27.霜月の鬼 ーほろほろー

 雨が降っている。

 それに当てられて軋む、大きな霜月の観覧車。あれはここにきた最初から見えていた。それは巨大なもの。そして、霜月を巡りながら、再びフジコの近くで雨に打たれて、その朽ち果てた姿を見せている。

 黒く染まる泥の雨。それは絶望の色に似ている。

 しかし、その絶望の色の雨の中、フジコは奇蹟を祝う歌を歌っていた。


 フジコの前で、雨の中の黒物質ブラック・マテリアルが小さく弾けて集まり、雨粒のように周りを躍る。

 泥の塊は黒物質を含む。黒騎士の構成がそれに近しいように、黒物質だけが悪いものではないことをフジコは知っている。優しいネザアスと、彼女を守る泥の塊は、同じもので出来ていた。

 雨を縫うようにスワロが飛び交う中、大型の霜月の鬼が太い手を振り回す。その度に表面の泥が飛ぶ。

 剣から伸ばしたケーブルを左手の手首あたりに接続し、奈落のネザアスが鬼と対峙していた。

「ちッ」

 攻撃態勢に入っていたが、大きく踏み込んでそれを避け、奈落のネザアスは追撃を避ける。

 雨に濡れて、彼の衣服や顔に薄く黒い雨が付着する。

「はは、流石に楽には勝たせてくれねーかァ」

 ネザアスは苦笑して、スワロからの情報を通じて最適な戦法を確認する。

「全く、武器を使わねえから大丈夫と思ったが、"人間らしい行動"とはそういうことか? 何人誰を食ったのか知らねえが、元の人間の戦闘経験に基づいた動きしやがって! 黒騎士の叛乱の時の、あいつら相手にしてるようなもんだな」

 ふとネザアスは笑みを強める。

「だが、久々に血が躍るぜ。こういうの、嫌いじゃねえ」

 わずかながらスキがある。ネザアスは、霜月の鬼の左胴を切り上げる。霜月の鬼は雷鳴のような悲鳴をあげるが、すぐさま、切り返してネザアスにこぶしを下した。直撃はさけたが、泥を浴び吹っ飛ばされる。

「ネザアスさん!」

 フジコは思わず身を乗り出した。

「来るな! ウィス!」

 ネザアスの声が鋭く飛んだ。

「そのまま歌って身を守れ」

 ネザアスが起き上がり、慌てて上から踏みつぶされそうになるのをかわす。

 霜月の鬼は、少なくとも三メートルはあったが、最初見た時より大きくなっている。長身のネザアスの二倍以上の大きさがあり、強化されている黒騎士のネザアスとはいえその体格差には手こずらせられていた。しかも、こうした力押しの敵に対しては、隻腕のネザアスは確実に不利だ。

 が、そこは戦闘経験の豊富さと技術の高さでカバーする。

 相手が掴みかかってきたぎりぎりをかわし、カウンターで相手の力を利用しつつその左腕にあたる部分を斬り落とす。

「やった!」

 フジコがほっとしたが、霜月の鬼は咆哮しながらその左手を振り回す。泥の飛沫が飛び散り、そして枝分かれした腕が生えてくる。

「何!」

 ネザアスは飛沫から目をかばいながら移動していたが、鬼の足が伸びた。その距離感がつかめずに反応が遅れ、ネザアスを蹴り飛ばされる。

「がはっ!」

 鳩尾あたりに膝蹴りをくらい、ネザアスが崩れたところを上から踏みつけられる。

「ネザアスさん!」

 しかし、霜月の鬼が二度目に踏みつけようとした時に、ネザアスはかろうじてそこから逃れた。追撃しようとした霜月の鬼の前に、スワロが飛び込んでくる。スワロには攻撃能力はないが、鬼はそれに反応してネザアスへの攻撃を一瞬中止した。

