Ep.29 星南と夏休み
自室の鏡を覗き込みながら、カンカン帽をかぶり美海は自分の姿をチェックすると、「よし」と頷き部屋を出る。
「出かけるの?」居間にいた母親がたずねる。
「うん今日、晩ご飯いらないから!」
お気に入りのスニーカーをとんとんと玄関の三和土に打ち付けて、星南との待ち合わせ場所にむかった。
今年の夏は、例年より雨が少ないようで、この日も絵の具で塗りつぶしたみたいに鮮やかな青空が広がり、ぽつぽつと綿雲が浮かんでいる。視線の端に広がる青い海が、太陽の光を跳ね返し、ゆらゆらときらめく。
青花海岸で行われているお祭りのステージでは地元のエイサーグループが舞っているらしく、賑やかな太鼓の音が風に乗ってここまで届いている。
自然と心が弾み、歩くペースが速くなる。
待ち合わせ場所にしていた青花港の公園にやってきた星南に、美海は小さく手を振る。
短いプリーツスカートに大き目のシンプルなカットソーをあわせ、頭には有名なスポーツメーカーのキャップを被っている。靴はよく見るキャンバス地のハイカットシューズだ。
「そういえば、星南の私服を見る機会って、今までなかったね」
「毎日部活してるから、別に服もいらないといえばいらないのよね。こっちに来てから買った記憶ないし。とりあえず、暑いし行こうか」
海沿いから内陸へとむかう道を二人で並んで歩き出す。遠くに聞こえていた祭りの喧騒も聞こえなくなり、代わりに遊路空港から飛び立つターボプロップ機のエンジン音が空気を震わせていた。
星南の自宅は青花地区の南のはずれにある古い木造の平屋で、家の周囲をガジュマルの防風林とサンゴの石垣で囲ってあった。
「入って」
玄関を入ってすぐ左の和室に通される。床の間の隣には立派な仏壇があり、線香の香りがほのかに漂っていた。
座卓に星南とむかい合って座る。すぐに、飲み物の乗ったお盆を持ったお婆さんが入ってきて、膝をつきながら美海の前にジュースの入ったグラスを差し出しながらいった。
「あなたが美海ちゃん? いつも星南と仲良くしてくれてありがとうねぇ」
トートガナシ、と手をついてお辞儀をすると、「気兼ねせずに、ゆっくりしていってねぇ」といいのこして、部屋を出ていった。
あけ放ってある縁側の掃き出し窓から、柔らかな日差しが差し込んでいる。部屋にエアコンはなく、古い扇風機が部屋の片隅で首を振りながら、二人に風を送っている。
「セナって、おばあちゃんと二人暮らしなの?」
「そうだけど」
「去年までは東京にいたんだよね? どうしてこの島に来たの?」
「どうしても知りたい?」
悪戯っぽい笑みを浮かべて星南がこちらを見た。美海が頷くと、星南は立ち上がって、すぐ後ろの仏壇から写真立てに入った一枚の写真をもってきた。映っているのは笑顔の女性だ。どことなく、星南と雰囲気が似ている。
「この人、わたしの母さん。この島の出身で、高校を卒業して東京に出て就職して、父さんと結婚したの。でも、わたしが小さい頃に病気で亡くなって、東京では父さんと二人暮らししてたの。父さんは仕事しながら、わたしをちゃんと学校に通わせてくれたし、家のことだってやってくれたし、すごく感謝してる。でも、少し前に再婚した義理の母とわたしがあわなくて。まあいろいろあって、自分なりに考えた結果、青松大高校を辞めて、こっちの高校に通うことにしたの。ばあちゃんは母方の祖母だから、父さんにも気を遣わなくていいし。まあ、家庭の事情ってやつかな」
「そうなんだ……」
「ミウはさ、この島でずっと暮らしてるわけでしょ。どんな感じだったの? 島の生活って」
星南にきかれ、今までの島の生活を振り返ってみる。けれど、この狭い世界にドラマティックな出来事が起こったことなんて一度もなかった。
「私だけじゃなくて、この島自体が、毎日同じことの繰り返しだよ。生まれたときから街は寂れていたし、子どものときに畑だった場所は今も変わらず畑だし。海は綺麗だけれど、それにもすぐに慣れちゃって、今は海で遊ぶこともあまりしなくなったし」
「毎日が同じことの繰り返しなんて、ヤンキー漫画の最初の台詞みたい。それで十六年過ごして、よくこんな素直な高校生に育ったわね。」
