Ep.10 職人とビギナーズラック

 前藤まえふじかえでは帰宅すると、すぐにTシャツに着替え、持ち帰ったクロスを手に家を出た。

 楓が住む前崎まえさき地区は島の南端にあり、青花地区に比べれば、民家も商店も少ない長閑な集落だ。近くに前崎漁港があり広い公園が整備されている。

 公園に到着すると、早速、今日の部活で星南がやっていた、クレードルの練習を始める。

 楓は昔から、いろんなことを分析し予測することが得意だった。

 クレードルひとつとってみても、様々な動作を試してみて、その結果ボールがどうなるのかを分析し、効率的な動かし方を考えるのは楽しかった。星南は「8の字クレードルを今日中にマスターしておくこと」という課題を部員全員に与えていたが、楓はすでに、8の字クレードルは習得して、今は走りながらのクレードルを練習していた。


 家屋も畑も、海さえもオレンジ色に染まる夕焼け空の下、無心でクロスを動かし続けていた楓の背後から「おーす」と、ハスキーな声で呼びかけられた。

 振り向くと、同じクラスのかじ英子えいこが、釣り竿とタモ網を担ぎながら、こちらに手を振っていた。楓は、わずかに頭を下げて無言の挨拶を送る。

 幅の広いヘアバンドで前髪をあげた英子は、謎のキャラクターがプリントされたTシャツと短いデニムパンツにビーチシューズといういで立ちだった。英子はツンと吊り上がった目を細める。


「聞いたで、カエちゃん。バレー部解散して新しい部活に入ったんやって? なんや、二年の移住者がえらい暴れとるってユッコが吠えとったわ」

 賑やかな性格が似ているからか、クラスでも英子と裕子がよく話をしているところは見かける。どういうわけか、普段口数が少ない楓に対しても、英子は(ほぼ一方的に)話しかけてくる。

「移住民として一括りにされるんもアレやし、目立ったことは勘弁してほしいわぁ」

 本人には目立ちまくっている自覚がないらしい。

 英子は、中学生三年生のときに関西からこの島に移住してきた。なんでも、父方の祖父がこの島の出身者で、釣り好きの父親が、ある日突然「俺は漁師になる」と宣言して、空き家になっていた祖父の家に住みはじめたという。

 彼女も両親もともに関西育ちであり、当たり前のように関西弁でしゃべりまくるので、島ではいやがうえにも目立つ。


「で、カエちゃんらが入ったっていう部活なんやっけ、えーと、ピクロス?」

「ラクロス」

 お絵描きロジックをするために部を潰されだのでは、いたたまれない。

「あー、それそれ。で、それってなんなん?」

「サッカーとラグビーとバスケを足してさらにホッケーをかけた感じ」

「カオスすぎやろ。フィールド競技なんか? ポジションは?」

「決まってない。練習もまだ基礎レベルで全員初心者。しかも、目標は日本一」

「マジで!? ほんで、行けそうな感じはあんの?」

「まだ公式戦に出るメンバー足りない」

「どないやねん! そんなんで大丈夫かいな」

「わからない、でも……」


 いいかけて、楓は口をつぐんだ。今、ここで英子にする話題でもないと瞬時に判断して、無理やり話題を変えることにした。


「エーコは今から釣り?」

「せや。晩飯釣ってこいって、おとんにいわれてん。漁師やねんから自分で釣れよな、ホンマ」

 嘆息しつつ歩き出した英子が、思い出したように振り向いた。

「よかったら一緒にいかん? 教えたるで?」

 今から悪戯でもしに行く? みたいなノリで、英子が誘った。ほんの少しだけ考えて、楓は「うん」と頷き、小走りで英子のあとを追った。


 漁港を西に行くと、「サザンクロスホール」という建物が見えてくる。ホールなどとたいそうな名前がついているが、要するに地区会館だ。国内ではこの島が南十字星が見える北限になっていて、その数少ない観光資源を生かそうと、地区会館内に、南十字星にまつわる様々な資料が展示されてある。

 ただ、南十字星を見たいという観光客は、まず間違いなく、ここよりも知名度も高く、アクセスが良い石垣島や宮古島に行く。南に行くほど、南中高度が高く南十字星がよく見えるのだ。一方、北限のこの島では、上側の三つの星は比較的よく見えるが、一番下の一等星アクルクスは、南中時以外はほとんど水平線下にあるため、限られた期間のうちの、わずか数分間程度しか、完全な南十字星を見ることはできない。

 そういうわけで、この「サザンクロスホール」も、観光客がまばらに訪れる以外は、年中閑古鳥が鳴いている。

 

 英子はサザンクロスホール裏手の海に突き出た岩場を、ひょいひょいと軽やかな足どりで進んでいく。たどり着いた岩場の先からは、輝くオレンジ色と紫に塗り分けられた海と空、そして残照に照らされた朱い雲が薄い筋を引いて広がっているのが見えた。