 ざっとすばやく退いて、咳き込みながら相手を見上げる。

「ちッ、モロに入ったじゃねえか」

 口元をぬぐいつつ、ネザアスは顔をしかめる。

 霜月の鬼は、後退して滝を浴びる。滝から出てきた時は、豊富な泥と強化剤を浴びてその体が大きくなる。

「回復もしてやがる! くそっ!」

「ネザアスさん! このままじゃ無理だよ!」

 フジコが思わず声をかける。

「あの滝がある限り!」

お嬢レディ、でもな、ここは逃げられねえんだよ。滝は止められねえし、あいつは必ず俺とお前を殺しにくる」

 ネザアスが左目をきらめかせて、霜月の鬼を睨む。撹乱していたスワロが、捕まりそうになり急旋回してネザアスの肩に戻る。

「そうだ、滝を、止める。止めればいいんだ。一時的にでも」

 ふとウィステリアは、上層から注ぐ泥の滝を見上げた。あれは、おそらく底が抜けているか、パイプが破れているかなのだ。かつて養成所の教官が言った。力のある魔女は、一時的にそれを修復できる。

(あたし、見習いだし、やったことないけど)

 フジコはぎゅっと傘の柄を握る。

(あの黒物質は、全てが悪意に汚染されているわけじゃないんだわ。だとしたら)

「ネザアスさん」

 フジコは声をかけた。

「あたし、歌であれを止められるか試してみる」

「まさか。アレは無理だろ」

 ネザアスが驚いた様子になるが、フジコは強く告げた。

「できなくはないよ! 黒物質は本来魔女とは相性がいいんでしょう。あたしは黒物質は元々は敵だと思っていた。でも今なら違うのがわかる。だったら、できるはずなの!」

 フジコはつづけた。

「悪意のない黒物質なら、魔女の再プログラムを受け付ける。やってみる!」

 ふとネザアスが微笑んだ。

「そうか。わかったぜ。だが無理すんなよ」

 奈落のネザアスはにやりとした。

「騎士としてお前を援護するぜ。レディ・ウィステリア」

 霜月の鬼が彼らに向かって怒りのうなりをあげる。

「さあ、行くぜ! 歌え! ウィステリア!」

 ネザアスがだっと左足から踏み切って走る。それに霜月の鬼が反応する。

(落ち着け。落ち着いて、集中して歌うんだ)

 フジコは傘から手を放す。雨に打たれることになるが、多少なら感染しないはず。

 第一、黒物質は決して敵ではない。

(黒物質はネザアスさんと同じなんだ。あれは穢れなんかじゃない。人間の都合で作られて穢されて、忌々しいものとして処理されているだけ。本当は、友好的なもののはずだった)

 フジコは口を開く。ネザアスの好きなA共通語の歌。この奈落、いやこの世界にもいないだろう、神をたたえる歌。そんなもの、フジコだって信じていないけれど、もしそういうものがいるのだとしたら、黒騎士、奈落のネザアスを自分の前に遣わしてくれたことだけには感謝したい。

 そして信じていなかろうが、この美しい旋律と言葉だけは、あの黒物質にだって作用するはずなのだった。

 フジコの透き通った声が、雨の中に響き始める。

 泥の滝の上部は遠い。だが、そこに直接作用しなくてもいい。下にたまっていく黒物質を”書き換え”て、上の破れを一時的にでも修復できればいいだけだ。

 フジコの足元で跳ねていた泥の塊が、静かに集合する。それは滝の近くの泥についても同じだ。飛沫を飛ばしていたそれらが、徐々に動きを鈍くする。ほとんど液体だったそれらが固まって、柱のようになっていく。

 泥の硬化は霜月の鬼に対しても影響していた。鬼が飛び散らかしていた飛沫が重くなっていく。それにより、ネザアスの攻撃がだんだん通るようになっていた。斬りつけると塊ごと落ちてバラバラになる。

