救済

第1話




 お互いがお互いについて何も知らないというのは往々にしてあることで、それらは付き合いが深ければ深い程、真に迫ることが難しくなってくる。付き合いが深くなる程、真実を話せなくなっていると言えるだろう。つまりは近しい関係の人間程、実はお互いのことを何も知らないのだ。

 例えば都築未怜は一年以上同棲を続けている彼氏の荻田祐介がヘビースモーカーだということは知っているが、なぜそんなにも多量の煙草を喫煙し続けるのか知らない。

 逆に、荻田祐介は都築未怜が働き者だと知っているが、なぜ蟻のように只管働き続けるのかを知らない。

 この二人はこの二人なりにお互い干渉し合わないことで関係の継続に成功している。だが、お互いにいずれは全てを打ち明けなければならないことも知っている。関係の継続の為に隠してきた秘密を、関係の継統の為に明かさなくてはならないと考えている。

 一人で抱え込んできた秘密を共有することのできる人間は、その個人に対してさほど多くはいない。寧ろ、人間は少ない人数で秘密を共有しているからこそ、強固な人間関係を築けていると言ってもいいだろう。それは社会に成せる技ではない。一人の人間だからできることである。

 恋人にしか話せない秘密もあれば、家族にしか話せない秘密もある。親友にしか話せない秘密も勿論あるだろう。家族や恋人、親友といった括りは特定の数少ない選ばれた人間にしかなることのできないある種の特権である。

 誰かは誰かの家族だし恋人だし、親友である。それが重なって社会は成り立っている。故に、秘密の共有を持ってして世界は回っていると言っても過言ではない。

 それに、お互いを結びつける為の秘密が異常であればあるほど関係の濃度は増す。真に結びつくことのないお互いであれば、それを聞いた途端に逃げ出すだろうから。共犯関係になることを拒むだろうから。


 その日未怜が帰宅すると、やはり祐介は上半身裸のままベッドに寝転がって煙草を吸っていた。家賃七万のワンルームマンション。ヤニで黄ばんだ天井に広がる煙の底の一点を意味もなくぼんやりと見つめながら、である。

 祐介の筋肉質な腹の上に乗った灰皿からも煙が昇っており、一本吸い終わってすぐ二本目に火をつけたことが分かった。或いは、只管に吸い続けた何本目かなのかもしれない。

 未怜は祐介に禁煙を強要しないが、寝煙草だけは厳しく取り締まっていた。普段より三十分は早い帰宅のおかげで数度目かの現行犯逮捕である。しかし、それでも祐介は未怜には目もくれず、煙草を吸い続けた。

 そうとなれば未怜も強く出るしかない。

 あえて祐介を泳がせる作戦に出た。何も言わずに無言の圧力を掛け続ける作戦である。まだ中身の残っているカップ焼きそばが置いてあるキッチンで入念に手を洗い、うがいをし、ベッドサイドの隣、祐介が粗大ゴミ置き場から拾ってきた足の長い椅子に腰を下ろした。その椅子を捨てたのはきっと、どこかのバーであろうことが未怜にも分かっていた。

 ここからは未怜と祐介による耐久レースだと思われたが、そう思っていたのは未玲だけで、祐介はこの状況を屁とも思ってなかったし、そもそも未怜が圧を掛けていることすら気付いていなかった。現実と夢想の海岸線沿いを歩き、睡魔から微睡みを得ながらもかろうじてニコチンタールを肺に入れては出すの繰り返しをする、ただの機械と化していたからだ。

 こんなことで喧嘩にはするまいと自身の用心に耳を傾けていた未怜であったが、祐介が新たな一本に手を伸ばそうとしたところで流石に堪忍袋の緒が切れた。

「火事になるよ」

 祐介の左手人差し指と中指の間から諸悪の根源を取り上げつつ、正面と正面、目と目がわざと合うタイミングで未怜は素っ気なく言い放った。

 が、しかし祐介は「んー」と言っただけで、目の焦点は未怜に合っていなかった。苛立ち、語気を荒げようとした未怜だったが、これまで何度もこの男を説得してこようとしたものの変わるわけでなし、居住者は全員火災保険に入ってるだろうからまあいいかと、いつもの楽観的思考で乗り越えようとした。

 それと同時に近くの高架を電車が通り過ぎる。時刻は午後二十三時半を少し過ぎた頃であった。


 この電車を合図に、祐介は出勤の準備を始める。例に漏れず、ようやく微睡みから目を覚ました祐介は未怜を一瞥するなり、これまでの何もかもがなかったの如き「おかえり」を優しい声を発したので、未怜はさっきまで憤っていた自分がよりバカらしくなった。

 祐介の、さっきまで実際に寝ていたと思しき呻き声と欠伸の連打に未怜も幾度となく呼応してしまう。学生時代から生活を共にしてきた顎関節症が痛い。

 終電直前に駅へ着けばいいと毎度だらだら着替える祐介であったが、未怜はそれならアラーム代わりにしている電車を一本遅らせればいいのではないかと常々思っていた。それでもこれまで口にしなかったのは、お互いに干渉し合わないことによって均衡が保たれていることに未怜自身も気が付いていたからだ。しかし、果たして祐介は気が付いているだろうか、という懸念も勿論彼女の中にはあった。

 単純に私のことをシャットアウトしているのではないだろうか、という懸念。とはいえお互いの仕事が休みの日には偶に二人で出掛けているし、その夜は大抵営んでいる。恋人として真っ当な生活はしているつもりだった。

 二人の間の暗黙のルールとしてそれは存在しているが、昼間働いている未怜と夜間働いている祐介が休日、同じ日中を過ごすことに対して未怜は違和感を覚えたためしがない。

 無関心でないからこそ、祐介が休日にもかかわらず日中も稼働していることに対しての理解が未怜には欠けてしまっていたのだが、祐介も特に指摘することはなかった。

 それはお互いの干渉云々でなく、祐介から未怜への無言の愛だった。

 未怜が駅前のスーパーで半額になっていたシナシナのコロッケを電子レンジに入れる。

 約三十秒の間にコロッケは温まったし、祐介はズボンを履いた。

 そして財布と携帯、煙草をポケットに入れると、祐介は「行ってきます」とコロッケにかぶりついていた未怜に声を掛けて玄関を出たのだった。


 コロッケと、これも半額だった惣菜のサラダを食べながら、とりあえず未怜はテレビを点けた。ながら見にはもってこいの深夜バラエティーまではもう少しらしく、夜の報道番組は佳境に入っている。報じられるのは事故、殺人、政治家の汚職と嫌なニュースばかりである。臭いものに蓋をするその他大勢の誰かと同じく、未怜はそれを見ながら「つまんない」と愚痴を溢し、同時に口からコロッケの衣を溢した。

 そしてリモコンの代わりに携帯を手に取り、友人たちがアップしている大して興味の唆らない動画に脊髄反射でいいねをつけた。

 その作業が終わる頃には食事も粗方終わっていたし、それにバラエティー番組も始まっていた。風呂に入ろうかと思案しながら、祐介が残していった煙草の吸い殻や焼きそばの残りを纏めてゴミ箱に放り込む。

 結局、バラエティーが面白そうな内容だったからと、風呂を先延ばしにしてベッドの上に座った。と、同時に尻に違和感を覚えた。体を退けると、そこには百円ライターが落ちていた。

 ヘビースモーカーのくせに火を忘れる祐介を未怜は少しだけ愛おしく想い、外から聞こえる終電の音に耳を傾けたのだった。


 終電の中はがら空きで、祐介は幼い頃に読んだ児童書を思い出していた。

 薄暗い夜、電車に乗るサラリーマンが一人。乗ってくる乗客は皆俯いており寂しげである。その電車の行き先はあの世であり、サラリーマンは死んだことに気付かず、その電車に乗車していたというオチだ。