「ただ、私の性格が内気だっただけ」
二人して笑う。
まるで、ずっと昔から知ってい場所にいるみたいに、心が緩んでいく。しばらく、そんなふうに他愛のない会話をしていたら、唐突に星南がいった。
「ちょっと、外走ろうか?」
「こんな暑いのに?」
「暇だし。着替え、持ってきてるんでしょ?」
一応、星南からは練習するからといわれているので、着替えは持ってきている。
星南はこうと決めたら、自分から曲げることはないので、結局、美海は着替えて星南と一緒にランニングすることになった。
毎朝走っているのと同じ、環状道路を反時計回りに走る。中学校のある高台を越え、下り坂のむこうに新村地区の海岸線を眺める。引き潮の時間らしく、はるか沖合数百メートルまで砂州が続く、くじら浜が出現している。たくさんの観光客がくじら浜にむかって、まるで海の上を歩いているみたいに見えた。
やがて坂を下り切り、青々としたサトウキビ畑の中に、真っ白な外観の建物が見えてくる。手作りジェラートが人気のカフェ「ポロメリア」だ。店の前は人の背丈をゆうに超えるヒマワリが、太陽にむかって咲いていた。
星南がゆっくりと走るペースを落として、店の前で美海にいった。
「ここ寄っていこう」
「もしかして、セナ。走るのは口実で、アイス食べたかったの?」
美海が笑うと、星南はちょっと拗ねたみたいに「いいでしょ」といって、店の短い階段を登った。
色とりどりのショーケースを眺め、美海はいちごミルクと、マンゴーソルベを。星南はチョコチップとキャラメルミルクを注文した。
店内は冷房が効いていて、肌寒いほどだったので、二人はジェラートをもって屋外のテラス席にむかった。
サトウキビ畑を見渡す屋外テラスは風が吹き込んで、雰囲気もいい。席に座ろうとすると、隣に座っていた二人組がこっちをみて「あー、セナっちとミウじゃん」と驚声をあげた。
四人掛けのテーブル席に瑠衣と千穂が座っていた。
「どうしたの、ここで会うなんて珍しいね」
「うん、ランニングついでに寄ったの。いりえるたちはお祭り行かないの?」
美海がきく。
「夜に花火を見に行くよ。ちぃのお母さんに浴衣着せてもらうんだ。ミウたちはこの後、なんか予定あるの?」
「別に決まった予定はないけど」
「だったら、ちょっとこっちおいでよ。たまにはみんなでおしゃべりしよ」
瑠衣が手招きをして、席を詰めたので美海と星南は二人に同席する。
席に着くなり、瑠衣は美海をみて、ニヤニヤとした笑みを浮かべていった。
「ミウってさ、最近、なんかすごくイメージ変わったよね」
「そう?」
「うん。ミウって、これまでイズの横でちょこんとしてる、ちょっと暗い目の女子って感じだったじゃん。今はいろんな人と普通に話してたりするし、この前の合宿でも、結構友達作ってたりさ。うーん、なんていうか……彼氏できて夏デビューしちゃった女子高生感?」
「わかるかも、それ」千穂が手を叩く。「ていうか、本当に彼氏できちゃったりしてる?」
「するわけないでしょ、毎日毎日練習漬けなんだよ? そんな時間ないって」
「わっかんないよー。今はSNSとかで出会ったりとか」
ねぇ、と千穂と瑠衣が声を揃えた。
すると、ジェラートを口に運びながら、星南がいった。
「昔のミウのことは知らないけれど、わたしは変わらないものなんてないって思う。だから、ミウが変わることも当然なのよ。さっきも『昔から、この島はずっと変わらない』ってミウはいったけど、このお店も、ちょっと前まではなかったんでしょ? このお店ができたことで、ここにこうしてお客さんがきて、過ごしていく時間ができた。それだって変わったっていうことじゃない」
「確かに、ここって昔はくじら浜くらいしか名物なかったけど、二年前にお店ができて、なんとなく新村の人たちも活気出たよね」
「うん、おばあちゃんがお店のテラスでお茶してるのとか見ると、なんだかほのぼのしちゃう」
「昨日より今日、今日より明日。少しずつ変わることって、大切なことよ。ラクロスだってそう。たった一日で強くなんてなれない。でも昨日の自分を越え続けたら、いつか振り返ったときに、こんなに変われたんだって思えるのよ」