 がああああ、と鬼が咆哮した瞬間に稲光が走った。一瞬目を奪われたらしいネザアスの動きが遅れた瞬間、霜月の鬼がネザアスを捕まえる。

「ネザアスさん!」

 思わず歌を途切れさせてフジコが叫ぶ。握りつぶされそうになりながらも、ネザアスは抵抗していた。

「歌え! ウィステリア!」

 ネザアスが叫ぶ。

「ウィス、おれに構わず歌え!」

 ぐっとフジコは手を握る。もう一度口を開く。

 スワロが霜月の鬼の目のあたりを攻撃すると、一瞬、ネザアスをつかむ手が開く。それを逃さず、ネザアスは素早く飛び出ると腕を伝うようにして鬼の頭を斬りつけた。

 フジコの歌が響き、滝の硬化が激しくなる。霜月の鬼の動きも鈍り始めていた。泥が剥がれ落ち、真っ黒な塊の中心が胸の奥に現れる。

「やっぱりそこがコアか! 今なら攻撃が通る!」

 ネザアスが口の端をゆがめて笑う。

「ここの、霜月の鬼は、おれ一人でいいんだよ!」

 奈落のネザアスが咆哮し、まっすぐに鬼に突きを入れた。その刀身が赤く輝く。苦も無く鬼の中心に刃が通る。

 霜月の鬼は断末魔の悲鳴をあげながら、土くれのように崩れていく。ネザアスは刀を引き抜きながら、崩壊に巻き込まれないように素早く離れた。

 ずしんと地面に音を響かせながら、ただの土くれになった霜月の鬼はバラバラになっていった。

 そこでようやくフジコは我に返って歌を止める。

「ネザアスさん!」

 フジコはネザアスのもとに駆け寄った。

 ネザアスは泥だらけにはなり、小さな傷をつけていたが、さほど大きな傷は負っていないようだ。スワロがネザアスの肩にとまっている。

「あたし、夢中で歌ったから、もしかしたらネザアスさんまで影響されちゃったかと!」

 慌てて駆けつける涙目のフジコに、ネザアスは地面に刀を突きたてて懐紙で拭いながら笑う。

「馬鹿だな。おれはお前の声と相性がいいって言ってるだろう。お前の声をきくと、落ち着いちまうだけだ。それに、ちゃんと影響させる相手を選べてたよ」

「良かった」

「何言ってんだ! お前すごいぞ!」

 ほっとして泣きそうなフジコをネザアスは抱え上げる。フジコは思わずきゃっと声を上げる。

「ほら見ろ! 滝が止まっちまった! まるで黒い柱みたいだな!」

 ネザアスはそういって、滝を見せる。確かに滝は一時的に止まっていた。小さく崩れだしているので、きっとまたもとに戻るだろうが、いつの間にか雨は止み、ほんのり雲の間から差し込む陽光に黒曜石のように輝いてきれいだ。

 朽ち果てた観覧車を後ろに従え、それはテーマパークのモニュメントのようですらあった。

「やっぱり、ウィスの歌は最高だな!」

 ネザアスが興奮気味に言った。

「お前はやっぱりすごい魔女だぞ!」

「ネザアスさんが強いからだよ!」

 思わず赤くなりながら、フジコは言った。

「ははっ、そんなことねえよ。お前のおかげだよ、ウィス」

 ぴぴー、とスワロが同意するように鳴く。

「ううん、ネザアスさんとスワロちゃんと一緒にいられたおかげ」

 フジコはそう言って、きらめく瞳で彼を見上げる。

「そうじゃなきゃ、頑張れなかったよ」

 奈落のネザアスが優しく微笑んで、フジコの頭を軽くなでやる。

 

 霜月の鬼を倒したことで、神無月へのゲートが通れるようになったので、早々にゲートを抜けることにした。

 滝が止まったことで、例の強化兵士が集まってきても困る。ここは先に進んでしまった方がよさそうだった。

 霜月から神無月へのゲートをくぐると、ほろほろと上から紅葉が降り注いできた。

 まるで頑張ったご褒美みたいに、ゲートの中は美しいもみじのトンネルのようになっている。いつぞやの金木犀みたいに、少し降りすぎなのでシステム自体はおかしくはなっているのだろうが、その光景は美しかった。