 実際、今の祐介もそのサラリーマンと大差はない。死へ向かうことへの意味がやや違うだけである。

 終点から二つ前の駅で祐介は降りた。結局、今日も最後まで誰も乗ってこなかったな、と侘しさ犇かせながら。


 辺りで唯一煌々とした輝きを放つコンビニでホットの缶コーヒーを買い、また暫く西に歩くと汚らしい雑居ビルがある。

 そこに事務所を構えている会社が一応の職場ではあるのだが、祐介は雑居ビルを通り過ぎ、車が二台しか停められないくせに月極駐車場を名乗っている空き地へと向かった。そこに停まってるうち一台のバンは既にエンジンが掛かっていて、後はドライバーが来るのを待つばかりといった様相を呈していた。

 助手席には金髪の男が、荷物でぎゅうぎゅうの後部座席にはマスクをした女が乗っており、どちらもまだうら若かった。祐介は運転席に乗るなり、二人に挨拶もせず、ギアをリバースに入れた。慣れた手つきで駐車場を出て、ドライブに変える。なだらかな走行で事務所前を走り抜けると、ようやく助手席の金髪が口を開いた。

「次の信号、右です」

 現場を把握するのはこの金髪の役目である。責任者は祐介ではあるが、効率を良くする為に作業は分担されている。女はアルバイトなので責任のある仕事は特に何もしない。ただ現場で作業をするのみである。

 彼らは所謂、洗い屋だった。それも、単なる清掃業ではない。殺し専門の清掃業者だ。

 裏稼業に手を染める人間が、警察に嗅ぎ回られる前に彼らを使って証拠を隠滅する。例えば敵対する組織を殺めた時や、殺し屋を使って標的を抹殺した時などだ。

 洗い屋はノーサイドとして扱われる。敵味方関係なく、誰も手出ししないことを条件とされている。裏世界に生きる人間から重宝すべき存在だからと承知されているからだ。それもあって祐介自身も危ない橋を渡っているつもりは殆どなかった。しかし、とはいえまともな職でないことも分かっているし、これ以上未怜に隠し続けるのは困難であるということも分かっていた。

「そこを左で。そしたらずっと真っ直ぐって感じっすね」

 金髪が指示を出す。

「今日の現場は何? 非カタギ屋さん?」

 商店街の魚屋の子として生まれた祐介は全ての職業に「屋」を付けて呼んでいる。時にそれが正式名称より長くなったとしても、祐介は独自の呼び名で屋号を導き出し続ける。

 屋号はその都度変わるので、周りの者はそれが何かと一瞬考えることもあるが、誰かに咎められたことは今まで一度もなかった。

「いや、派遣みたいっすね」

「ほーん。殺し屋さんなら楽だなぁ。……っふぁ~あ」

 ハンドルを左に切りながら、祐介は欠伸をした。


 現場は築十年も経ってないであろう、新築マンションだった。祐介はそのマンションを見上げるなり、「大家屋が可哀想だよなぁ。いっそ、ワッパ屋にパクられた方がいいんじゃない? こんな綺麗なマンションで殺す奴」とぼやいたが、その言葉は感情を知らない人工知能みたく無機質で、後の二人は若干の畏怖さえ覚えた。

 祐介の、偶に出る他人への冷酷無慈悲さに場の空気は冷えてしまったが、それを気にしていない素振りをしつつ、「そっすね」と二人はいつもの二人を演じ続けた。

 最寄りのパーキングにバンを停め、エンジンを切る。

 駐車場代は向こうが払ってくれるからと、祐介は座席を倒し、天井を寛ぎつつ煙草を取り出して火をつけた。同じように金髪も女も自前の煙草を薫せ始める。

 彼らが嗜む煙草には、これから起きる一連への免疫という側面も多少あるがほとんどは鼻に纏わりつく死臭を煙草臭で抑える効果を求める為であった。いくらプロが殺しをしたとして、物がいくら新鮮だったとして、それでも死臭は室内中に広がる。受け手の感覚的なものだとしても、それを食い止めるには今の所、煙草くらいしか見当たらなかった。

 三人共が一本を吸い終えると、祐介と女だけがバンを降りた。まずは現状確認から始める。

 監視カメラが付いていないことを確認すると、二人は「ラッキーだ」と呟いて五階までエレベーターで昇った。新築なのに付いてないとは、どうやらきな臭そうな場所であることはまず間違いなかった。

 五階角部屋のドアを、金髪が依頼者から受け取っていた鍵で開く。中は祐介が思っていた以上に騒々しかった。被害者の中身がそこかしこに飛び散っている。そもそもの壁が白だったのもあり、赤が余計目立っていた。

「うわー、グロい」

 マスクで篭った声を女が発する。

「んー。プロはプロでも、殺し屋さんの仕事じゃないなぁ。虐め屋さんだ」

 早く帰れると見込んでいた筈の作業が想定外の事象により崩れた苛立ちを抱えつつ、祐介は金髪に電話を掛けた。

「もしもし。あ、うん。虐め屋さんだったからさぁ、機材全部運び込まなきゃダメでした。そう、そうなんだよぉ。全部飛び散ってる。部屋中に飛び散ってる。うん、じゃあ鍵開けとくから、搬入よろしく頼みます」

 部屋を出ると、既にエレベーターは一階で停まっていた。金髪が機材を運び込んでいるのだろう。エレベーターが上がってくるまで時間が掛かる気がしたので、祐介は女に目配せして階段で降りることにした。


 未怜がテレビを点けっ放しにしたまま軒をかき始めた頃、ようやく祐介らの清掃作業は開始された。気休め程度の雨合羽に近いビニールスーツで全身を覆い、ガスマスクとしても使えそうな防塵用マスクで顔を覆う。

 作業自体は特殊清掃に比較すると楽である。特殊清掃は死後何日も経った死体を扱うことの方が多いが、この仕事は死後すぐの死体を扱う。特殊清掃の場合であれば、腐敗し、流れ出た体液で腐った床などの始末も行わなければならない。場合によればリフォームと大差ない仕事をすることもしばしばある。その作業がない分、祐介たちが行う清掃には、死体を誰にもバレずに運び出す工程がある。それが特殊清掃との決定的な違いであり、この仕事の核心であるとも言えた。

 まずは死体や飛び散った内容物をかき集め、黒のビニール袋にそれらを詰め込む作業から始める。

 現状復帰を志すというよりは、如何に殺人の痕跡を残さないかの方が重要なので、もしそこに殺人の痕跡が残っていたなら、家具や家電の破壊も、完全に部屋の状況を変えてしまわない程度なら厭わなかった。

 飛び散った物を大方集め終えたら、今度は室内の清掃に移る。この作業が最も人間らしい作業であり、向き不向きはあれど、誰がやっても変わらない作業となる。

 カタギの清掃業者が使用する物と同じ型のポリッシャーにルミノール反応を極限まで抑える特殊な薬品を希釈した水を入れ、床を磨く。染みになろうとしている血液を表面に浮き出させたら、今度はバキュームを使って薬品ごと吸い込んでいく。ここで重要なのは、水を吸い逃さないことだ。もし吸い逃してしまうと、痕跡が簡単に検知されてしまう。

 その作業が終わると、今度は水をたっぷり含ませたモップで水拭きし、乾いたモップでしっかり乾拭きする。水拭きと乾拭きを丁寧に三セット繰り返すと、どれだけ現場が惨状だろうが、死の痕跡はほぼ残らない。特殊清掃ならばその後に床の張り替えや壁紙の張り替えまでやるだろうが、祐介たちの仕事は死後すぐの作業になるので、血液はそれほど染み込むことがなく、上辺の血だけを刮ぎ取れば床はすぐに元の色へ戻った。

