また一つ、やっちまったな

「……はぁ。何だろうこれ、ずっと胸がドキドキしてる」


 家に帰ってからずっと、彼女――堂本奏は少し前のことを思い返していた。

 しつこい男に絡まれ、もう少しでもしかしたら手を出されていたかもしれない恐怖を味わった。けれどそうはならず、一人の男性が奏を助けてくれた。


「大きな背中だったなぁ……声も優しかった。本当に優しい声だった」


 安心を齎してくれる大きな背中、そして奏を労わる優しい声音、もうずっとあの彼の声が奏の中で反響している。


『大丈夫だったか?』

「……っ……なにこれ、本当にドキドキが止まらないよ」


 まだ学校の制服なのにベッドに背中を預ける奏はゆっくりと手を胸元に置いた。

 今年高校生になったばかりでまだまだ幼い顔付き、無垢な印象を与える見た目だがその体は立派な女を形成していた。膨らんだ胸に手を置くと、その膨らみがあるにも関わらず手の平に心臓の音が伝わってくる。


「……はぁ」


 それほどに、奏の脳裏からあの男性が消えてくれないのだ。

 あの絡んできた男のように質の悪い輩に絡まれることはそんなになかったし、ましてやあの男性のように守ってくれた人とも出会うことはなかった。


「……男性は苦手……でも、あの人は……なんかお兄さんみたいだ」


 兄みたい、どうしてそんな言葉が口から出たのが奏自身も分からない。


「……このプレゼント、ママ喜んでくれるかな」


 嫌な出会いと素敵な出会い、二つを送り届けてくれた原因でもある母へのプレゼントを手に取った。


「……はぁ。最近は色々あったなぁ」


 最近知った家族の話、それを考えると少し胸のドキドキが収まってくる。

 奏の両親は共に仲が良く、同時に奏のことを慈しんでくれる素晴らしい両親だ。だがその出会いは結構特殊だったと、それを聞いた時は驚いた。


 父には元々想いを寄せる女性が居り、母にも良縁を結ぶために結婚相手が用意されていたらしい。そう、元々二人は別の人と一緒になるかもしれなかったわけだ。


 母が結婚するようにと決められた相手は父の兄であり、その人が家を出て行ってしまったことで破談となった。その埋め合わせに選ばれたのがその人の弟である父だったと奏は聞いた。


「……こんな複雑なこと聞きたくはなかったな」


 結局同じ家の人と結ばれたのだから良縁と言ってもいいだろう。だが、母はともかく父の方にはいくらかの葛藤はあったらしい。けれど幸いにもそんな過程で結ばれた二人だが仲は驚くほどに良好だった。


『確かに兄のせいで色々狂った分はある。だが生まれてきた君に出会えたことは僕にとって幸せなことだ』


 今や一つの会社を束ねる社長になった尊敬できる父が奏にそう言った。母と過ごしているのは決して形だけのモノではなく、心から愛しているのだと思えたから奏は安心出来たのだ。


「……あの人は……あ、また考えてる」


 ついさっきまで父と母のことを考えていたのに、すぐにそれを塗り替えるようにあの男性のことで埋め尽くされていく。

 どうしてこんなにと困惑はしても嫌ではなかった。やっぱりあの男性を考えている時はいつもよりもドキドキして何故だが心地良いからだ。


「パパみたい……でも、お兄さんみたい」


 父のような安心感、兄が居たらこんな風じゃないかと思える安心感、どうしようもないほどに奏の中であの男性の存在が大きくなっていた。


「……お兄さん……か」


 奏が目を向けたのは漫画が敷き詰められた本棚だった。

 そこには友人から勧められた漫画も結構あるが、それよりも当然自分が買ったものが大量に収納されている。

 そのほとんどの漫画に、ある一つの共通点があった。


「……お兄さん……えへへ」


 そこにある漫画のほとんどが兄を題材としたモノだったのだ。

 兄と恋愛する妹モノ、そこには血の繋がりがあるものであったりそうでないものも様々だった。中には子供が読むには少し鬼畜な内容のモノも存在しており、奏はとにかく兄というモノに憧れていた。