「セナっちがいうと、説得力あるなぁ」
瑠衣がしみじみという。
「なんだか、ラクロスやりたくなってきたね」
そういった千穂に、星南がにっと口端を吊り上げた。
「それじゃあ、今から2対2でもやる? ここから五キロほど走って戻ってからになるけど」
「ごめん、明日から頑張る」
それからしばらく、瑠衣と千穂の昔の話や、星南の東京での話など、時間を忘れておしゃべりをした。この島は都会とは違う。でも、与えられた時間は等しく同じだ。島には何もないんじゃない。ただ、見つけられていなかっただけ。
だって、今、こんなにも楽しいんだから。
「千穂、瑠衣」別れ際、星南が二人にいった。「お祭り、楽しんできて」
「そうだ、今度るいにドロー教えてくれない? るいも、セナっちみたいに上手にドローできるようになりたいから」
じゃあね、また休み明けに。そういって二人と別れた。
「帰ろうか」
西に傾き始めた太陽を見上げ、星南は元来た道を走り始めた。
「どうぞ遠慮なく、食べて頂戴」
食卓の上に、置ききれないほどの料理が並んでいた。
豚あばら肉の煮込みや、豚足。ソーメンの炒め物に、山菜や芋の煮物。魚の味噌焼きにアオサの天ぷら。とても、三人で食べられる分量ではない。
「気にしないでいいよ。残ったら、また次の日に食べるから」
さすがに気を遣ったのか、星南がいった。
「じゃあ、いただきます」
そういって美海は大皿から、豚の煮込みをとって口に運ぶ。ほろりと崩れるほど柔らかく煮込まれ、豚の脂がぷるりとして甘くて、絶品だった。
「すごくおいしいです!」
そういう美海を見て、星南の祖母は嬉しそうに目を細めて「トートガナシ」と手を合わせた。
「おばあちゃん。トートガナシって、島の言葉でありがとうって意味だよね? どうしてトートガナシっていうの?」
星南がたずねた。
そういえば、美海もあまり気にしたことがなかったが、今でも島の年配者はよくトートガナシを使うし、飲み会で集まると、大人たちは遊路献奉だとかなんとかいって、酒を飲みながら「トートガナシ」を連発している。けれど、なぜその響きが「ありがとう」に繋がるのか、考えたことがなかった。
「トートガナシちゅうのは、元々は島の神様を尊ぶ気持ち。島の神様に感謝して、今日も生きていることに感謝する言葉なの。カナシは加那志といって、愛おしいと相手を想う気持ち、感謝の気持ちを込めた呼び名なの。だから、トートガナシは、ただありがとうの言葉の代わりじゃないのよ。尊い人、愛しい人への気持ちを込めた、美しい言葉なの」
そういうと、星南の祖母はまっすぐに美海のほうを見て、柔らかに笑った。
「美海ちゃん、星南と、どうかこれからも仲良くしてやって頂戴。
食事のあと、青花港まで出て、星南と二人で海の上に打ちあがる花火を見た。
色とりどりの光を見つめて、美海は思う。
この島が変わらないなんて、大間違いだった。ゆっくりと、時間をかけて変わっていくものがあり、変わって欲しくない大切なものがあって、それを大事に守ってきた姿が今のこの島だ。
花火が終わると、港に出てきていた人々もぞろぞろと家路につく。
美海もそろそろ帰ると告げると、星南がいった。
「大丈夫? 道に迷ったりしない?」
「さすがに自分の島で迷わないよ、もう」
合宿で二度も迷子になったことをからかわれた。
公園の街灯に映し出された星南の顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えるのは、美海がそう感じているからだろうか。
「じゃあね。セナ、また月曜日に」
「またね。ミウ」
手を振って別れる。
しばらく歩いて振り向くと、星南は反対方向に歩き出していた。
「セナ! トートガナシ!」
両手を口元にあてて、星南の背中にそう叫んで、美海は回れ右をして走り出す。
いつもなら夜の闇に寂しげに佇んでいる見慣れた街並みは、祭りの熱にあれたれたように、束の間のざわめきに満ちていた。
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