 後は血液が付着したカーペットや家具を纏めてビニール袋に入れ、死臭を消す為の消臭薬品を入れた散布機を半時間程度部屋の中で稼働させ続ければすぐにでも人が住める状態に元通りとなる。

 部屋での作業はそれで以上。効率の良い彼らは、ここまでを三時間弱で終わらせる。日の出が早く、かつ気温の影響で死体の腐敗が早く進む夏場や、一日に二現場ある場合なんかは人員を増やし、更に効率良く作業を進めていく。彼らは間違いなくプロだった。


 部屋は元通り、或いは、きっとそれ以上に美しく輝いていた。今日ここで起きたのは、「家主が神隠しに遭った。きっと天狗の仕業だろう。鞍馬かどこかに行けば見つかるだろうから、心配することは何もない。安心すればいい」なんてジョークを飛ばすしかないほどの消失。

 関係者が「気を病んで一人になりたい時間もあるだろうから今はそっとしておこう」なんて考えようものなら数日後には永遠に見つかることのない行方不明者を探し続ける羽目になってしまう。こと祐介たちにとっては、それが最善のルートとなるので、「ミスはしていない。完璧な復帰に成功した」と思っていても、やはり「部屋で殺されたから調査しよう」と、鋭い視点を持つ関係者に現れては欲しくなかった。


 金髪と女の二人が、死体を包んだビニールを運んだ。明け方まではまだかなり時間もあるし、住人に出くわすこともないだろうとエレベーターを使った。それでも細心の注意は払っている。

 祐介はゴミの入ったビニールと、持てるだけの機材を持って彼らの後を続いた。部屋を振り返る。我ながら今日も良い出来だ。祐介はこの部屋に入ってから、初めて安堵した。

 大型の機材はないにもかかわらず、すぐにバンが一杯になるのはトランクに専用の死体ケースを積んでいるせいだろう。揺れて車内に血や肉が飛び散らないよう、固定するためのケースである。

 競合他社はこれを単に死体ケースと呼んでいるが、祐介だけは棺桶と読んでいた。墓に入ることのない死体だから、せめて棺桶くらいは人れてやりたいという慈悲の気持ちからであるが、その呼び名は金髪を筆頭に社員たちから忌み嫌われていた。

 自分たちが掃除しているのが「もの」でなく「ひと」であることを再認識させられてしまうからだという。寧ろ、それを棺桶と呼ぶ祐介の方こそ、人を物として見ているのではないかという声さえあった。

 人を人として見てしまったら、普通はこんな仕事すぐに辞めてしまうだろうから、という考えの下である。祐介は生きている人間ですら物として考えているのではないか。金髪は偶に怖くなることがあった。


 二回に分けて死体と機材を全て運び出し、バンに積むと、ようやく三人は大きい息を吐いた。忍ばせ続けたため息が丑三つ時の闇に消えゆく。

 祐介は金髪に千円を渡し、近くの自動販売機でコーヒーを買ってこいと命じた。金髪は三分後にカフェオレを一缶だけ持って戻ってきたので、二往復させられる羽目になった。

 その間祐介は、ダッシュボードに積んでいた作業報告書に作業内容を記録した。いつ、誰と、どこで、どのようにして作業をしたのかを記録していく。誰かに渡したりはしないのだが、会社で保管しておく用だ。

 これがもし門外に出てしまったら芋づる式に数百人規模の逮捕者が出る。そんな馬鹿げたものを未だに書かせる会社に、祐介は不信感を抱いていた。


 かつては祐介にも立派な企業戦士としてバリバリ営業をこなしている時期があった。しかし、飽き飽きするくらいに代わり映えのしない毎日と、口から無意識に零れ落ちる退屈なおべんちゃらの数々にとうとう嫌気が差し、「傀儡として生き長らえるつもりは毛頭ございません」などの文言を墨で書き記した辞表を会社の壁に貼って逃げたのだ。

 それからは日雇い労働をこなすその日暮らしだったのだがそれにも疲れ、遣る瀬なく川沿いを歩いていた時にようやく今の勤め先である企業の元社長と出会ったのである。

 殺人現場をなかったことにするという極めて悪徳な商いをしていたくせに元社長は昼下がり、トイプードルの散歩をさせていた。

 元社長は祐介の顔を見るなり「死のうとしてるヤツの顔くらい、こっちは一発で分かるんでね」と言った。祐介の足元にまとわりつくトイプードルも何かを察したのか、けたたましく吠えた。

 そして、元社長は笑顔で告げたのである。

「死ぬより辛い毎日に身を置けば、死ぬことすら考えられなくなるよ」

 祐介が入社して半年後、元社長は肺癌で死んだ。呆気なかった。


 死体や諸々のゴミを馴染みのスクラップ場へ運び、いつか誰かが捨てた車の中でぺしゃんこになっていくのを確認しつつ、現場で使用した機材の洗浄を行うと、三人は事務所へ戻った。既に陽は高く登っていた。

 作業報告書を厳重に保管された金庫の中のファイルに綴じ、更衣室で予備の作業服に着替えると、祐介は事務所内で唯一喫煙の出来る給湯室へ向かった。給湯室では着替えを済ませた金髪と女が既に一服を始めていた。祐介が灰皿の間へ割り込むと、金髪が自分の位置をずらした。

「二人ともこの後ヘルプ待ちでしょ? もしさー、呼ばれなかったらさー、事務所の掃除をね、掃除機で適当にアレするだけでいいからさぁ。お願いしてもいいかな」

 だらだらと祐介が喋る。

「そう言われると思って、昨日の晩やっときました」

 金髪は笑顔を見せたが、祐介の表情は微動だにしない。

「勿体無いなあ。どうせ今日ヘルプ出ないと思うよ?」

「なんでです」

「だって、いい天気だもん。普通、こんな日に人殺す?」

「殺し屋は流石に無いかもしんないっすけど、マジの馬鹿は何しでかすか分かんないじゃないっすか」

「まーね。でも眠いでしょ」

「まだ若いっすよ。俺ら」

 金髪は女に同意を求めたが、女は換気扇の奥を見ており、視線が自分に向けられていると気が付かなかった。

 持った煙草の灰が床に落ちる寸前である。

「灰落としたら死刑だよ」

「え」

 気を失っていた女が突然の呼びかけに慌てて灰皿を探す。が、突発的初動を起こしたせいか、反動で灰は落ちた。

「はい、死刑」

 祐介は笑顔で言った。女は祐介の表情ですぐに冗談と察したが、それでも顔には明らかな畏怖が張り付いていた。直前まで無残な死を見せつけられていたにもかかわらず、安易に死という言葉を使える祐介が怖かった。

「昨日掃除してくれたのに悪いじゃんかぁ」

「いや、別に俺はいいっすよ」

 金髪が興味なさげに答える。

「いいってさ。よかったね」

 祐介はここでようやく煙草に火をつけた。

 これまで何をしていたかと言えば、何もしていなかったのである。それへの違和感が残りの二人にはずっとあった。だから、祐介が煙草に火をつけたのを見てほっとした。このまま何もせずに立っていられたら気が狂っていただろうなと、女はそこまで考えていた。全くわけが分からないからである。

 空気が変わり、金髪が口を開く。

「最近毎日入ってくれてるけど、どうしたの。そんな金要るの」

 女はよくぞ訊いてくれましたとばかりに、

「そうなんですよ。彼氏が、お前今年で大学卒業だったら記念に海外旅行でも行こうよって言ってくれて、でぇ、せっかくだからフランスとかイタリアとか行きたいじゃないですか。お酒落だし。就職前の春休みに、あ、まだ就職先は決まってないんですけど、一週間フランス旅行とか行けたらいいなって思ってガッツリ貯金中です」