 昔から父以外の男性とあまり接する機会がなかったこともあり、こんな人なら優しくて安心出来ると考えたのが漫画で出会った色んなだった。


「お兄さん……あの人がお兄さん……っ!」


 あのお面を取ってその表情を見てみたい、きっと優しい顔立ちをしているのだろうと奏は思う。

 あの大きな手で頭を撫でられたい、あの逞しい腕で抱きしめられたい、ただただ名前を呼んで欲しい……あの人の妹になりたい、割と本気でそう考えた。


「……お兄さん……お兄さんが望むなら私はどんなことだって」


 既に一人妄想の世界に奏は入り込んだ。

 想像の中で今日出会ったあの男性が自身の兄になっている世界を夢想する。それは正に素晴らしき理想の世界だった。


 優しく声を掛けてくれる兄、頼りになるけど弱々しい一面がある兄、この身を貪ってくれる兄……血の繋がりがあったりする実の兄妹ならもっと興奮してしまう。


「……はっ!?」


 気づけば奏は気を失っていた。

 目を覚まして上体を起こすと、足回りが大変なことになっておりまたやってしまったと溜息を吐く。


「……またやっちゃった。でも……えへへ、今日は凄く良かったぁ♪」


 まだ十六歳になったばかりの少女だというのに、鏡に映る自分の顔を見た時奏はとても驚いた。自分がこんな顔を浮かべるなんて……そう驚いていた。


「……でも、どうしてこんなに気になるのかな? また、会えるかな?」


 お面を被っているだけでも普通と違うが、だからといってここまで気になることの理由はやはり分からない。どれだけ考えても分からなかったが、奏はまたあの人に会いたいとそう思うようになった。






「は……はっくしょん!!」

「あら、風邪?」

「いや……誰か噂でもしてんのかな」


 ムズムズする鼻に手を当てると亜利沙がティッシュを渡してくれた。


「ありがとう」

「ふふ、どういたしまして」


 確かに寒い時期だけど別に風邪ではないと思う。どうせ友人辺りが俺の噂をしているんだろうか。


 あの後、俺はあの女の子を助けてからすぐに家に帰った。

 すると当然のように亜利沙と藍那が待っていてくれた。こうやって家で会うとまずはお互いに抱擁から始まり、そしてキスを交わす。雰囲気によってその先に発展することが多いが今日はそうならなかった。


「……あぁ肩いてえ」

「続きは夜にしましょうか」

「そうだな」


 帰ってからすぐ、風呂まで時間があったので控えている学期末テストの勉強を三人でしていたのだ。

 亜利沙と藍那は頭が良く、二人に教わる形で俺も勉強をしていた。特に亜利沙の教え方は非常に分かりやすく、どこが間違ってどこが苦手なのかそれを明確に見つめ直すことが出来た。


「隼人君は呑み込みが早くて凄いわ」

「いやいや、亜利沙の教え方が上手いんだよ」

「そう? それなら嬉しいわね。役に立てた?」

「もちろんだ。ありがとな」


 手を伸ばして亜利沙の頭を撫でると嬉しそうに目を細めた。

 さて、亜利沙はともかく藍那も一緒に勉強をしていたのだが……全く会話に参加しないのには理由がある。俺はベッドに目を向けた。


「……もうはやとくん……そこはペロペロしちゃあだめだぞぉ……?」


 途中まで頑張っていたようだが、帰った時から結構眠かったらしくダウンしてしまったのだ。相変わらず可愛い寝顔に微笑ましい気持ちになってしまうが、亜利沙からすればだらしないと思っているらしい。


「全くこの子は……」

「まあいいじゃん。可愛い寝顔だな」

「……そうね。それは認めるわ」


 さてと、それじゃあ風呂の用意でもしてくるか。

 そう思って立ち上がろうとした時、亜利沙がこんなことを口にするのだった。


「ねえ隼人君……一つご褒美をもらってもいいかしら」

「ご褒美? あぁ、全然いいよ」


 何だろうか、続いた言葉は少し意外なものだった。


「その……少しで良いの。お嫁さん気分を味わいたいわ」

「お嫁さん気分? えっと……」


 それはどうすればいいんだ?

 たぶん亜利沙も明確には分かってないだろうけど、取り敢えずイチャイチャすればいいのかな? 俺は亜利沙を抱き寄せた。


「いつもありがとう亜利沙、俺のお嫁さんがこんなに素敵な人だから毎日が本当に幸せだよ……っ」


 言ってて分かった。

 これは恥ずかしすぎる……。


「……うん。あなたのお嫁さんだもの……私も幸せだわ」


 俺と同じように恥ずかしそうにはしても、ちゃんと言葉は最後まで伝えてくる。その様子を見ているとやっぱり愛おしい気持ちが溢れてくるのだ。

 お互いに抱きしめ合って見つめていると、別の声が入り込んだ。


「ばぶぅ……ばぶぅ!」

「え?」

「……藍那?」


 目を覚ました藍那が赤ちゃんのような声を出した。

 俺たち二人を見て仲間外れはやめろとでも言いたげな目を向けてくる藍那に、俺たちは苦笑するのだった。


「隼人君、私は今赤ちゃんだからお世話して! ほらほら!」


 お世話をしろと美少女が駄々を捏ねるこの構図……ちょっと怖いかも。


「あなたみたいな赤ちゃんが居たらたまらないわね」

「姉さんでもいいけど?」

「いやよ気持ち悪い……というか本当にやめなさい」

「……あい」


 どうやら藍那のばぶぅ攻撃は亜利沙からすれば気持ち悪かったらしい。




【あとがき】


可愛い妹ができるといいですね。

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