母としても、女としても

 隼人たちが学校に行っている間、亜利沙や藍那の母親である咲奈もまた自分の仕事をしている。


 咲奈は業界でもかなり有名なランジェリーショップを経営しており、利用する女性客からも大きな評価を得ていた。隼人と接する時の大人しい印象を思わせる姿とは裏腹に、職場での彼女は本当に出来る女という姿を見せている。


 優しい物腰だが、時には厳しく、けれども社員が心に負担を受けない絶妙なバランスで接している。利用客から良い評価を得ていることはつまり、そこに勤めて働く人たちの対応も素晴らしいということだ。


 良い仕事というのは色んな意味を持つだろうが働いていて楽しく安心出来る場所というものであったり、給料も良くてその他の待遇も良い……それが咲奈が経営する店での共通認識だった。

 だが、つい数日前からこんな噂が社員の中で囁かれていた。


『最近新条さんが楽しそう』

『幸せそう』

『いつもよりも更に若々しく見える』

『エロい』

『女でさえも狂わせてしまいそうな香りを放っている』


 等々、咲奈に対する色んな言葉があった。

 その理由について社員の中で囁かれるが、当然その原因については分からない。ただ新しい男が出来たのでは、そういう的を射るものは少なからずあった。


 さて、そんな風に噂の的である咲奈は近所のスーパーで食材の買い出しをしていた。娘たちだけでなく、心の支えでもあり愛おしい存在となった隼人のために今日も美味しい料理を作るためだ。


「今日は何にしようかしら……」


 何を作れば隼人が喜んでくれるか、それを考えるだけでも咲奈は楽しかった。ずっと忘れていた愛する人に尽くすという感覚、それは三十代後半になった咲奈に無限大の若々しさを与えていた。


「ふんふんふ~ん♪ ふふふ~ん♪」


 鼻歌を口ずさみながら買い物かごに食材を運んでいく。

 学校で美人姉妹と評判の娘たちの母である咲奈は、娘たちにはない圧倒的な大人としての魅力を兼ね備えた女性だ。こうやって買い物をしているだけでも、彼女は多くの視線を独占する。男も女も関係なく、みんなが彼女に目を向けていた。


「すみません、少しよろしいでしょうか?」

「興味ないので失礼します」


 スーパーという多くの人が賑わう場所でさえ、咲奈はよく声を掛けられる。あの忌まわしい事件のように刃物を突き付けられ、娘たちが巻き込まれてしまったイレギュラーがなければ基本咲奈はこうした態度を取る。


 今の咲奈が大切にしているのは隼人と娘たちだけ、故にそんな幸せの隙間に土足で入り込もうとする人間は嫌悪の対象でしかなかった。そう、あの二人の母親である咲奈もまた異性がそこそこに嫌いだった。


「こんなものかしらね。さてと、今日も美味しいご飯をご馳走しなくちゃ」


 愛おしい彼の喜ぶ顔が見たい、咲奈の中にあるのはただそれだけだった。


「……隼人君♪」


 会計を済ませ、持って来ていた袋に食材を入れていく。

 そんな時だった。隼人と名を呟いた咲奈の様子が変化したのは。


「……はぁ……ふぅ」


 悩ましい吐息を零す彼女の様子は異様だった。

 頬を赤く染め、瞳を潤ませ、完全に母の顔を失った女がそこには居た。咲奈が無意識に垂れ流す女の香りが巻き散らかされ、周りの人は何かは分からないが咲奈へと視線を向け……そして心を弾ませる。


