君の任務は、あれを止めてくることだよ」
遠くに見える複数の泥の滝を指差し、養成所の教官がフジコに言った
「泥の止め方を説明しておくね」
あれは
危険性を指摘され、作られた
処分に困った管理局は、それを一箇所に溜め込んで下層に流し、広い下層の、役に立たぬ娯楽施設の奈落を使い処理しようとしたらしい。ただ、そのパイプをつなぐバルブが破損したり、貯蓄槽の底が抜けて漏れ出したのが、この酷い光景の始まりだという。
「それで、どうやって止めれば良いんですか?」
「奈落の中央管理センターに、バルブやパイプの修理システムがある。本来なら動くはずだが、なんらかの事情により止まってしまい、再起動が必要な状態だ。しかし、奈落が危険な場所になって近づけない。泥への耐性のある君なら、入り込んでシステムの再起動ができる。それができれば、ある程度自力で直っていくだろう。専門的な知識もいらない。ボタンを押すだけさ」
だが、危険な場所だ。
それを年端もいかぬ、戦闘能力もろくにない自分一人でやってこいと?
青ざめた、しかし、どこかで諦めていたフジコの絶望に、教官は無関心だ。
「力の強い魔女なら、流れ込む黒物質自体を操作して、上層の底やバルブから溢れてくるのを、多少なら止められるかもしれないがね。君はまだ見習いだから」
そこまでは期待しないけれど。と言外に含ませて、彼等は無感動に笑う。管理局の人達は、どこか感情が麻痺しているようだった。
「期待しているよ。フジコ」
*
施設の外に出ると、近くに泥の滝が見える。それ自体は、ここにくる前に見て知っていた。だが、雨が降っているせいか、それが太くなっているようだ。
ばっと暗い空に稲光が走り、雷鳴が轟く。
その泥の滝の麓で、三メートル近い、ヒトに近しいフォルムの何かが蠢いているのだった。
黒い泥をまとわりつかせたそれは、変形した頭からツノのようなものが見えていた。
確かに、それは泥でできた鬼である。
「アレが噂の霜月の鬼か」
ネザアスが舌打ちする。
「また面倒くせえ外見してんな」
「ネザアスさん、どうするの?」
強そうな鬼に傘をさしたフジコは不安そうに声をかける。
「アレだけは無視できねえだろ。霜月と神無月のエリアゲートの真下だぞ。あれを潜らなきゃ次に行けねえぜ」
それに、とネザアスは口の端を片側だけ痙攣するようにひきつらせる。
ぐわああ、と雷鳴と同時に霜月の鬼が吼える。そして、彼等に向けて威嚇するように両手を広げた。
「アイツ、おれたちを認識してやがる。逃げたところで追いかけてくる。あっちがそのつもりなら、こっちもそのつもりでやるまでさ」
「でも、あんなに大きい」
「泥の滝の真下にいるからな。栄養素が豊富なんだろう。強化剤の含んだ廃液吸ってご機嫌なんだろうぜ」
ふん、とネザアスは嘲笑した。
「それじゃ泥の滝があると、不利だよ」
「ああ、しかし、泥の流入を止めるためには、お前が命令されている通り、中央管理センターに入って修復システムの再起動を行うしかねえんだな。止めて戦うのは無理だ」
それが師走エリアにあるのだ。だからフジコは霜月エリアに降り立った。
今もそう。霜月と師走のエリアの境界線の汚染と破壊が激しくて進めないため、ネザアスの判断で、遠回りとなる逆回りで進んでいるが、最終目的地はそこである。
中央管理センターへの侵入は、長年派遣された白騎士が失敗している任務だ。
なお、聞くところによると、ネザアスやドレイクのような黒騎士ですら、過去、管理センターへの立ち入りはできずに修復ができないのだ。というより、叛乱を起こした黒騎士と同型である彼等には、管理センターへの立ち入り許可が出ていない。防衛システムに拒絶され、攻撃される。
管理センターは奈落が閉鎖されても、このエリアの天候や自然を操っているシステムだ。だが、閉鎖されてから中央からの遠隔操作を受け入れなくなっており、それが奈落の荒廃の一因にもなっていた。元から許可されていた白騎士や魔女ならまだしも、閉鎖前から特に侵入を禁じられていた黒騎士の彼等の拒絶を書き換えられないらしい。
しかも、管理センター自体の黒物質の汚染も激しい為、それらを修復しながら進む必要がある他、システム上の立ち入り許可を得ている必要もある。
つまり、黒騎士といえど、この任務に中央派遣の魔女の協力が不可欠だった。
また魔女とはいえ、条件もある。静寂のドレイクこと、タイブル・ドレイクのパートナー、ミナヅキ・ビーティアは魔女だが、自身は汚染に弱いと語っていたとおり、普段は遊離体と呼ばれる蝶の姿でドレイクに付き従っているが、その姿では管理センターの立ち入りがシステム上拒絶されてしまうらしい。
なので、今奈落にいる魔女で、管理センターに入ることができる可能性が高いのは、中央派遣で生身のフジコだけである。
当初から、奈落のネザアスがフジコの到来を歓迎したのは、管理センターに立ち入りして奈落を修復する絶好の機会を得たから、という一面もあったらしかった。
「あれ、中央管理センターでしか止められないのかな」
「やってみたことはあるんだが、各エリアの支部センターの修復機能は中央センターの管理下にある。いくつかは俺の権限でも入れたが、変更を受け付けやがらねえからな」
ぐわああ、と霜月の鬼が咆哮し、周囲の枯れた柳の木をなぎ倒す。そして、近づいてきた別の泥の獣を掴んで争い出した。どうやら共食いしているようで、掴み潰して取り込んでいる。