 女は早口でまくし立てた。

 金髪が更に上乗せる。

「彼氏は年幾つ?」

「三つ上です」

「何してる人?」

「デザイナー志望って言ってました」

「絵とか描いてんの?」

「建築ですかね。大体ウチで建物の絵とか描いてます」

「働いてんの?」

「いえ、今はまだです」

「あ、じゃあ旅行費は二人分出すの?」

「はい」

 女はマスクで隠れていても分かる満面の笑みで答えたが、金髪は思わず頭を抱えそうになった。

「ま、ここ時給良いもんね」

 意識してかどうか分からないが、言葉に詰まっていた金髪のアシストを思わぬ形で祐介がすることになった。だが、永遠に蹴ることのないシュートを待つパス回しに、自分の撤いた種とはいえ金髪は辟易としてしまっていた。

「就職もここにしよっかなって思ってます」

 軽はずみに女がそう発言すると、祐介の目つきが変わった。先程も見せた畏怖で空気を凍結させつつも、どこか敬虔だともとれる、あの目だ。

「止めた方がいいんじゃない。彼氏と暮らせなくなるよ」

 祐介には女がいる。薄々そう勘付いていた金髪は、何も言えずにただ黙っていた。金髪は、自分が恋人を作る環境にないと分かっていたからである。

 誰も話さない。空虚な時間だけが過ぎ、換気扇の音が酷く耳障りだった。

祐介は煙草を二本吸い、「ずっと鉄臭いよね」と、二人に言い残して給湯室を出てそれから事務作業を幾つかこなし、退社した。


 通勤ラッシュに揉まれながら帰宅するのはどうも慣れない。背広の大人たちはこれから外へ足を踏み出すというのに、自分は中へ戻っていく。そのことに対する違和。祐介は目を瞑った。

 蠢く欺瞞に満ちた金で買ったペットボトルのコーヒーが、人波にさらわれて押し潰される。あのコーヒーを飲む価値が果たして自分にあるのだろうか。祐介が己に出す問いにはいつも答えがない。

 電車を降り、改札を抜けて携帯を開くと金髪から「早速一件入ったっす」とメールが来ていた。「海外旅行」とまでは一度打ったものの、消し、「二人とも宜しく。頑張って。来週のヘルプ待ち一つ減らしてあげてって部長に言っとくから」と返した。

 すぐに、「大丈夫っす。若いっすから」と返ってきた。

 信頼はしていないが、いや、そもそも人を信頼していい仕事ではないが、祐介は金髪のことを少なくとも「使える奴だ」くらいには思っていた。


 集団登校をする小学生たちの群れを抜け、祐介は歩いた。

 帰って一刻も早く眠りたかった。今頃になってようやく昨晩の死体が脳裏を過ぎったからだ。鍋から吹き零れたえのきのように腹から飛び出た腸。壁に叩きつけられて潰れた肺は黒ずんでおり、喫煙者だったことが分かった。そんなディテールが生前を想像させ、尚。

 加害者や被害者に深入りするつもりなどはなく、ただ承った仕事を淡々とこなしているつもりなのだが、それでもどうしたって鉄の臭いは纏わりついた。

 これまでに処理してきた人体の数々が一回りサイズの小さいコートを羽織った時のような重苦しさを引き連れて永遠に自分を捉えて離さんとするばかりに思え、寧ろ自分はそうならないよう精一杯生きてやろうと祐介は誓った。元社長が死んだ日から在りの遊びを決め込んだ祐介らしくない、感傷に浸りながらの帰路になった。


 祐介がまだ電車に揺られていた頃、未怜もまた電車に揺られていた。上下のどこかで祐介とすれ違う瞬間を、心のどこかで待ち侘びながら。

 とはいえこちらも人間が犇き合っており、駅に着く度、人は心太のようにずるずるとホームへ流れ出て、そしてまた別の誰かが車内へと流れ込んできた。

 同じような黒髪に、同じような背広に身を包んだ人間たち。未怜は分裂したアメーバのくせに自我を持ってしまったことを、人間代表として謝る術なんて最初から持っていなかった。そもそも、誰に対して謝るのかすらも心得ていなかっただろう。それにどのみち行き着く先は人間だろうとたかを括っていた。

 未怜は現実主義を贔屓にしながらも、矢鱈に理想を語りたがる人間だった。祐介の前では影を潜めてはいるが、かつての未怜は現実こそがユートピアだと信じて疑わなかった。死の先にある楽園など存在するわけがないと書い続けてきたし、その考えは不変だった。

 それはある意味で現実に対する最大の理想だとも言えた。満員電車の中ですらユートピアだと思える人間が稀有であることを未怜は未だ知らない。

 二度の乗り換えを終えた未怜は心太に混ざってホームに降りた。そしてぞろぞろと蟻の行列さながらに改札を抜けていく。祐介が言った通りこの日は快晴で、日照権のない土竜以外は皆太陽の有り難みに惚れ直す結果となった。

 未怜が向かったのはチェーン展開しているうどん屋である。元々はこの店舗よりも家に近い店舗で働いていたのだが、末端社員からチーフに昇格する際に異動となった。

 朝から二度の乗り継ぎをしてまで通うのは、今の家に無意識下で愛着を感じているからであろう。煙草の臭いが壁中に染み付いた安いマンションなのに、だ。だが、未怜には寧ろそれが良かった。一人の夜でも祐介を近くに感じられたからだ。


 いつもは仕込みのパートが先に来ているのに、この日は未怜が一番乗りだった。警備を解除し、バックヤードにある裏口を開錠して店内に入る。

 和をイメージしてデザインされた店内は照明があっても暗く、来店するファミリー客の子どもが泣いてしまうこともあった。

 電気を点け、簡易事務所兼更衣室に向かう。社員共用のパソコンに昨晩店長が書いたであろう「社員業務は俺がやるから、それより仕込み多いから手伝ってあげて」とのメモが貼られていた。それを読み、未怜は厨房用のエプロンに着替えた。

 自分の名札には名前の横に小さく「チーフ」と書かれており、同期入社の中で最速の「チーフ」に優越感を覚えるのと共に、重い重圧も感じていた。

 なりたての頃はすぐに慣れるだろうと未怜自身も思っていたが、毎朝必ずこの二つは感じた。そしていつしかルーティーンにすらなった。

 大人として恥じぬ生き方をするのだと決めて今日も働く為に。

 責任を負える大人になれて良かった。未怜はつくづくそう感じている。


 中学三年の夏、未怜は人を殺した。

 あくまで故意ではないのだが、自責の念が彼女を追い詰め続けた。

 命は尊いと言うが、果たして殺人の罪を犯した自分の命も他と同様に尊いのか自問自答し続ける毎日だった。

 未怜が殺したのは、自身を執拗につけ狙うストーカー気質の同級生だった。

 その日の放課後も、未怜が日直の仕事をこなしていると男はやって来た。

 そして、「体育の授業前に着替えている所の写真を撮った。ばら撒かれたくなかったら俺とセックスしろ」と詰め寄った。幾度となく悩まされ続けた執拗な責めに未怜は辟易としており、そのせいで胃潰瘍を患っていた。

