深淵より伸びる腕は既に足元に

「……これは……マズいかもしれん」

「ぅん……隼人……くぅん♪」


 ボソッと呟いた俺の声に応えるように、甘い女の子の声が返ってきた。

 朝、目を覚ました俺を出迎えたのは肌色だった。俺の眼前にあるのは柔らかそうで弾力のある大きな物体……そう、目を覚ました俺の前にあったのはおっぱいだった。


 いや冷静に状況を説明したけど何がどうなってそうなっているのか分からない。目を覚ましたら何故かこうなっていたのだ。


「……………」


 昨日藍那の部屋に泊まった俺は緊張とは裏腹にすぐ眠ることが出来た。姉妹二人が隣に寝ている空間で良く寝れたものだが……起きたらこうなっているなんて誰も想像出来ないだろう普通は。


 俺と向かい合うように至近距離で寝ているのは藍那で、パジャマのボタンが上から二つほど外れていた。胸に黒子があることも気づいた昨日の発見、今はそれがしっかりと見えてしまっていた。

 俺はゆっくり体を離そうとしたのだが、眠っているはずの藍那は俺を決して逃がさないと言わんばかりに抱きしめてきたのだ。


「むがっ!?」

「……えへへ~♪」


 俺を抱き枕だと勘違いしているのか、寝ている藍那はその胸元に俺を抱き寄せる。柔肉に圧迫されるが決して苦しくはなく、逆にこの柔らかさが女性の象徴なのかと思わせる気持ち良さがあった。

 この状況、どうやって抜け出せばいい? 少し体を動かそうとすればギュッと抱きしめてくる腕に力が込められてしまい抜け出せない。


「……どうするよ俺」


 諦めるな、なんとでもなるはずだ。

 ゆっくり、ゆっくり抜け出そうと試みる俺だったが……背後からまさかの伏兵が現れるのだった。


「……すぅ……すぅ」

「あ、亜利沙?」


 正面から藍那に抱きしめられているのなら、背後から亜利沙に抱きしめられるのもあり得ないわけではない。川の字で三人寝ているからこそ、亜利沙も俺の方に体を向ければこういうことにもなってしまう……普通はならないだろうけどな!


「……天国と地獄だこれ」


 顔面に触れるは藍那の胸、背中に伝わる柔らかさは亜利沙の胸、そして二人から放たれる甘い香りに脳がクラクラしそうだった。どうせならもう少し寝ていろよと自分自身に文句を言いたい。


「……?」

「……あ」


 っと、そこで藍那が目を開けた。

 胸に抱く俺の顔を見て、彼女は目をパチパチとさせている。この状況、どうすればいいんですか教えて偉い人! そんなことを心の中で叫んでも助けてくれる人は当然居ないので、俺は来たる審判を待つだけだった。


 藍那のルビー色の瞳には俺はどんな風に見えているのだろうか、内心でダラダラと汗を掻く俺とは裏腹に藍那はニッコリと笑顔を浮かべた。


「おはよう隼人君♪」

「……おはよう」

「私のおっぱい、気持ちいい?」

「……っ」


 それに俺はどんな反応を返せばいいんでしょうか!?

 顔を上げて見つめた藍那の表情は……何というか、とても優しい笑顔をしており間近だからこそ見惚れてしまう。そして、今が朝ということもありこういう状況だからこそ生理現象というものは起きてしまう。


「……あ」

「……………」


 抱きしめていたのが腕だけでなく、足も絡ませていたので触れてしまったのだ。気づいて少し体を引いてくれたが、頬を真っ赤に染めた彼女に俺は何も言えない。


「……はぁ……うぅん!!」


 そして心なしか藍那の息が荒くなった気がしないでもない。

 相変わらず腕の力は緩まないので離れられないこの状況、ついに亜利沙も目を覚ますのだった。


「……あら? 隼人君の背中?」

「あ、亜利沙さん?」

「どうしてさん呼び? ……って、昨日と逆じゃない」


 ギャクッテナンデショウカ?

 恥ずかしさを通り越して自決でもしたい気持ちの俺を知ってか知らずか、上体を起こした亜利沙が言葉を続けた。


「二人ともやけに顔が赤くない?」


 そりゃ赤くもなるってもんだ。

 どうしたのかと亜利沙が近づいて来る気配を感じた所で、藍那が咄嗟に口を開く。


「隼人君とこんなに近づいてたら顔くらい赤くなるってば。ほら姉さん、大丈夫だから先に朝ごはんの用意お願い!」

「……ふ~ん? まあいいわ。それじゃあ行って……っとその前に」


 亜利沙はちょこんと屈んで俺の顔を覗き込んだ。


「おはよう隼人君」

「……おはよう亜利沙」


 藍那に負けないほどに綺麗な笑顔だった。

 そのまま亜利沙は部屋を出て行き、俺と藍那は揃って溜息を吐いた。まあでもまだ危機が去ったわけではないんだが……。亜利沙が居なくなった段階でようやく藍那が腕を解いてくれたので俺は離れることが出来た。


