Ep.31 支援と約束

「あー、だめ。胃が痛い」

「イズ、大丈夫?」

 翌日、四時間目の授業を終え、校長室にむかう途中で、泉美はお腹を押さえながら呻く。

「別に喧嘩しに行くわけじゃないわ。金をくれというだけ」

「それが辛いっていうの。あたしの家、商売人だからお金のことについては、子どもの頃からホンッとにうるさかったの。セナにはまだそういうの、わからないだろうけど……」


 先を歩く星南が立ち止まった。

 ゆっくりと振り向くと、真剣な眼差しでまっすぐ泉美を射抜く。


「知ってるわよ。お金がどれだけ大切かってことくらい。だからこそ、実力でどうすることもできないお金のことで、みんなに全国への道を諦めてほしくないの」


 ほんの数秒、泉美と視線をぶつけ合っていた星南が、くるりとスカートを翻して、また歩き始める。


「遅れたら心証を害するわ。行くよ」


 彼女から心証を害するなんて言葉がでて、悪い冗談でしょといいたくなった。


 校長室は職員室の左隣にあった。第二グラウンドを見下ろすことができる窓側を背にするように、巨大な木製のデスクがあり、その前に応接用のソファセットがおかれている。

 校長のてい邦昭くにあきは、星南たちに三人掛けのソファをすすめ、自分はその向かい側のひじ掛けのあるソファに座った。額から後頭部にかけて毛量が極端に少なく、ほとんど地肌が見えている。耳の上と後頭部に残った髪は白髪のほうが目立っていた。恰幅がいいせいか、それとも校長という立場のおかげか、その立ち居振る舞いは実に堂に入ったものだった。


「須賀先生から簡単な話は聞いています。ラクロス部の今後の活動について相談があるとか」

 良く通る低い声で禎はいった。星南は背筋をのばしたまま、臆することなく校長にいった。

「はい。単刀直入にいいますと、部費を増額してください」

「増額。いくらぐらい必要なのですか」

「少なくとも、二百万円ほど」


 禎はそれを聞いて、面白い冗談でも聞かされたみたいに笑う。

「それは随分と金のかかる話だ。どうして、それだけの部費が必要なんですか」

「女子ラクロス部は、来月から地区予選が始まります。ですが、ラクロスは競技人口が少ないので、地区予選がすでに九州沖縄地区と広域で開催されます。その大会に参加するための旅費が必要になります。私たちは日本一を目標に活動していますが、全国大会に出場するためには、予選リーグ二試合、決勝トーナメント二試合の合計四試合をこなす必要があります。九州本土への往復旅費や宿泊代などを考えると、予選と決勝、それぞれ一人六万円から七万円は必要になります。二百万円は部員十一名、顧問、コーチ。合計十三名が四試合遠征するために必要な金額です」

「なるほど、よくわかりました。しかし、残念ながら、二百万円という高額の予算、いくら校長といえど、一存でポンと執行できるものではない。それに、他の部活とのバランスというものもある。女子ラクロス部が全国大会を目指しているのはわかったが、毎年、そんな高額の予算をつけていたのでは、とてもではないが、こんな小さな離島の高校は財政が持ちません」

「つまり、予算はつけられないということですか」

「ええ。今すぐに、二百万の予算の増額は無理です」


 きっぱりと断られてしまった。さすがの星南も、校長にこうもはっきりといい切られてしまっては、折れるしかないだろう。

 けれど、そうするとこれからの地区予選出場のために、部員たちは二十万近い出費を覚悟しなければならない。果たして、そんな高額な遠征費を自己負担してまで、ラクロスを続けられる部員が何人いるだろう。

 泉美は、星南が部活の設立時に、なぜあんなにも時間やお金のことに厳しい意見をいっていたのか分かった気がした。全国大会で戦うためには、お金も時間も、自分たちが想像している以上に必要だったんだ。


「わかりました。では、遠征費のことは部員たちと相談することにします。お時間をありがとうございました」


 最初から無理筋だと思っていたとはいえ、座ってから、まだ三分ほどしかたっていないのに、こんなにドライに物事が決まってしまうのかと、泉美は打ちのめされたような気分になった。

 三人が校長室を辞去しようとすると、校長は「ただし」と付け加える。


「我が校は部活動支援のための寄付金は制限していません。支援者が集まれば、あるいはあなたたちの遠征費を捻出できるかもしれません」

「わかりました。その方面も相談してみます」


 三人は丁寧にお辞儀をして校長室を後にした。昼休みの時間は、まだ三十分も残っているというのに、昼食をとる気分にはなれなかった。



 確かに、沖縄合宿のときは、ラクロス部員の保護者や商店会の人たちが後援会を立ち上げて、彼女たちの活動を支援してくれた。しかし、そのときとは予算の規模が一桁違う。いくら後援会があるとはいえ、数百万円もの寄付をするには会員が少なすぎる。