 眼前の男に対して胃はこれまでにない痛みを発し、未怜はその場に跨った。男はこれ幸いとばかりに未怜に歩み寄った。

 なんとか力を振り絞り、未怜は迫る男の手を払い除けて窓際に駆け寄った。教室は校舎の三階である。

「それ以上近づいたらここから飛び降りて死ぬ!」

 未怜は叫んだ。

 それでも男は近づいた。男は、女ごときに負ける筈がないと思っていた。

 焦った未怜は痛む胃を抑えながら男に向けてタックルした。

 タイミングと、当たり場所、全ての偶然が揃って、男は前傾姿勢をとる未怜の背中を転がり、窓を破って転落した。


 さっきまでくぐもっていたブラスバンド部の演奏がはっきり聴こえた気がして、未怜の鼻腔を強烈な鉄の臭いが劈いた。何十年も雨風の下に晒され、錆びきってしまった鉄棒を舐めた時のように。

 それは、死そのものだった。

 未怜は思わず目を展り、上昇する胃液が口内にまで這い上がってくるのをなんとか鎮めながらその場を去った。

 校門を出るまで誰にも出会わないでくれ。今はどうせ、人に見られたら終わりの顔をしているだろうから、と、怪しまれない程度の小走りで。

 一階の手洗いで小さく嘔吐して、更に逃げた。誰とも出会さなかった。

 男は数分の間、生きていた。破裂した臓器から逆流した血が、口内をみるみる鉄の味に変えた。助けを呼ぼうにも声は出ず、その代わりに折れた歯や血が口から溢れた。

 未怜にとって幸いなことに、男が落ちた駐輪場の周りには部活の最中だったということもあってか、誰もいなかった。

 そして、男はそのまま誰にも見つからずに絶命した。

 男の死因は絶望だった。

 翌朝、未怜は登校した。休むとより怪しまれるだろうと思ったからだ。バレたならバレたで仕方ないとさえ思った。その時は、逃げるより正面からこれまでの全てを洗いざらい話してやろうとも。そうすればきっと罪も軽くなるだろうと。

 しかし、男の死は思春期が原因の自殺と捉えられた。もとより男には友人と呼べる人間がいなかった。よって、孤立し、鬱屈とした青春を過ごす自分に明るい未来は待っていないことを悟ってしまったのだろうと周囲は推察した。

 未怜はやり残した日直の仕事すらも咎められることなく、それから十数年の月日を生きた。

 そして贖罪すらも許されなかった人生に、ただ生き続けることが贖罪とすら思えた人生に、一筋の光が差した。

 それが祐介である。

 未怜には、出会ったその瞬間から祐介の存在そのものが赦しであるような気がしていた。何もかもを包み込んでくれ、かつ、それらの中から不要なものだけをどこかへ放り投げてくれる程の包容力を感じたからだ。

 祐介は自分のことをほとんど語らなかった。未怜は目に見える部分の祐介しか知らないが、未怜自身もそうでありたかった。

 祐介は未怜を守る為に秘密を持っているが、未怜は未怜自身を守る為に秘密を持っていた。そのことも未怜は気が付いていたので、余計に居心地の悪さが際立った。

 いつか打ち明ける時が来るだろう。それは絶対だ。隠し続けたまま、一生の伴侶になれるわけがなかった。そして、打ち明ける時こそが二人の関係に終止符が打たれる時だということも分かっていた。

 このまま祐介と死ぬまで一緒にいられる筈がない。きっと、お互いに爆弾を抱え込んでいる。爆発させる必要なんて本当はない筈なのに、本心では爆発させるべきだと思っている。未怜の中にある人間の性がそうさせたがっていた。

 いつか終わる関係ならば、せめてそれまでは幸せでいられるようにと未怜は平静を装い続けている。祐介がヘビースモーカーであるように、未怜は普通を演じ続けた。


 遅れてやって来た店長は「ごめん、子どもが熱出しちゃって」と言い訳をした。未怜はそれよりパートがまだ来ていないことの方が気になっていたのだが「社員業務終わらせたら俺も手伝うわ」と言われたので、なんとなく察した。

 普段、店長はホールの開店業務を担当しているので厨房の中に入って来ることは滅多にない。どうせいきなり辞めたか飛んだかしたのだろう。

 パートやアルバイトなんて所詮、そんなもんなのかなと未怜は思った。責任のない立場に置かれていることに対しての責任を持って欲しいとも思った。人間としての責任を、人間は果たすべきだと。


 仕込みを終えるとすぐに昼の営業時間になった。この店は中小企業団地に面しているので、ランチタイムの工場作業員が多く入る。

 こんな日に限って普段より目紛しく客は回転し、一日の売り上げ目標を昼だけで稼いでしまった。本社の狙いはこの工場作業員なので、ランチタイムの終わる十五時から十七時の間は店を一度閉める。その間は昼休憩となり、社員は再び社員業務に戻るか、遅めの昼飯を食べるかの二択になる。大体は朝に社員業務を終わらせて昼はゆっくり食事をするのだが、結局店長は朝やっておきたかった筈の社員業務を全て後回しにしていたので、未怜と店長は昼食を後回しにし、手分けしてそれを終わらせることにした。

 その際未怜は、「なんで今日は仕込みのパートさん来なかったんですか」となんとなく店長に尋ねてみたが、「ああ、子どもさん熱出してるって。流行ってるから。あ、みんなにマスク着用義務付けよっか」と、自分が描いていたプランとは異なる答えが返って来たので少々面食らってしまったのだった。


 夜は穏やかな客入りで、「今日も早く来てくれたから、たまには早く帰りなよ。労基に訴えられても困るしさ」などと冗談交じりに店長から諭された未怜は、渋々この日の責任を店長に一任することにした。仕事モードの未怜に辛いや苦しいといった感情はあまりなく、とにかく自分がやれることを精一杯やっていたら時間が過ぎているという最高の状態を作り出せていた。それ程までにこの仕事が未怜の性に合っていたとも言える。店長も、本社に提出する書類の中に未怜を店長候補として推薦する類のものも出していた。

 自他共に認める仕事人間として成長したのは紛れもなく、その間は過去を忘れられるから、という一点に尽きるだろう。


 陽が暮れてすぐの帰宅は珍しく、ラッシュに巻き込まれてしまった。

 祐介も家で暇しているだろうし、久々に二人で食事しようかと未怜は考え、それなら外食に出掛けられるのではと思い、初めて祐介と二人で行った線路沿いのラーメン屋の前を通ってみたのだが、既にそこは更地になっていたので、いつものようにスーパーで二人分の惣菜を買って帰った。

 惣菜は半額になる前で高かった。

 早く帰ってもいいことなんて一つもないな、そんなことを思いながら開けたドアノブはいつもより重く感じた。


 未怜が家に入ると、祐介は相変わらず寝煙草をしていた。が、今回はいつもと違い、祐介は未怜を見るなり慌てて二箱分程度の吸い殻で溢れかかっている灰皿で煙草の火を消した。

 そして、別段怒った表情でもない未怜に対し、「ごめん、違う、いや違わない。おかえり」と言った。未怜は「ただいま」とだけ言った。

 紫煙で曇った部屋の中に見えるこの男が、私の為に火を消した。私が言い続けてきたから、火を消してくれた。

 今の祐介には自分の声が聞こえている。それが無性に嬉しく、「ただいま」の声が上ずってしまったことは、未怜本人しか気付かなかった。

 さっきまでどんよりとした気分だった筈の未怜を高揚させたのは紛れもなく愛だった。

 元来あった未怜の祐介への愛が、祐介の未怜への愛によって奮わさせられたのだ。更に祐介は立て続けに「今日は早いね」と言った。

 ただの四方山話に過ぎず、普段は開き流す筈の言葉だったが、久方振りに展開される感情のある世間話であることに未怜は気が付き、感情の赴くがまま祐介にキスをすると、口の中に煙草の匂いが広がった。