「いうてるまに暗くなるし、ちゃっちゃとやってしまお」

 英子は伸縮タイプの竿をするすると伸ばす、長さは身長の倍ほどもありそうだ。


「エーコ、餌は?」

 堤防ではよく餌の入ったカゴつきの仕掛けで釣っている人を見かけるが、彼女の竿にそれらしき仕掛けはついていない。

「ああ、餌はいらんねん。ルアーを使うから」

 釣り糸の先には針のついた金属製の魚のようなものがついている。

「これを海の中で小魚に見立てて動かして、餌やと思って食いついた魚を釣るっちゅう寸法や。せっかくやし、やってみるか?」


 英子が竿を差し出す。それを受け取り、しげしげと眺めていると、英子は楓の右手をとってリールへと誘導する。

「右手は中指と薬指の間でリールを挟んで握って、人差し指でミチイトを押さえながらベールを起こす。で、左手で竿尻を持ったらゆっくり肩に担ぐ感じで構えて……振るっ!」

 一本の竿を二人でキャストする。しかし、勢いよく飛んだルアーは、わずか十メートルほど先の海中に、とぽんと波紋を作って沈んでいった。


「ははっ、ちょい力み過ぎたな。まあ、要領はわかったやろ? コツとしては、しっかりルアーの重さを感じつつ、ロッドのしなりを使って飛ばすことやな。あと、肩や腕の力に頼って振り回すんやなくて、左手を軸に手首を柔らかく使って投げる感じ。ようはテコの原理や。ちょっと貸してみ?」


 英子が腕の振りと竿のしなりを使ってキャストしたルアーは、五十メートル以上も先の波間に小さな飛沫をあげて海に落ちた。


「すごい……」

 思わずため息まじりにいうと、英子はまんざらでもなさそうに「へへっ」と笑う。

「リールを巻くときも、魚の動きをイメージするんよ。竿先と糸に伝わるルアーの重さを感じて、いまどんなふうに動いとるか想像しながら巻くスピードを変える。そうすると、案外、ヒットするもんやで」


 英子の助言をもらいながら、何度か竿を振ると少しずつコツが掴めてきて、彼女ほど遠くには飛ばせずとも、沖合のリーフの切れ間くらいを狙えるくらいにはなった。


「カエちゃんはホンマ要領ええなぁ。ウチ、カエちゃんのそういうところ、憧れるわ」

「憧れる? 前藤に?」

「なんつーか、黙々と仕事をこなすって感じ? ほら、ウチって常ににやかましいやん。結構、真面目にやっとるつもりでも、すぐちょけとるっていわれるし。だから、憧れっちゅうか、うーん……好き、かな。やっぱ」

 ニカっと笑って英子がいう。「ちょけとる」の意味はわからないが、多分、ふざけているって感じだろう。それよりも……

 楓の胸が弾むように脈打っていた。誰かに「好き」だなんて、今まで一度もいわれたことがなかった。

 思わず英子を見て、リールを巻く手が止まった。と、そのときカツンと何かに引っかかったような手ごたえが竿先に伝わる。はっとしてリールを巻こうとしたが、急に重くなって巻けなくなった。

「エーコ、ごめん。引っ掛けたかも」

「ん、根がかりか? 手前は結構サンゴあるからなー、止めると引っかかるんよ」

 英子に竿を渡そうとして立てた瞬間、まるで海の中に吸い込まれるような勢いで長い竿がぐいんと曲がった。

ちゃう! 食っとる!」興奮した声で英子が叫ぶ。「絶対、手ぇ放したらアカンで!」

 楓を後ろから抱きしめるようにして、英子が一緒に竿を握る。ドラグがシャーッと音を立て、糸がどんどん出ていく。

「竿、大丈夫⁉ 折れない⁉」

「わからん! 折れたらそん時や! それよりも、海に引きずり込まれんように、しっかり踏ん張ってリール巻いてや!」

 英子がぐっと後ろに体重になり、楓と竿を同時に支える。楓はとにかく力いっぱいリールを巻こうとするが、岩と引っ張り合いをしているように固くて動かない。

「ダメ、巻けない。切れちゃう!」

「サンゴに潜られたら終わりやで! 魚と綱引きしても、人間のほうが分が悪い! けど相手も生きモンや! おもっくそ抵抗してるときに、ちょっと楽できる方があったら、そっちに逃げたなるやろ⁉ 魚が逃げたくなる方向を、あえて作るんや! で、寄ってきた隙に糸を巻く!」

「やってみる!」

 サンゴの少ない砂地側に魚が逃げるように竿の弾力を使って角度を変える。そして糸が一瞬緩んだら目一杯リールを巻く。それを繰り返して魚と格闘すること約五分。ようやく海面に魚影が映り、英子は持ってきていたタモ網を手に、岩場の淵まで降りていく。

 楓との戦いですっかり弱り切った魚は、最後の抵抗とばかりに水面をバシャンと叩き、英子の差し出す網の中に納まった。釣れたのは五十センチほどもある、地元でアカジンミーバイと呼ばれる魚だった。


「こんな魚、狙ってもなかなか釣れんで⁉ おまけに高級魚や!」

 岩場に横たわった、真っ赤な魚体を見下ろしながら、英子は興奮していった。

「これ、持って帰って刺身にしたらええわ。うまいで」

「……いい。前藤、魚苦手」

「それでよう釣りしたな!」

 アカジンミーバイとのファイトですっかり体力を使い果たした楓は、膝に手を置きながら、少しだけ嬉しそうに息を弾ませる。

「それ、エーコにあげる」

「マジで⁉ ホンマにええの⁉」

「うん。その代わり、前藤のお願い、きいてほしい」

「もちろんや。なんでもきいたるで」

 楓は、ゆっくりと両手を膝から離してまっすぐに立つと、英子を見上げながらいった。


「エーコ。助けて」

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