「申し訳ない色々と!!」


 その瞬間、俺は土下座するように頭を下げた。

 抱きしめられたことは不可抗力だが、その後のあれは俺の忍耐力の弱さが招いた結果である。しばらく頭を下げていると藍那がクスッと笑った。


「全然いいってば。元々は私が抱き着いてたのが悪いんだし」

「……でも」


 ……いや、藍那が良いと言うのならこの話は終わりにしよう。

 あれは不幸な事故だった。そう思わないと恥ずかしさで冗談抜きに死ねる。しばらくすると気持ちも落ち着いてきた俺と藍那は互いに顔を見合わせて笑みを浮かべる。


「……っ……ぅあ」

「藍那?」


 というか、俺が離れてから藍那はずっと布団に包まったまま出てこない。小刻みに震える藍那に首を傾げていると、亜利沙が部屋に戻ってきた。


「二人とも、母さんがもう朝ごはん作ってるから降りてきて?」

「あ、あぁ分かった。藍那?」

「うん……ちょっと遅れていくね」

「? 分かった」


 藍那に見送られるように俺と亜利沙はリビングへと向かった。リビングに向かうと咲奈さんが出迎えてくれたのと同時に美味しそうな匂いが漂ってきた。


「おはよう隼人君、よく眠れましたか?」

「……あ、はい。とても良く眠れました」

「ふふ、それは良かったです」


 娘二人が傍に居たから良く眠れたのかって思われてそうで嫌だな……いや身に余る体験だったのは言うまでもないけどさ。それからしばらくしてスッキリした様子の藍那も合流し朝食をいただいた。

 白米に卵焼き、鯖の塩焼きにサラダと味噌汁……大変美味しかった。今日は日曜日なので特に何もないけれど、こんなに美味しい朝食を食べた日は最後まで頑張ろうって気になりそうだ。基本的に俺はトースト一枚で終わりだし。


「ご馳走様でした」

「お粗末様でした」


 朝食の後は食器洗いを手伝った。

 別にいいからと言われたものの、お世話になりっぱなしというのは嫌だった。咲奈さんと一緒に食器を洗っていると、ふと咲奈さんがこんなことを口にした。


「夫もよくこうやって手伝ってくれたんです。隼人君が隣に居ると思い出します」

「そうなんですか? 俺も母さんの手伝いでよくやっていましたから」

「そう……少し隼人君のお母さんが羨ましいですね」


 そうなのだろうか。

 父さんが亡くなってから積極的に母さんの手伝いを始めただけなんだけど。でもこんな小さな手伝いでも、その後に母さんがありがとうって言ってくれるのは確かに嬉しかったかな。


「ありがとう隼人君」

『ありがとう隼人』


 ……ったく、こんな時にまで昔を思い出すなよ。

 亜利沙と藍那は着替えのために部屋に戻っており、今ここに居るのは俺と咲奈さんだけだった。食器を洗い終えた直後、咲奈さんが俺を抱きしめるのだった。


「咲奈さん?」

「いいの。昨日も言ったけど甘えていいんですよ? 隼人君の本当のお母さんに私はなれないですけど、甘えさせてあげることは出来ますから」


 さっきのことが顔に出ていたのかな。

 確かに咲奈さんは俺の母親じゃない、でも……咲奈さんからは母親としての貫禄のようなものをやっぱり感じてしまう。つい気を抜けば咲奈さんに言われたように甘えてしまいそうでちょっと怖いくらいだ。


「隼人君の好きなこと、何でもしてあげますからね?」

「何でも?」


 って、そんなネタはいいんだどうせ伝わるわけないんだし。


「何でもです。何でも言ってください、どんなことでもしてあげますから。甘やかしてあげます。私の全てを持って隼人君を溶かしてあげますよ」

「っ……」


 だが、返ってきた言葉に俺はガツンと頭を殴られたような感じがした。

 言葉の威力もそうだし……脳に直接入り込んで理性を蝕むような甘さ、咲奈さんの言葉から俺はそれを感じてしまい変な気持ちになってしまった。亜利沙と藍那とは違う魅力、強烈に甘い刺激が脳を揺さぶってきたのだ。


 亜利沙の青い瞳、藍那の赤い瞳とも違う黒い瞳が俺を映す。


「……ふふ、それくらい甘えてくださいということです。これから先、長い付き合いになると思いますからね」

「そ、そうですか……」


 自分のことではあるけれど、一瞬でもこの人に溺れてもいいかなと脳が答えを導き出そうとしたことが恐ろしい。全てを包み込んでくれる、甘やかしてくれる、それに頷こうとした自分が怖かった。


 それから二人が戻ってきて改めて四人で色んな話をした。そうしていると時間はあっという間に過ぎていき、俺は新条宅からようやく出ることが出来るのだった。


「……はぁ」


 家に帰った瞬間大きな溜息を吐く。

 本当に色々なことがあった……でも、どうしようもなく名残惜しいと考えている俺が居るのも確かだったのだ。


『隼人君またね?』

『また! それとサプライズがあるから楽しみにしててね!』


 別れ際にこう言われたことが気になる。

 取り敢えず明日にならないことには分からないか。


「……なんか、蜘蛛の巣から出てきたような感覚だな」


 甘い糸で絡め取るような……というと彼女たちに失礼だ。けれどほんの少し俺はそう思ってしまったのだ。

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