 祐介はそれに対し「んー」といつもの調子で微睡んだ返事をしていたが、目を開けるとコンマ数ミリの距離に目を閉じた守るべき人の姿が見えたので、素直に受け取ることにした。そのまま情交に及びそうであったが、祐介は瞬時にそれを察知し、未怜から離れた。未怜は些か不服そうではあったが、一応は大人として祐介の態度を受け入れた。

「お腹減った」と祐介が言う。

「ご飯食べる?」と未怜が言う。

「久々にどっか食べに行く?」と祐介が返し、「あのラーメン屋とか久々にいいよね」と付け加えた。

 未怜は祐介を抱き締めた。祐介が「痛い、痛い、苦しい」とぼそぼそ呟くのすらも無視して。

 どうやら食事はおあずけになりそうだ。祐介は咄嗟にそう思った。

 自分は未怜を守る為に生きていると思う。

 きっとやり方は間違っているだろうが、今は未怜を守ることが自分を守ることに繋がっている。

 自分一人の為に生きるなんて、この生活を知ってしまった以上、出来そうもなかった。

 祐介は、帰って来てからまだ脱いでいない未怜の薄手の上着に手を掛けた。彼女はどんなに寒かろうが厚着をしない。ごわごわして動き辛くなるなら、少しの寒さくらいは我慢すると昔言っていた気がする。

 祐介はそんなどうでもいいことを思い出しながら、碁石のような黒いボタンを一つずつ外した。

 この生活と未怜を守っていきたい。たとえ自分のジンクスを破ったとて。

 たとえ自分の身が滅びようとも、未玲の辛い顔だけは見たくない。馬鹿げた考えかもしれないし、人を消して生きている祐介にはそんなことを思う権利すらないのかもしれない。それでも彼は未怜を想い続けてきた。


 仕事の前にセックスすると悪いことが必ず悪いことが起こる。

 元社長がずっと言っていたジンクス。

 祐介は、元社長が死んだ日、それを受け継ごうとなぜか心に決めた。

 それが自分の出来る最大限の恩返しだと思えてならなかったからだ。

 いつか足枷になるだろう。それでも今日まで守り抜いてきた。

 しかし、今や自分も一人前の洗い屋になった筈だ。

 一度ジンクスを破ったくらいならなんとかなるだろう。


 祐介の読みは甘かった。

 二人がベッドの上で果てていた頃、金髪と女の大脳が一発ずつの弾丸によって山中に飛び散った。生い茂った緑がそこだけ赤く染まり、次いでどさり、どさりと二人は崩れ落ちた。

 こういう場合、例えば物語の中では虫の知らせだとかで祐介の元に何らかのメッセージが来るのだろうが、実際にはそんなことが起こる訳もなく、それらの事象は紫煙に包まれたまま闇に葬り去られてしまった。

 そして、韜晦すべき毒牙はこれからも猛威を奮い続けてやると言わんばかりにけたたましい咆哮を上げ、長くなる一夜の幕開けを予感させたのであった。


 未怜が風呂から上がり、着替えとドライヤー、諸々の化粧水を済ませてから更衣室を出ると、祐介がキッチンで食事の準備をしていた。と言っても惣菜を電子レンジで温め、皿に盛るだけである。

 米は一応、毎朝未怜が炊飯器を予約して家を出るが、炭水化物を抜いている本人は食べない。「うどん屋のくせに」と、続かないダイエットが始まる度に祐介はそういった皮肉を述べた。

 適当に米が食えるおかずが幾つかあれば食事はそれでいいと、食にこだわりのない祐介は言う。未怜もまた、太らなければそれでいいといった価値観の元に食事をしている。不摂生と言ってしまえばそれまでなのだが、極めて慎ましい食生活ぶりである為、一ヶ月の食費は二人分合わせても成人男性一人分にも満たなかった。

 その代わり、祐介は煙草と甘いコーヒーを好んだ。退廃的な生活を好んでしているわけではないが、糖分とカフェイン、それにニコチンさえあれば一生目覚めていられるとすら吹いていた。実際の祐介は仕事以外のほとんどの時間を寝て過ごしている。不摂生の代償だと本人以外の誰しもが気付いている。

 しかし本人は、自身がロングスリーパー型で、さらに人間の本質は夜行性であるからだと認識している。

 未怜はよく頭がぼんやりすることがあった。その原因の九割がストーカーの死に纏わるもので、例えば当時に関連することの何か一つでも思い出したりしてしまえばすぐに発症した。だが、これも実際には違った。単純に脳が糖分を欲しているだけに過ぎなかったのだ。脳が回っておらず、頭が重くなった時、勝手に「これはストーカーを殺してしまったせいだ。あの日のせいだ」と思い込んでいるだけなのだ。

 よって、関連するものの何かというのは未怜による後付けであって、例えば最近ストーカー被害に遭った人のニュースを見たな、とか、たったその程度のことなのである。事件の後遺症であるとははっきり断定しきれないほどの些細な出来事なのである。

 それに、当時の記憶が鮮明にフラッシュバックしているかと言われれば、そうではない。ぼんやりとした記憶の断片だけが脳裏を掠めるに過ぎないのだ。

 とはいえ、その断片のみで未怜は罪悪感に苛まれることが出来た。大抵の人間が抱えるトラウマの中でも、自分だけは特異な性質を持つトラウマに自意識を縛り付けられていると刷り込んでしまっている為、その意識から解放されることはなかったし、解放する気もなかった。罪を持った自分こそが自分だという位置付けすらしてしまっていた程である。


 二人が食事を終えても夜はまだ浅かった。

 食後の一服を済ませ、仕事までもう一眠り出来るだろうかと祐介が思案していた時、不意に携帯が鳴った。出ると、競合他社であり、取引先であり、祐介の会社にも仕事を回してくれる最大手、「クレンリネス・ハート」の内海からだった。

 金髪と女は今日、この「クレンリネス・ハート」から業界の人手不足が理由のヘルプ待ちを受けていたし、結果的に二人はヘルプ人員として現場に向かったのを聞いていたしで、何か二人に不手際があったのではないかと祐介の脳裏に一抹の不安が過ぎった。

 電話越し、普段は快活な内海の口調があからさまに深刻だったのも大きな要因の一つである。

「萩田君、まずいことになった」

「どうされました、ウチのが何かしでかしましたか」

「いや、そうじゃない。二人は死んだ」

 未怜には、祐介が明らかに動揺したのが分かった。自身の感情を極めて外に出さない祐介だからこそ、普段と少しでも違えばすぐに分かった。特に、不安を感じさせないことへの絶対的な信頼を置いていたので、それが揺らいだとなるとかなり深刻な間題が起きたのではないかと想像するのは難くなかった。

「どうしたの」

 未怜が小声でそう尋ねたが、祐介の耳まで届くことはなかった。祐介の脳内には朝、給湯室で行われた一連の会話がフラッシュバックしていた。ヒモに貢ぐ女の与太話を、人生における無駄になるのも厭わずに聞き流したあの時間。

 女はヒモと今生の別れを喫したばかりか海外旅行にすら行けないし、金髪は自身が金髪だったことを「若さ」だと捉えて黒髪に染め直すことが二度と叶わない。

 それでも自分が今ここで生きていることに、祐介は余計な疑念すら抱いた。生きるべくして生きたのはこれで二度目だと。だが、果たして自分は生きるべくして生きる人間なのかと。

「ええ、分かりました」

 努めて冷静に電話を切った祐介はようやく未怜を見た。

 そして、心配そうに祐介を見つめる未怜の真顔に刹那を感じ、余計に愛おしく思えてならなかった。

 内海は「洗い屋」における他者不介入制度の規約違反をした組織がいると、運良く現場にいなかった他の「洗い屋」たちに情報通達をしていた。そして、「この電話を切った瞬間からお前は洗い屋ではなくなる」とも言った。