「……ちょっと、何見てるのよ!」

「あ、ごめん!」


 近くのカップルが喧嘩を始めた。


「あなた? どうしたの?」

「……ああいや、何でもない」


 愛する妻が居るのに視線を外せない夫が居た。

 周りの人間を夢中にさせるとてつもない色香、それを咲奈は車に乗るまでずっと放ち続けるのだった。





「ふぅ……隼人君、ありがとうございます」

「いえいえ、これくらいお安い御用ですよ」


 夜、俺は咲奈さんの肩を揉んでいた。

 一緒に食器を洗っていたのだが肩を庇う仕草があった。それで肩もみをさせてくださいと言ったのだ。


「凄く上手ですね。とても楽になりましたよ」

「本当ですか? 昔に母さんにもしてたんです」


 そう、昔に事あるごとに母さんにやっていた。

 まだ子供だからこそどうやってお返しをすればいいのか分からない時、肩もみってのは分かりやすい恩返しの形だった。母さんの後ろに回って肩を揉む、ただそれだけのことなのに母さんはとても嬉しそうだった。


「隼人君は本当に優しい男の子ですよ。その時、お母さんも嬉しそうにお礼を言ったのではないですか?」

「そうですね。嬉しそうにしていたと思います」


 頭を撫でてくれて……俺の大好きな優しい笑顔でお礼を言ってくれたんだよな。

 昔のことを思い出しているとそっと頭の上に手が置かれた。それは当然咲奈さんのもので、彼女は俺の頭を撫でながら口を開く。


「ありがとうございます隼人君。お母さん、嬉しかったですよ」

「……っ」


 だからお母さんっていうのはやめてほしい、それは嫌ではなくその言葉に俺は弱いのだ。甘えたくなる気持ちが前面に出てきてしまい、そうなると当然のように俺は咲奈さんの胸元に顔を埋める。


「ふふ、もっともっと甘えてくださいね♪」


 甘い……本当に甘い誘惑を秘めた言葉だった。

 まあでも、今日の俺はいつもと違う。咲奈さんの胸から離れ、今度は俺が咲奈さんの体を抱きしめた。


「隼人君?」

「事あるごとに甘えていると思いますけど、それは咲奈さんもですからね?」


 俺にとって、この人も大切な存在なんだ。

 俺よりも大人の咲奈さんだけど、思えばこうして俺が彼女をリード……というと少し違うかもしれないが、こうするのは珍しいだろうか。


「……隼人君」


 咲奈さんが俺の首に腕を回して来た。


「私も時々甘えてもいいですか? 可愛い隼人君、でも凄く頼りになるかっこいいあなたに」

「……あはは、かっこいいかはともかく全然いいですよ」

「嬉しいです凄く」


 ……今日は咲奈さんが凄く可愛いな。

 さっきも思ったけどこの人は俺よりも遥かに年上だ。それなのにその若々しい見た目も相まって、その雰囲気も合わせて少し年上くらいにしか見えないなやっぱり。


「本当にお姉さんに見えますね咲奈さんは」

「そうですか? それなら亜利沙か藍那に制服を借りて着てみます? ちょっと胸が苦しいかもしれないですが」


 ……ちょっと見たいと思ってしまった。

 ただ、あの二人の制服ですら胸が苦しいと言わせる咲奈さんの恐るべき大きさにはやっぱり驚愕する。


「……あぁいえ、やっぱり遠慮します!」

「咲奈さん?」

「ちょっと調子に乗りました……私はもうすぐ四十のおばさんなので、流石に娘の制服を着るのは難易度が高すぎます!」


 まあ、その見た目で三十代後半というのがまず無理があると思いますが。

 それから二人で風呂に入っていた亜利沙と藍那が戻ってくるまで、俺は咲奈さんと雑談を楽しむのだった。




「ねえ隼人君」

「どうした?」

「お母さんが私に制服を貸してって聞いてきたんだけどさ、ちょっと見に行こ!」

「お、おう……」


「……やっぱりキツイ……あ、ボタンが」

「……………」

「うわぁ……ボタンが弾け飛ぶのって現実でもあるんだね」



【あとがき】


基本的に咲奈さんは出番が二人に比べて少ないです。

その理由は単純で……分かるでしょう――扱いづらいんです(笑)

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