「まぁ、あっちもやる気だしな。やるだけやってみてから考えるぜ」
「うん」
この間のネザアスの負傷が、フジコにはトラウマだ。不安な顔をしたフジコに、ネザアスがにやっと悪戯っぽく笑う。
「心配するな」
ネザアスはぽんとフジコの頭に手を置く。
「おれは不死身だぜ。それに、お前もスワロも助けてくれるだろ」
ぴぴ、とスワロがネザアスの肩で鳴く。
「いくぜ、お嬢様。おれがヤバくなったら、いい声で歌ってくれ」
「わかった」
フジコが頷いたとき、ふと、スワロがぴっと通知音を鳴らした。何か通信が入ったようだ。
相手が分かったのか、ネザアスの顔が緊張した。
『やあ、ネザアス』
その声は創造主アマツノ・マヒトの声だ。
『戦闘前にごめんね。一応、あの霜月の鬼のこと、お話ししておこうと思って』
ネザアスはふっと皮肉っぽく笑う。
「連絡をくれるとは、どんな風の吹き回しだ、アマツノ?」
『この間、君が怒っていたようだから』
アマツノのふわりとした声が聞こえる。
『だから、データもらう前にお話ししようと思って』
「ほほう、気を遣ってもらったのか」
アマツノの気遣いは、相変わらず明後日の方向を向いている。
『アレは普通の泥の獣じゃないんだ。君を狙ったような新規黒物質投与兵士の残骸を取り込んだ獣が、さらに強化剤が浴びせかけられて変化している。攻撃性だけでなく、人間的な知性が少し残っていて厄介なんだ』
「そうだろうな」
ネザアスは冷静だ。
「アイツら、お前が作ったパン生地野郎に黒物質を投与したもんだろ……。黒物質は生体には合わねえから、すぐ発狂しちまう。おれやドレイクみたいな、フルタイプの、まあ、おれたちはイカスミ入パン生地みたいなやつだけど、そんな"作られたニンゲン"だったら多少は保つし、汚染されても多少の知性が残るってことか?」
『そうだね。でも、僕は、あんな粗悪な連中を蔓延らせるのは嫌なんだよ。けれど、彼等が獣化した存在は興味があるし、どう動くのかとか好奇心をそそられる』
狂気めいたアマツノの無邪気な言葉が、フジコには不気味だ。
『だから、君がどう戦うのか、データが欲しいんだよ。だめかな?』
「そういうと思ったぜ」
ネザアスは薄く笑う。
「まあいい。おれもあとで連絡するつもりだった」
霜月の鬼は、共食いを終えてネザアス達の方にゆっくり近づいてくる。
「アマツノ、ここは
不意にネザアスが告げた。
『
「お前の望む通り、データは渡してやる。ただそれなりの対価を寄越せ。等価交換といこうぜ?」
『等価? 何が欲しいの?』
「お前にすれば、ちょっとしたことだ。データの受け渡しは公開でやる」
『公開? さては、オオヤギさん達にもわかるようにするってこと?』
「多少はな。だが、暗号化する。暗号はおれの好きな鏡文字の暗号で、お前は知っているがアイツらは知らねえ、懐かしいやつだよ。しかし、そこにお前にとってちょっと不都合な話を盛り込むぜ。バレたらお前が失脚するかもしれねえやつ。そうだな、例えばお前が権力握る時に、かなり後ろ暗い方法で資金調達したり買収したりしたやつ。おれはそこに同席して、詳細リストを持っているよな?」
『おや、ネザアス。僕を脅すの?』
アマツノの声が低まる。不穏な気配を滲ませるアマツノを、ネザアスはあやすように楽しげにいう。
「脅しじゃない。これはゲームだ。だから
『それはそうだったね』
「ああ、そうだよ。失脚の危険なんざあ、ただのスパイスだ」
霜月の鬼の咆哮が轟く。
スワロが肩から飛んだ。
そして、ぽんと奈落のネザアスが、フジコの頭に手を置いてからたっと走り出す。
あ、と声をかける彼女に、ネザアスは心配するなと手を上げた。
「アマツノ、それでな」
フジコから遠ざかりながら、ネザアスは告げた。
「おれがほしいのは、フジコ09の身の安全だ。あの娘に鏡文字の暗号の解読法をアナログで渡した。これはゲームだよ、アマツノ。それをあの娘が持つ間、お前は対抗勢力からあの娘を守れ。妙な改造もするな。そういうルールだ」
『ふふっ、なぁんだそんなこと』
アマツノ・マヒトが楽しそうに笑う。
『君は面白いことを考える。ドレイクも似たようなことを頼んできたけど、彼は大真面目だったよ? それに比べて、君は楽しいね。昔と同じだ』
アマツノがうなずいた気配がする。
『僕にはあの子は、そんなに価値が高くない魔女だ。しかも、暗号解読法をあの子からそれを取り上げてしまうのだって簡単。でも、なるほど、ゲームだもの。ルールがある方がいい。それなら僕も楽しい。少し危険な方がよりね』
「話がわかるな、アマツノ!」
ネザアスが煽るように言った。
「どうせだったら、楽しく遊ぼうぜ?」
『いいよ。その取引に乗ってあげる。遊ぼう、ネザアス。僕は君のそういうところが好きだ』
「良かったぜ。よし。それじゃあ、手始めにアイツを
『データ楽しみにしてるよ』
アマツノが楽しそうに返答する。
それを確認して、ネザアスはふと笑う。
雨が降る中、彼の目の前に霜月の鬼と泥の滝が迫る。
「さて、さっくり勝負と行こうぜ!」
奈落のネザアスは、鞘ごと抜いた刀を口にくわえてざっと抜いた。
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