 それに対し、了承をしつつ電話を切った祐介であったが、やはり心配であった。これまで幾度となく現場を共にしてきた仲間たちがまだ大勢いる。自分のようにこのまま内海の通達を受けて逃げ果せる者も中にはいるだろうが、渦中の者もいるだろう。

 祐介は未怜の顔を見ながら葛藤した。これまで歩んできた退廃を再び選ぶのか、或いは黙ってこの女の未来の為に全てから離れるのか。この世界の、闇に当たる部分の何もかもを知らないであろう未怜に、果たしてそれを気づかせてしまってもいいのだろうか。

 祐介は、これまでの清掃現場で幾度となく目にしてきた「飛び散った脳」を思い出していた。ただの赤白い肉塊と化したその脳は、幾ら血液中に含まれる酸素を与えても二度と機能しない。

 死とは、考えることを放棄したのと同然である。

 逆もまた然りで、考えを辞めた瞬間、人は死と同等の価値である生に囚われてしまう。

 次の一歩は己の生か死か、祐介には判断しかねた。

 それに、未玲を生かすか殺すかも賭かっている。

 戦局は刻一刻と悪い方へ流れていくだろう。

 何も分からずとも、祐介には状況がありありと見てとれた。

 敵は誰だ。ヤクザ屋か、殺し屋か、虐め屋か。元ワッパ屋で、今は法律違反屋をとっちめては金を稼ぐバウンティ屋もいると聞いたことがある。だが、そんな奴らが果たして洗い屋という絶対的不可侵組織に喧嘩を売るだろうか。

 そうなれば全面戦争はまず免れない。見つかってバラされ、ただの血肉にされ、その筋で生きてきた婆さんが隠居後の暇潰しで育てている家庭菜園のトマトに肥料として撒かれて終わりだ。となるとまさか、政治屋か?

 瞬時に巡った考えは零コンマ数秒にも満たない堂々巡りをまじまじと見せつけ、答えのない答えの深淵に足を踏み入れてしまったと祐介は悔恨した。見つけるべき答えの行き先を跳ね除け、原因を探ってしまったのだ。今考えるべき問いはそれでないとようやく悟った時点でまだ一秒も経っていない。

 未怜の目が瞬きの間の一瞬、閉じてまた開くまでのほんの僅かな間である。

 今考えるべきは、このまま正体を隠して逃げるのか、それとも仲間を見殺しにせずに一人でも多く助けるのか。その二択だった。

 その二択が浮かんだと同時に祐介は立ち上がっていた。不安的中した未怜はその理由を執拗に迫ったが、遂に祐介は答えられないまま靴を履いた。だが、ドアの前に未怜が立ちはだかった。

 それは、これまで自分の身を守ってきた筈の「秘密」が暴かれることによって相手を守り、対偶としての「秘密」がようやく姿を見せた瞬間だった。

 これまでそれらを隠して生きてきた未怜は、己の行動に対して己が最も狼狽していた。

 唐突に愛する者が不安げな表情のまま外へ飛び出そうとする姿を見て、自分が最も恐れていた表面的な過去が肉を得て現代に蘇ってしまったのだ。

 これから始まるであろう長い夜に身を任せる自信はなかったのだが、それでも祐介ならありのままを受け入れてくれると未怜は踏んだのだ。いや、それ以上に祐介はもっと大きな爆弾を抱えているのだろうと悟ったせいもある。

 どちらにしろ、未怜はそんな祐介の背負う大きな負担を少しでも減らそうと努力したつもりなのだが、かえって荷物を増やしてしまう結果となってしまったのだった。

「行かないで」

 未怜の懇願に、祐介が否定の吐息を漏らした。

「行くつもりなら、先に理由を言ってからにして」

 祐介の息に、未怜が条件を上乗せする。

 再び祐介が小さく息を吐く。

 漏れた口臭の、その煙草の中には微かに錆びた鉄の臭いが混ざっており、未怜は戦慄した。

 祐介がこれまで煙草で隠し続けた臭い。

 口から出たのは忘れもしない、紛れもなくあの日の臭いだった。

 銃口を口で咥えた時のような、最も近い位置に存在する死。

 それこそが錆びた鉄の臭いだとこれまで信じて疑わなかったのだ。

 しかし、その信じたくなかった筈のものがこうして実際目の前に現実として再び現れたことだけは、俄かに信じ難かった。

 未怜は祐介から一歩距離を取った。腰にドアノブが軽く触れ、それにすら怯える始末だった。未怜には、これまでに覚えていた違和感の全てが、愛した男のほんの吐息によって暴かれ、見透かされるのが不快極まりなかった。

 祐介は未怜の態度に何もかもを知った気になっていた。人間的部分を排除した、本能的部分、俗に野生の勘と言われるそれによって未怜は悟ったのだと。

 そして、祐介は思った。なぜ、彼女は自分の違和感に気が付いたのだろうか、と。ひた隠しにしてきた鉄の臭いがどうやら勘付かれてしまったようだとは分かったのだが、常人ならそれに気が付いても畏怖を感じることはないだろうと。

 或いは、単純に浮気を疑ったりだとか、想像の範疇での怒りを覚えるものではないのかと。しかし、未怜は明確に恐怖を持って後ずさりをした。

 未怜の根底に死が纏わりついているに他ないのだと祐介は悟った。

 そして、隙を見て祐介は部屋を出た。と言っても、急ぐ様子は見られなかった。未怜はついてこないだろう。祐介はなぜか確信を持ってそう思った。

 案の定、未怜は来なかった。


 線路沿いの暗がりを駅に向かいながら、祐介のニコチンは切れた。指先で太腿の裏を突きながら、歩く速度を速める。

 さっき言ったラーメン屋が更地になっていて、未怜はきっとこの道を帰ったのだろうということに気が付いた。

 暗く、陰湿とした空気が漂うこの道は普段、誰も使わない。

 皆、隣接する大通りを歩く。

 痴漢に注意と書かれた看板が軒を連ねていて、たった一つ筋が違うだけなのに、何もかもが変わってしまうのかと、祐介は世を憂いた。

 サラリーマン排出口に立ち、次の電車を待った。特急を一台挟み、各停。ぞろぞろと気怠げに降りる残業マンらを避けて乗り込む。きっとこの次に来る急行の方が最終的な到着時間は早いのだろうが、急いた気が早く乗って落ち着けと背中を押してきたのだ。急行の待ち合わせをする幾つか先の駅で乗り換えればいいだろう。今は「向かっている」という安心感を得ようと、祐介の中に芽生えた焦燥がそう言う。

 途中下車できない人生に足を踏み入れた事への後悔は既に薄れていた。それよりも早く問題を解決して誰でもない誰かになるのが先決だと思えたからだ。あわよくば未怜と逃げ切るのが本望だと信じていたが、抱えているものがものだけに、未怜だけが生き残る方が最善だと捉えた。

 自分が生きていれば永遠に追われる身だと既に気づいていた祐介は、それでもやはり常人とは比べものにならない程の落ち着きを保っていたのである。

 途中で急行に乗り換え、ぽつぽつとした空席に腰を沈める事なく祐介は扉の前に立ち続けた。それが金髪と女への贖罪か、居ても立ってもいられない自分自身なのかは定かでなかった。

 事務所の最寄りに着くと、心拍数の上昇が抑え切れず祐介を覆った。ここから先は一歩ずつ死に歩み寄ることになるだろう。理由なき死が眼前に迫っている。

 余りにも静か過ぎる雑居ビルの前を通り過ぎ、月極を覗いてみる。当たり前の事だが、バンは停まっていない。きっと、朝見たあの車のようにどこかでペしゃんこになっているのだろう。身を翻し、雑居ビルへ向かう。薄暗がりの冷えた階段を一段ずつ登っていく。