 この日の練習では、須賀は予選リーグの日程についての説明はしたが、具体的な遠征費については部員たちに告げなかったし、友美もそのことは練習中に一言も触れなかった。勘のいい部員なら、遠征費のことを気にかけていたかもしれないが、それをききにくる者は誰もいなかった。


 そのまま、その週の金曜日の練習まで、何事もなく過ぎていった。

 練習が終わると、泉美はいつもくたくたになっているのにもかかわらず、毎日実家の店を手伝っている。店を手伝わないと夕食にありつけないのが、椎名家のルールだった。

 金曜日だけあって、うしゃがりの店内はほとんど満席だ。奥の座敷では、近所の馴染みのおっちゃん連中が盛り上がっているし、常連客が陣取るカウンターうしろのテーブル席では、少し遅めの夏休みをとったらしい観光客カップルが、旅行中に撮った写真を肴に、楽し気におしゃべりしている。

 いつもなら「どこ行ってきたんですかー?」なんて、ちょこっと絡んで、地元民との楽しい触れ合いを演出するけれど、今はそういうノリになれない。

 結局、カップルとは大した会話もしないまま、二人は会計を済ませて店を出ていった。テーブルを片付けていると、カップルと入れ違いに誰かが店に入ってきた。


「いらっしゃいませー!」


 営業スマイル全開で振り向くと、そこにはスーツ姿の禎が立っていた。


「校長先生? どうしたんですか?」

「ああ、この間はどうも。そうですか、ここは椎名さんの自宅でもあったんですね。えーと、お父さんかお母さんはいますか?」

「父なら調理場にいると思いますけれど、呼びますか?」

 にこやかに「お願いします」と禎はいった。なんだろうと思いつつ、泉美は調理場にむけて呼びかける。

「パパ、校長先生が来てる。なんかパパ呼んでって」

「ええ、お前なんかしたのか?」

「しないよ! 多分……」


 泉美の父親が、困惑した顔で調理場から出てくる。泉美はすかさず、テーブルを拭いて禎に椅子をすすめた。泉美の父親がその向かいに座る。


「忙しいところをすみません。実は、いろいろと回っているところでして。椎名さんにも関係のあることなので、是非にと思いまして」


 禎はブリーフケースから一枚の用紙を取り出し、テーブルの上に置いた。

 そこには大きくこう書いてあった。


  -遊路高校女子ラクロス部アクルクス応援基金『夢星ユィミブシ基金』創設のご案内-


 ぎょっとした表情をしたのは泉美の父だけではなかった。泉美も目を丸くして校長を見た。


「これ、なんですか」

「我が校が女子ラクロス部を創設したのは、椎名さんはよくご承知だと思われますが、この度、後援会と私が発起人となって、女子ラクロス部応援のための基金を設立することにしました。ラクロス部の活動を支援するために、ぜひ、皆さんの力を借りたいのです。お店にはいろんなお客様もお見えでしょうから、このチラシを置かせていただけないかと、お願いにあがった次第です」

「いや、そりゃあウチとしてはもちろん協力させていただきますけど……」

「でも先生。女子ラクロス部はすでに後援会から活動資金を支援してもらっています。正直いって二百万円もの寄付を、これ以上島の人から募るのって無理な気がするんですけど」


 傍らに立って話を聞いていた泉美がきくと、禎は柔らかく微笑んで、まるで諭すような優しい口ぶりでこたえた。


「遊路島の島民は、なにもこの島の中の人だけじゃないんです。知ってのとおり、この島には高校より上の教育機関はありません。若者たちは、高校を卒業したら、みんなこの島を出ていきます。だから、日本全国にこの島の出身者は住んでいます。そして、彼らはとても郷土愛が強い人たちばかりで、全国各地に遊路島の郷土会組織があるんですよ。その郷土会の方々は、島民のために、そして、島を離れた若者たちのためにも支援を惜しみません。私は、この夢星基金に、全国の郷土会の会長を通じて、支援をお願いしました」

「でも、どうして校長先生自ら……」

「我が校の生徒が日本一を目指して頑張っている。それを支援するのは校長として当然のことです。あなたたちが活動しているグラウンド、校長室から良く見えるんですよ。子供たちが毎日、あんなにも必死になって頑張っているのに、大人である私たちが何もしてやれないなんて、そんな馬鹿な話はないでしょう」


 泉美は思わず涙がこぼれそうになるのを「ありがとうございます!」と、深くお辞儀をしてごまかした。

 禎は笑顔を浮かべたまま、泉美の前に右手を差し出して、力強い声で宣言するようにいった。

 

「椎名さん。あなたたちの遠征費用は、私が責任を持って何とかすると約束します。そのかわり、あなたたちも、私とひとつ約束をしてください。皆さんが掲げた日本一という目標、必ずや、果たしてください」

「はいっ!」


 泉美は禎が差し出した右手を両手で力強く握った。今すぐ、踊りだしたいぐらい、胸が高鳴っているのを必死に抑えながら。

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