「紅葉、綺麗だね」

 フジコがそうつぶやくと、ネザアスがうなずく。

「そういや、霜月エリアは紅葉あんまりなかったもんな。十一月の気候だが、テーマ的に雨の庭だからよ。だが、今度は紅葉の庭なんだ」

「神無月のテーマは紅葉なの?」

「ああ、神無月の花札って紅葉だから。霜月よりも綺麗かもな」

「それじゃあ弥生エリアは桜なのね。すごく綺麗なんだろうな」

「その前に卯月の藤もあるんだぜ」

 とネザアスは微笑んだ。

「お前と同じ名前の花の、すんげえトンネルがあって、それはそれは綺麗なんだ。ホトトギスの声が聞こえてて」

 ネザアスは目を細めて言った。

「お前に是非案内したいな。枯れてねえといいんだが」

「本当! 楽しみ!」

 フジコははしゃいで足が軽くなる。

「ほかにもいろいろとあるんだぞ」

 ネザアスが楽しそうに言う。ぴぴーとスワロが同意するように鳴きながら、フジコの肩に飛び乗った。

「まだまだ先の話だが、お前に奈落案内できるのが楽しみだぜ。ウィス」

「あたしもだよ。ネザアスさん」

 フジコは弾けるような笑みを浮かべた。

「あたしね、奈落に来られて、本当に良かった!」


 *


 小舟が静かに波間を行く。

 ぎいぎいと手漕ぎの舟が音を立てる。この科学技術に偏重した現在においても、その島にわたるときだけは手漕ぎの舟が使われ、年老いた船頭が渡してくれる。

 黒い海に小さな島が浮かび、今は灯をともされていない灯台が曇って濁った空の下にそびえていた。

 小舟に立っていた女は、”聖なる”炎を移した種火をカンテラの中で守っている。

 長いローブは魔女の衣装。

 彼女は中央派遣の新しい灯台守りの魔女だった。

 黒い海。生き物の気配すらない沈んだ海は、黒いヘドロだけがたまり静まり返っている。

 灯台の向こうでは空から泥の滝が降り注いでいた。かつてそこだけはどうしても修復できなかったというそれは、いまだにこの下層ゲヘナを汚染している。

 小舟は島の桟橋にたどり着く。

 船頭の老人が、荷物を灯台まで運んでくれた。

 切れ長の目をし、赤い唇をした美しく妖艶な女だった。その姿は、魔女という名がふさわしい。

「ここでいいわ。ありがとう」

 灯台守の宿舎の前で、女が透き通った綺麗な声で言った。その女の声は不思議な響きがあり、人を魅せる力がある。

 老人は少し心配そうに周りを見回した。

「お嬢さん、こんなところで一人で不便はないかね」

「大丈夫。慣れているから」

 女はそう言って微笑する。そして、ふと小首をかしげた。どこか小悪魔的だ。

「おじさんは優しいのね。あたしみたいな魔女に」

「魔女といっても、お嬢さん達はわしから見るとただの娘さんだからのう」

 ふと老人が優しく笑う。

「自分の娘を思い出してしまうんじゃな。それに魔女の子達はみんな良い子じゃったし、触れると感染するなどという噂が間違いなのも知っているよ。皆、我々のために働いてくれているのに、ひどいことをいうものだ。気の毒だよ」

「ふふ、ありがとう。そう言ってくれるだけで、嬉しいわ」

「もし何かあったら言っておいで。わしは対岸にいるから。必要なものを用意してあげよう。それに、ここには泥でできた魔物も多い。気をつけて」

「ありがとう」

 女は礼をいって、船頭の老人を見送った。


 ぽつんと一人だけ、灯台の島にたたずむ。

 花畑が広がる。

 そして、生き物の気配もない汚染された黒い海。

 美しいが、孤独だ。そして、そんな美しさを壊すような、海に穢れを降り注ぐあの泥の滝。

 その滝の近くで、女は意外なものを見つけた。

「ああそうか。ここだったんだ」

 女はふとため息をついた。

 海に沈んだ観覧車が半分だけ見えている。

「ここ、あの奈落の、あの場所だったのね」

 以前の彼女なら、ここでほろほろと涙を流したのかもしれない。

 しかし、今の彼女は静かに、凍りついたような瞳で、それを眺めてふと目を細めただけだった。

 雨が降ってきた。ほんのりと黒いそれは、相変わらず絶望の色をしている。


 それを見つめる女の瞳は、藤色をしていた。

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