 登る度、カツンカツンと心底が凍える程に冷徹で空虚な足音がビル全体に響き渡った。

 事務所のドアの前に立つ。この時間帯、中には事務作業員が何人かと、役員が数人いる筈だ。あくまでも生きていれば、の話だが。

 気を奮い立たせる手筈を整える気力すら既に失っていた祐介は、突発的にドアを蹴破らんばかりの勢いで押し開けた。事務所内は鬱蒼とした森の中に似た暗がりを保っており、給湯室の換気扇だけが遠くから音を響かせていた。己の五感が研ぎ澄まされていることに気付く。あくまで平静を保っているつもりでそんなことを考えた。

 換気扇の音が零戦の爆撃音のごとく殺意を持って聴覚に襲い掛かる。

 電気を点けず、ゆっくりと中に入った。一歩、二歩、三歩、そこでようやく自分がどこに向かっているのか定かで無い事を悟る。とりあえずの目的地として自分のデスクを設定し、そこまで進もうとした八歩目、肉が足に触れた。同時に、暗がりの底から呻き声。

 祐介は最早驚く事すらなく、溢れ出そうになる涙をただ堪えた。

「すまない」

 きっとそこら中に転がっているであろう肉の全てに対して、祐介はそう唱えた。肉たちはどうせ「お前のせいじゃない」と言うだろう事すらも把握していたが、そう言わざるを得なかった。

 寸前まで生きていただろうが、いや、寧ろまだ生きているだろうが、彼らをどうにかする為の術は祐介にはなかった。

 きっと初めからそれは分かっていた筈なのだ。だからこそ彼らを救えない事も。

 祐介を突き動かすものは既に感謝ですらなく、間違った衝動のみであった。

 デスクの後方、非常用の懐中電灯を手にし、事務所を照らす。分かりきっていた事実に立ちくらみを起こしそうになった。

 無機質な事務用品の数々は鮮度の高い赤、赤、赤。

 赤に塗れていた。

 勿論、それらは祐介が着ている衣服にもいつの間にかべったりと付着していたし、それを隠す事もままならないくらいには汚れていた。

 自分のデスクを照らす。他のデスクより、一段と荒らされているのが分かった。きっとこれらを行なった人物ないし組織が自分の不在に違和を覚えたのだろうと祐介は悟った。事務所を飛び出る。自分の愚かさを恥じながら。

 相手が何枚も上手だということは電話の時点で気付いたはずなのに、どうして一人で家を出てしまったのか。

 事務所に自分の情報は置いていないが、そもそも事務所の場所すらどこにも出していない。なのに調べられ、明らかにされてしまったという事は、相手は個人を特定するくらい容易なのだろう。

 駅前まで走り、外でうだうだしていた運転手を口説いてタクシーに乗った。運転手は祐介の衣服に付着した血を見て拒否したが、恐喝まがいのやり口で乗車した。これもきっと結果的には電車の方が早いのだろうが、慌てた祐介が駅前に辿り着いた瞬間、最初に目に飛び込んできたのがタクシーだったからだ。


 赤信号の度、祐介は貧乏ゆすりをした。

 走っている最中もずっと、貧乏ゆすりをした。

 堪えられない膝の衝動が歯の奥にある脳を刺激した。

 無意識の反射を無意識の反射が受け止め切れず、崩壊していく自我が自責の念すらも奪い去っていこうと躍起になっていた。免れないであろう最悪の事態が迫る眼前に、ただ後部座席でその時を待つばかりとせん己の不甲斐なさが、あくまでも意味違いの感涙を齎した。

 そして、遂に祐介は泣いた。

 そんな祐介を、運転手はバックミラー越しで気味悪そうに見つめ、やはり乗せなければよかったと後悔した。

 タクシーが倒錯した夜の街を切り裂いてゆく。運転手は気もそぞろながら、努めて深くアクセルを踏み込んでいた。何にせよ、早く祐介から解放されなければと強い意志を持って。

 果てしなく感じる道のりはモンタージュのない映画のようであり、祐介を俯瞰からフィックスで捉えるカメラは恍惚な笑みを浮かべながらたったの二十四フレームを切り取り続けてゆく。

「ここで」

 落ち着きを取り戻したように祐介は嘘をついた。本心では「ここで止めろ」と強く吐き捨ててしまいたかった。

 投げるように金を払い、釣りを受け取らずに飛び出ると、部屋のドアを開けた。

 遠ざかるタクシー。助けてくれと咽び泣くようなエンジン音。

 がらんどうの部屋は暗く、祐介は一人、その中で身を落とした。

 馬鹿だった。迂闊だった。

 積年の想いが祐介を苦しめる。いずれこうなることは分かっていたのかもしれない。それでも今日まで何事もなかったのだからと安心してしまっていた。

 他人を信用してしまえば、苦しむのは自分自身だったのだ。

 電話が鳴る。終着音である。

「誰だ。一般人を巻き込むのは規則違反だろうが」

 電話口の声はニヒルな笑みを浮かべたことだろう。祐介の懇願に耳を貸さないことくらい、分かりきっていた。それでも祐介は一抹の希望に縋った。

 余りにも愚かで、それまでの自分を裏切るような行為ではあったが、そうしなければ世界の全てを失ってしまったのと同等の現状に我慢がならなかった。

「お前らのやっていることは間違っている。我々を巻き込み、一般人にまで手を出したのだから、それ相応の粛清を食らうことは重々承知しているだろう。だったらどうしてこんなことをする」

 激情した祐介の向こうから聞こえたのは、未怜のすすり泣く声であった。

「私のことはいいから、生きて。お願い」

 祐介は家を飛び出した。これ以上無いと思い込んでいた筈の後悔は地の底を突破してマントルを破壊し、マグマの中で大爆発を起こした。

 祐介は、自分が歩むべきは死ぬべき人生だと知っている。人の死を無かったことにし続けてきたのだから、自分がそうなったところで何も文句を言える立場では無いと。

 未怜にそのことを黙っていたのは後ろめたかったからでは無いとようやく気が付いた。自己犠牲ではどうにも済まされない現実があることをひた隠しにしたかったからなのだ。

 祐介はその事実から逃れ、自己保身に走っていた愚かな自分を罵倒し、嘆き、どこにいるかも分からぬ未怜を探しながら走り続け、早朝の駅前で事切れるように倒れた。

 前日の残業に気落ちしたサラリーマンが遅刻の口実にと祐介を助ける。遠くで鳴っていたサイレンはすぐに迫り、困憊して喋ることすらままならない祐介を担ぎ込むと、近くの病院へと向かった。

 人工呼吸器がセットされ、絶え絶えになっていた呼吸を取り戻す段階で、これまで知らぬ存ぜぬを決め込んでいた社会が手を差し伸べてくれている事実を祐介は無理やり受け入れる羽目になった。

 しかし、裏を返せばそれは祐介にとってこれまで以上の絶望を覚える要因にもなった。

 臭い物に蓋をする習性を持った社会という沼に足を踏み入れてしまったのだ。つまりそれは、未怜との決別を意味している。

 立ち上がる気力も無いのだから、未怜を探しに出ることすら出来ないだろう。それを誰かに頼むことも出来ない。奴らは自分が担ぎ込まれたことを知って、病院までやって来るだろう。抵抗することも無く、まるで弱き小動物のように殺されてしまう。

 これまで見てきた死体と何ら変わりはしない。死は無抵抗の象徴である。死は全てを受け入れた者だけに与えられる真の平和なのだから。

 祐介は静かに目を閉じた。

 未怜が生きていることを願いながら。

 その瞬間、救済を受けたのは、二人の余白そのものであった。

                   

              

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救済 @6nennsei

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